近況

 ベルギーはすっかり冬に入ってしまいました。霧が立ち込めて寒いです。帰国が迫っているので、最後にあちこちどこかへ行きたいと思いつつ、外を見ては「今日は家にいよう」と思う毎日です。最近、谷川雁を熱心に読んでいるのですが、こんな一節がありました。

(前略)いま森のなかは露がいっぱいなのです。雨が降っているわけではありません。夜明けから霧が立ちこめ、樹々の葉をぬらし、梢のほうから順に下のほうへ、階段を三段くらいずつ跳びおりるように、ぽたぽたしたたっています。森の全体にやわらかい小さな打楽器の音がしています。

 これがこの辺りの〈つゆ〉の基調なのですね。梅の木はありませんから、梅雨じゃない。遠くの雷はあっても、驟雨にはなりにくい。すっぽり霧をかぶってぬれている日々がつづきます。この霧をうっとうしいと見るか、美しく動く白い素材と見るかによって、この地方の六月の風景観は一変することになります。(25-26頁)

不知火海への手紙

不知火海への手紙

  • 作者:谷川 雁
  • アーツアンドクラフツ
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 谷川の書いているのは、彼が50代で移住した長野・黒姫の六月の霧についてです。ここで述べられているのは緑の茂る黒姫の初夏の霧のことであり、今のベルギーの十二月の霧とは別物でしょう。でも、正直、ベルギーの霧を「うっとうしい」(私はいつも1時間、歩いて街まで出るのです)と思っていた私は、ちょっと反省したのでした。もちろん、私もこの地に来た直後は、霧が立ち込める農場をずっと眺めていたくらい、とても美しいものだと感じていました。でも、生活のなかで人間の利便性を基準に自然を価値づけるようになるまで、あっという間です。それはそれで、私の生きる現実でありつつも、違う目で風景をとらえることを忘れずにいたいと改めて思いました。

 それはともかく、この「不知火海への手紙」は私はこれまで手に取ったことがありませんでした。谷川といえば、切り詰めた言葉で綴られた詩や、観念的な運動論がよく知られていると思います。たしかに彼は左翼運動のスター詩人であり、筑豊の労働運動のリーダーでした。同時に、こうして彼の書いた後期のエッセイを読むと、独自の言葉で自然をとらえていく文章は優れており、ネイチャーライティングの名手でもあると感じました。「なぜ、谷川雁に熱中するのか」は自分でも謎ですが、もう少し読んでいくつもりです。私は文章が上手い人が好きだ、という理由に尽きるかもしれませんが……

 WebメディアModern Timesの連載では、高畑勲宮崎駿の「太陽の王子ホルスの大冒険」を取り上げました。この作品は、今は懐かしい社会主義リアリズムにのっとって作劇されていますが、若き映像作家たちのコントロールを外れて、いくつもの破綻があります。その一つが、ヒロインのヒルダでした。そこにこそ、この作品の魅力があると論じています。こうやって、シリーズで書いていくと、私の芸術観は「作品が破綻した〈そこ〉から光り輝く真の芸術性を生み出す力が、アーティストの天才性である」というオーソドックスなものだなあとしみじみ思います。ちょっと古臭くて保守的なくらいです。そんな話をこうして好きに書かせてくれるModern Timesさんには頭が上がりません。この記事は特に掲載してもらえて嬉しかったです。

www.moderntimes.tv

 ところで、インターネット上で論争相手や、思想信条の違う人に対する「からかい」の行為の是非が議論されているようです。私の記事も引用されていました。

davitrice.hatenadiary.jp

 確認すると、私がTwitterのアカウントを削除したのはベルギーへ出立する5日前でした。その後、私は国内学会にも出席しておらず、こうした「からかい」の文化ともほとんど接することがありませんでした。その結果、精神的に安定し、研究に打ち込むことができました。個人的には、このような文化とは距離をとってよかったです。

 私は「からかい」という行為のなにが面白いのかよくわかりません。美しいものが生み出されるわけでもありませんし、学術的には無価値です。それでもたくさんの人が「からかい」の行為を続けたいと思うということは、たぶん、そうすることで「楽しい」と感じる人たちがいる、ということでしょう。なので、「からかい」を続けたい人たちは、そのコミュニティ内で楽しむと良いのではないでしょうか。

 幸い日本のアカデミアでも、同世代や若い世代の研究者のなかには、もっと安心して議論できる場を作りたいと思っている人たちはいます。お互いに敬意を持って、建設的なフィードバックを送り合うような研究者のコミュニティを作ることは可能です。私もまだ不安定な身分ではありますが、自分たちの新しい研究のアイデアを形にしていくことのできる場を拓いていくことに貢献したいです。もちろん、従来の「厳しい議論」や「糾弾型議論」が好きな人たちもいるので、その人たちはその人たちで、私たちは私たちで、研究を進めていくのが良いと思うようになりました。「べき論」に陥らず、学会報告や論文といった「目に見える結果につなげる」という目的を、しっかりと見据えていきたいと考えています。