セックスと出産

 昨日の記事にブックマークコメントをいただきました。おもしろかったです。ありがとうございます。
 特にid:SeiSaguruさんのが、おもしろかった。

SeiSaguru ふむふむ。子どもを産むの神秘的な部分と、その前の生々しさの問題にも思われる気がする…。自分の場合は「産まない」を決定したくないかな…すると子を授かった時、それが不幸に感じてしまうから…。

これはid:kanjinaiさんの記事とも関連するかも。
 セックスが、享楽の象徴として扱われるのは、行為自体に意味を持たないからである。つまり「楽しむ」、それ以外には何もない。生産性もなく、なにかに貢献することもない。もちろん、これは理念的な「セックス」の概念であって、実際には、私たちは意味づけをしている。愛し合う二人の神秘的結合間だとか、物理的痙攣とか、そのとき得る快感を記述し、「いかに、私にとってセックスが意味のあることなのか」を主張しようとする。しかし、本質的には、セックスには確定記述できるような意味はない。むしろ、別の確定記述に置き換えることができるようになったときに、それはセックスでなくてもよくなる。無意味で空虚であるにも関わらず、それを求めるとき、セックスの輪郭が描かれる。
 ところが、セックスに意味が充填されることがある。それは、結果的に子を孕むセックスである。子を産むにしろ、中絶するにしろ、セックスは「享楽するその瞬間」の無意味さを失い、「神秘的な生命の誕生」として意味づけされる。セックスがセックスでなくなる行為が、妊娠である。そして、妊娠は、誰にもコントロールできない偶発的な行為である。
 これに、極めてよく似た行為が「悪意のないレイプ」である。現在、ほとんど話題にあげられることはなく、あげたところで感情的な反発を生むであろう性暴力の一形態である。加害者は、レイプしているとき、それがレイプだと知らない。あとから、被害者が「あのとき、私は辛かった。あれは私にとって暴力だった」と告発することによって、事後的に構成される。加害者は、情報を得たり、被害者やその他の人々との関わりの中で、「あのとき自分はレイプしていた」ということを知る。*1これは、セックスしを「享楽するその瞬間」の、<私>の行為が、<私>にはレイプがどうかわからない。「レイプが、<私>にとって偶発的な行為となってしまう」ということだ。そして、セックスは「性暴力」という意味が付与される。
 子を孕んだ人にとっても、レイプされた人にとっても、セックスは「享楽するその瞬間」とは捉えられず、「生命の誕生の瞬間」「性暴力の被害にあった瞬間」と捉えられる。つまり、セックスがセックスでなくなってしまう。ここが、妊娠と性暴力にとっての交差点になるのではないか、と考えた。

 あと、瑣末な問いへの答え。

HDPE 最近は出産を「子産み」というの?

私は「子産み機械」なので。あれ以降、私の中では子産みとなりました。

*1:レイプにまつわる言説で、こういう事例に触れたものはほとんどない。しかし、DVにまつわる言説では「自分が悪いことをしている」と自覚できない加害者が、よく登場する。そして、被害者の肉体に暴力をふるい、酷い罵倒をして傷つけるような加害者が、セックスのときだけ暴力をふるわないなどということは、あまり期待できない。しかし、被害者にとって、性的暴力があったことを口に出すことはハードルが高い。また、DV支援の現場でも性的暴力に対するサポートは、まだまだ準備されていないことが多い。これから、親密な間柄でのレイプは、DV支援において、取り組むべき課題になっていくだろう。