訃報・太田省吾さん

 情報源がmixiというのも情けない感じだけれど、「太田省吾コミュニティ」に入っていたため、速報が入ってきた。私は演劇の世界と離れているので、がんで闘病中だということさえ知らなかった。
 太田さんと言えば、沈黙劇が有名で「駅」シリーズや、「小町風伝」が代表作になると思う。私自身、ビデオでしか観れなかったが、「水の駅」の、スローモーションで傘をゆっくりと降ろし、口を開けた女の人の像と、ゆっくり流れる「ジムノペティ」と水のちょぼちょぼ滴る音は、すぐに連想できる。

 たしか、最近、ベケットの演出を手がけていたはずだけれど、見逃してしまった。太田さんの演出する作品を、一度は生で観ておきたかったと公開した。
 私が、一度だけ太田さんの姿を拝見したのは、川村毅「近代能楽集」でのアフタートークだったと思う。川村さんと噛み合わない太田さんに、「なんだかなあ。」とか生意気なことを思って、帰った。

 しかし、そんなことを言いながら、第一期の「舞台芸術」の巻頭を飾っていた太田さんの文章は、必ず読んでいた。煮詰めて搾り出すようなギチギチの言葉の運びが好きだった。一部、手元にあるログから引用する。

 現在の日本の文化(政治的思考もふくめ)は<わかりやすさ>が要請され、あるいは強制されている性状にあり、<わからない>ものは忌避され、劣等にランクされる。
(中略)
日本に生まれた私は、民族独立戦を闘っているような人々に抱かれているような、<よきナショナリズム>を知らない。<ナショナルなもの>をほとんど<思考停止点>をそこに設定することによって得られる<わかりやすい><自信ありげな>態度としてしか感じられず、それへの気味悪さと不信を感じてきた。

太田省吾「<ナショナル>なものへの疑い」『舞台芸術07』京都造形大舞台芸術センター、2004年、5〜6ページ)

 私は、ナショナリズムというのは線引きの衝動だと思っている。内側と外側を区切り、どこまでが自分の手の届く範囲なのか確認することだ。どこからが敵で、どこからが味方なのか。実は、国境があいまいになればなるほど、ナショナリズムは欲望される。ナショナリズムの本質は、文化でも血縁でも宗教でもない。どこまでも広がっていきそうな、自分の身体感覚を区切り、自分を確認しようとする、自己撞着だ。撹乱される自他の境目を、<わかりやすい>目に見えるものにしようとする。
 というようなことを、太田さんの文章を読んで考えていた。まさか、数年内に亡くなるとは知らず、もっと長く太田さんの文章を読み続けられると思い込んでいた。

 驚きました。冥福をお祈りします。