どこにもいない「母」を求めて

 昨年の12月に、「ユリイカ」が「母と娘の物語――母/娘という呪い」という特集を組んだ。

信田さよ子上野千鶴子の対談も、掲載されている。信田さんは、昨年、「母が重くてたまらない――墓守娘の嘆き」を出版している。
母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き

母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き

信田さんは団塊の世代の女性に焦点を当てる。彼女たちは、娘の人生を通して、自らが成し得なかった「女性の自己実現」を達成しようとする。


 かつて、母―息子間の関係性が、問題化されたことがある。母親は、息子を意のままにコントロールし、(彼女のイメージする)「理想的な人生」を押しつける。そして「息子を立派に育て上げたこと」が、母親の価値なのだ。「孟母三遷」と故事成語が引き合いに出されるような、この息子の出世に全力を注ぐ母親像は、社会的に構築されたものでもある。こうして密着状態にある母―息子関係で、子どもが自立を阻まれたり、個人として扱われないことにより、精神的に傷つくことが明らかにされた。また、このような関係性におかれた息子は、「マザコン男」と呼ばれた。女性の側にとって、パートナーの男性が、この母―息子関係から脱却しているかどうかは、重要な問題になる。
 それに対して、母―娘関係は、父親を挟んだ敵対的関係であるという問題化がされてきた。上野千鶴子は『発情装置』に収録された「DADDY'S GIRL」(初出は1987年)で、自らの親子関係を、ニキ・ド・サンファルの作品批評を交えながら、エッセイとして書いている。「DADDY LOVES ME」「I DOMINATE DADDY」「MUMMY HATES ME」「MUMMY HATES DADDY」「I LOVE & HATE DADDY」というサンファルの映画の5つの小見出しを用いた、短い文章だ。赤裸々であるし、文学的でもある*1ので、興味のある人はぜひ読んでみてほしい。父親の寵愛を通して、誘惑して相手を支配する術を身につける娘。娘は<ダディの娘>になり、母から父を奪い、憎まれる。しかし、娘はすでに、母の姿を見て、「愛されることと支配されること」が結びつくことを知っている。サンファルはこうした関係を映画に撮る。そして映画の最後で、サンファルは、娘が父を裏切り、母と結託するような女同志の連帯を描いてみせる。その場面では、「母と娘は、父の棺を前にして、二人で哄笑している」*2のだ。上野さんは、次のようにこのエッセイを締めくくる。

 ダディ、お望みながらあなたをダディと呼んであげる。あたしはこの文章を書いてみて、自分が<近代家族>の中で生まれ育ったことがほんとうによくわかった。ダディ、あなたがあたしを愛してくれたからあたしはあなたを憎んだ。あたしはママを裏切ったせいで、ママから憎まれるはめになった。あたしがママを求めていたとき、ママから受け容れてもらえなかった。あたしは危うく「父の娘」になるところだったけど、からくりがわかっちまったから逃げ出すことにした。でもおかげで、父権制ごと<近代家族>を葬ってしまって、あたあしはどんな<家族>をつくればいいか、わからない。
 でも結局、ニキが言うように「あなただって他のダディより悪かったわけでも、良かったわけでも」[スペース・ニキ編 1980 : pp.42-43]ないのよ。
 DADDY, I LOVE YOU!

上野『発情装置』188ページ

それから20年後*3、上野さんは<近代家族>から逃げ出した/逃げ出したい人のために「おひとりさまの老後」を書いた。

おひとりさまの老後

おひとりさまの老後

上野さんの、「私は子どもを産んでいないから、<親の気持ち>はわからない。その代わり、親になったら忘れてしまう<子どもの気持ち>は持ち続けられる。ずっと子どもの立場に居続ける」という発言を聞いたことがある。上野さんは、「おひとりさまの老後」で、がんになった父を看取った経験もつづっている。上野さんの、娘として生きるために考え続ける姿勢は、一貫している。


 だが、皮肉にも、信田さんが描きだしたのは、母―娘の密着関係である。上野さんが<娘として>は果たせなかった、母と娘の連帯を、同世代の女性たちは<母親として>果たすのである。母親は、「あなたのためを思って」「お母さんの言うとおりにするのが一番いいのよ」と、かつて息子に向けられた言葉を、娘に向ける。娘は成長し、実家から出ようとしても、なぜか出られないという状況に陥る。そんな娘に、母親は、ポツリと「私ももう長くない」と哀れにつぶやく。そして、娘は「ああ、お母さんをひとりにしておいてはいけない」と<自ら>思いをめぐらせ、密着関係を継続させるのである。
 上野さんと信田さんの「ユリイカ」での対談は「スライム母と墓守娘」というタイトルがつけられている。母親の、スライムのように、のっぺりと娘の出ていく道をふさぎ、包み込むように支配するさまを取り上げている。上野さんは、「生涯に一人だけ子どもを産むとしたら娘と息子、どちらが欲しいですか?」という質問に、東アジア儒教圏の中で日本だけが唯一「娘」優位だというデータが出たことを示す。「息子選好」が「娘選好」に逆転したのは1980年代半ばである。これは、娘のステータス上昇ではないと、上野さんはいう。

上野  ただし、わたしは八〇年代半ばに娘選好に転換したことが、娘のステータスの上昇だろうかとずっと考えてきて、結論から言うと、そうではないと思います。ひとつには超高齢化社会への不安感が娘選好を強めたこと、もうひとつは教育投資を含む子育てのコストの高さと困難が娘選好を導いたのだろうと。つまり、息子だったら子育てに失敗が許されないけれど、娘は耐久消費財として子育てが楽しめる。結局、それは子育ての無責任化ということなんですが。
信田  厳しいこと言うなあ(笑)。よくわかるけど。
上野  少子化が進めば進むほど、子どもは生産財から耐久消費財に変わっていきます。耐久消費財に変わる節目のところで、同じ耐久消費財ならば息子より娘のほうが選好される。娘ならカワイイ格好をさせて、一緒に遊びに行けて、話題を共有できますから。
信田  子育てに失敗したとしても、最後は結婚させればいいわけだし。

信田・上野「スライム母と墓守娘」77〜78ページ

そして、母親は、大学進学のための教育コストをパートで稼いで娘に尽くす。その見返りに、娘の進路を母親はコントロールすることで、「女性の自己実現」を果たさせようとする。「お母さんの時代には、女は大学にいけなかった。でも、あなたは、お母さんの力で大学に入れてあげるからね」と献身的にサポートするのだ。このとき母親が描くのは、仕事も家庭も両立しているという、理想の女性像である。こうして、女性の抜本的な地位向上なしに、女性の大学進学率の上昇が可能になったという。

上野  (略)彼女たちの背後に母の執念がないと、娘の高学歴化は成り立たないと思っていましたので、彼女たちが工学部や経済学部に行かず、法学と医学という実学を選んだ*4ことに、彼女たちの母の世代の絶望と怨念を感じました。母親の世代は組織社会の中に女の居場所がないことをとことん知っていますからね。だから、「手に職」という自立して個人営業できるものしか、娘に勧めないのでしょう。
信田  わたしみたいにね(笑)。
上野  そうそう(笑)。男性支配の組織社会から自立したところでやれる資格職しか選ばせていない。このところ医師国家試験合格者の女性比率が三割に達し、司法試験の合格者の女性比率も三割を超えています。それが九〇年代の高学歴化の帰結です。本当に実学志向なんです。そしてそれは母のサポートなしにはありえなかった
 そういう傾向を見ると、今どきの女の子たちがかつての娘たちよりも、もっと重い荷物を背負うようになったという感慨を覚えます。娘が息子と同じような社会的達成だけでなく、娘としての成功、つまり妻になり母になるという両方を叶えなければ、女性として充分ではないというメッセージを、母親から間断なく送りつけられるようになったんです。
信田・上野「スライム母と墓守娘」78〜79ページ

対談は、こうした母親たちの今後に話題が移っていく。60代の女性である彼女たちは、「こころの友」を探し始めるのだという。自分をまるごと受け入れてくれる存在としての「親友」を求めるのだ。この話を紹介する信田さんに、上野さんは仰天して、「まるごと受け入れてくれる存在なんていない、と学習することが成熟なんじゃないか」と質問している。信田さんも「(そんな願望を持っているのは)わたしじゃないから、わたしにきかないでよ」と苦笑気味だ。*5上野さんは、この女性たちが「おいらくの恋」のような、異性愛に向かわないことにも疑問を持つ。

上野  彼女たちがそこで異性愛に向かわないのは、セクシュアリティの自己抑制があるからでしょうか?それとも夫を通じて、とことん男にうんざりしているから?
信田  それはありますね。その辺のタガがちょっと外れたのが韓流ブームだったんじゃないでしょうか。
上野  ヴァーチャルに解放されたと。しかし、それを聞くにつけても、六〇代以上の日本の女性というのはセクシュアリティから何から、あらゆる面において抑圧された人たちなんですね。
信田  抑圧されたということがわかった世代ですよね。その前はそれすらわからない、だから抑圧すらなかった世代じゃないですか。この大量にいる何ともいえないスライムのようなおばさん群はそういった意味では先駆けで、それがどっちに向かっていくのか。やっぱり娘にアイデンティファイする方向に行くのか、タガが外れてセクシュアリティのほうに醜悪なかたちで突っ走るのか。たぶんセクシュアリティの方面にはいかなくて、やっぱり「こころの友」というわけのわからない思春期再び的なものに落ち着くんだと思います。
上野  「こころの友」を求めても、実際に必ず挫折するでしょ?
信田  あの人たちは挫折なんてなくて、転んでもすぐ起きますからね。
上野  挫折も学習もしないんですか。信田さんのほうがわたしよりずっときびしいじゃない(笑)。それは結局そういう母親世代の女性たちを集団として社会から排除した日本社会のツケなんでしょうね。
信田  ツケなんだ!(笑)でも、たしかにそうですね。いい結論が出たところで終りましょうか。

信田・上野「スライム母と墓守娘」87〜88ページ

こうして、対談は締められている。ここであげられる「墓守娘」とは60代の母親の娘たちであるから30代〜40代くらいだろうか。母―娘関係に支えられ、女性の自己実現を果たした層である。「勝ち犬」「負け犬」という言葉にあるように、両者は仕事か家庭かの選択を迫られてきた。その結果、お金を持った独身女性と、子どもを産んだ既婚女性に二分化される。ところが、彼女たちに向けて、勝間和代のような人は、「既婚女性でもお金を稼げ」「独身女性も結婚しろ」と両立を求める。<どちらか>から<どちらも>へ。一見、女性がより多くの選択肢を持つことで、より自由に、より豊かな人生を送れるようになったとみえるかもしれない。だが実際には、女性により大きな負担がのしかかるのだ。


 先日、より女性の自立が進んでいるとみられる米国での、ショッキングな調査結果*6がネットで話題になった。

「どんどん不幸になっていく米国の女性たち」
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/2088

世論調査で、「以前より幸せでない」と感じる女性が8割を超えているというのだ。この記事では、米国で、次のような理想像が女性に押し付けられていることを原因に挙げる。

理想の女性像とは、頭が良く、数カ国の語学を操り、高学歴で、男性と対等に仕事をこなし、高収入で、しかも男性に媚びることはなく、けれどセクシーで、美人で、スタイル抜群で、身に着けるもののセンスがよく、毎日ジムに通って運動し、健康に気を使い、優しいけれどはっきり「ノー」と言える自己主張があり、結婚したら完璧な妻となり、子供を産んでも家事も仕事も子育ても難なくこなし・・・と、現実にはあり得ないスーパーウーマン像が押し付けられている。

こうしたスーパーウーマン像を実現することの、社会的障壁が少なくなればなるほど、実現できない自分の能力不足を感じることとなる。さらには、米国女性は、「勝った負けた」の他人と比べて価値を測る中で、自分自身のものの見方も決定していく。そして、筆者の周囲の米国男性はこの問題を次のように指摘する。

 まず、女性に対する社会のプレッシャーがかつてないほど強くなっている、ということは認識している。ある男性は、「男性はただ男性でいればいいけど、女性は男性と女性の両方の役割を求められている」と言う。それが理由かどうかは分からないが、気を張りつめたような女性が多くなった気がするらしい。

 また、「女性は、男性的な役割を果たすことには果敢に挑んでいくのに、女性的なものを求められると、とたんに自信がなさそうな感じになる」とも言う。

 そして、実はスーパーウーマン像を求めているのは社会でも男性でもなく、女性たち自身であると述べた。

筆者は記事を、米国の場合には「女性自身も自分たちの考え方を調整する時期が来たことを示しているのかもしれない」とまとめている。
 さて、上でも太字にしたが、繰り返し念押ししておく。この記事の筆者が述べているのは、あくまでも米国社会における事例に基づく分析である。米国が、類比のないほどの「競争社会」であり、自己の人生に満足すための自助努力に対し、強いプレッシャーをかける社会であると、筆者も指摘している。だから、各社会で女性の社会進出がもたらす普遍的な状況だとは言えないだろう。また、8割の女性が「以前より不幸になった」ということは、世論調査に基づいている。だが、男性の女性に対する見方は、筆者の周囲で任意に選ばれた男性から聞き出したものである。この前提をまず押さえておきたい。


 さて、この記事を読んで、id:p-shirokuma さんが次のような記事を書いた。

「『母親の自己実現のために』育てられた子どもが背負う呪縛」
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20091110/p1

はてなブックマークでは、批判的なコメントが集まっている。私もそういうコメントをつけた。なぜならば、これでは「女性は自己実現をあきらめて、子育てに専念すべきだ」と勧めているように読めるからだ。だが、下部にリンクされている記事を読んでそうでもないのか、と思い直した。

「母親を恨んでなんになる」
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20090618/p1

この記事は、母親に支配された息子の事例を紹介した*7のち、書かれている。母親を恨む息子たちに、母親もまた社会的に追い詰められていたことを指摘する。核家族化が進み、地域コミュニティが崩壊していく中、誰にも相談できず、孤独の中で母親は暴力的になっていくことに、理解を示せというのだ。そして、息子たちへ、「完璧な母親」でなかったことを責めるのではなく、これから母親になる人たちが追い詰められないような、すなわち新たな被害者を生まないような枠組みを作っていこう、と呼びかけるのである。
 注記するが、この「恨むな」というのは非常に危ない命令である。被害者に「赦せ」と命じることは、被害者を決定的に傷つけることだからだ。私は、こうした息子たちが、自分の母親を憎み、恨むことを否定しない。もう少し丁寧に言えば、「息子たちだけが<自分の>母親を憎み恨む権利がある」のだ。これは被害者にとって難しいことだ。多くの息子たちは、自分の母親の女性性と、ほかの女性たちの女性性を重ね、すべての母親を憎み、恨むだろう。だが、息子たちは時間をかけて、母親の暴力は、「女の暴力」ではなく、ほかでもない、この私の、<自分の>母親であることを理解し受け容れていくことは、可能だろう。男性に傷つけられた女性に、同じ道が開かれているように。母親が自分を支配したり、自分に暴力をふるったことを赦すのではなく、<自分の>母親がそういう母親であったことを赦すこと。それすら、被害者本人にとって強いられることは、暴力的に働くだろう。だが、私があえて「赦し」の次元を示すのならば、こうした書き方になると思う。私は「恨め」とも思わないが、「赦せ」とも思わない。だが、恨まない道はある。
 その上で、母親が社会的に追い詰められた状況にあることを、知識として理解することは大事だろう。加害者にどんな理由と事情があれども、それは赦さなければならない条件にはならない。しかし、「<自分の>母親―私」の関係ではなく、社会の一員として「母親―息子」関係について考えることは、赦そうが恨もうが、可能なことだからだ。個人的なことと社会的なことは接続できる、だが、分離することもできる。恨みながら、新しい社会を夢見ること。それは崇高な赦しでも、共感できる恨みでもなく、一貫性のないグロテスクな行為かもしれない。だが、美しくなくても、やる価値はあるのではないか。
 p-shiorokuma さんの次の祈りは胸を打つ。

 どうか、過去の母とは和解を、未来の母には寛容を。

和解可能性は開かれている。だが、不可能性もまた開かれている。そして、たとえ和解がかなわなくても、未来の母に寛容を。


 p-shirokumaさんは以上のように、「息子の物語」として、母について書いた。この先は、私は「娘の物語」としてもう一度母親について書くべきだと思う。それは私の物語でもあるのだろう。ここまで書いて、困ってしまった。何も書き出せないのだ。それは、私が娘であり続け、母になるかどうかの瀬戸際に、今まさに突っ立っている状態だからかもしれない。*8
 今日、友人から、子どもが生まれたというメールをもらった。写真はとてもかわいくて、今すぐ会いに行きたいと思った。2週間前には、別の友人が子どもを産んだ。今度会いに行く。かわいい!子どもっていいな!と純粋に思った次の瞬間、自分の置かれている現状に引き戻される。寒い部屋で一人でPCに向かって、本をバラバラとめくり、この先自分がどうなるのかもわからず、あてもなく文章をつづっている私。子どもという存在から、あんまりにも遠い。
 でも、この自分のどうしようもない「子どもとの距離感」が、私にとって娘であり母でないことのリアリティだろうし、私がつづるべき「娘の物語」なんだろう。いつか、書けたら書こうと思う。

*1:のちの引用部だけ読んでもわかるように、甘ったるい少女趣味の文章でもある。攻撃的な「上野千鶴子」しか知らない人には新鮮かもしれない。だが、私がいくつか読む限り、上野さんは、夢見がちで想像の世界で遊んでいる、繊細な女子のようなことも書く人だ。批判もあるし、肯定できない部分もあるが、どうも嫌いになれない。上野さんのそうした女子的態度に「媚」や「甘え」を嗅ぎつけてしまったとしても。

*2:上野『発情装置』187ページ

*3:この記事は、先日書いた、上野さんの記事とも重複する内容になる。「勝間和代上野千鶴子」(http://d.hatena.ne.jp/font-da/20091106/1257502918

*4:引用者注:進学のデータをみると、女子の専攻分野は、文学や語学といったリベラルアーツ系から法学部や医学部といった実学系へと移行している、という話を、この直前に、上野がしている

*5:と言いつつ、信田さんは「私はこういうモンスターみたいな人たちが好きだ、だからカウンセラーをやっている」というようなことも言っている。このへんが信田さんが、しつこく、自説を曲げながらでも、家族や暴力という暗くてディープな問題につきあい続けられるパワーの源泉だろう。好きじゃないとやってられまへんな。

*6:別にショックでもなく、さもありなん、という気もしましたが

*7:http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20090616/p1

*8:産める状況にもなく、産むことも望んでいません