加納実紀代編「女性と天皇制」

女性と天皇制 (1979年)

女性と天皇制 (1979年)

古本屋で500円で買ってから、本棚に放置していた。なんともなしにパラパラ読み始めたが、強烈な本である。1977年から「思想と科学」に連載されたリレー式エッセイが収録されており、立場も年齢もさまざまな18人の女性が自らの実生活の経験を基に、天皇制を論じている。
 たとえば、1911年生まれの牧瀬菊枝*1大正デモクラシーの中での、天皇について語る家族をこう描く。

 炬燵で兄が話している。「天皇は脳が悪い。議会で勅語を書いた紙を円く巻いて望遠鏡のようにして職場を眺めている」それを受けて母も「かげでは天皇の悪口をみんな言う。天皇の写真がのっている新聞を平気でふんづけるし、便所へ持ってゆくもの」と、兄の話に同調して、おかしそうに笑っている。大正十年ごろだろうか。わたしの小学校三年くらいであった。これが「天皇」という名をはじめて聞いた記憶である。天皇という名は神でもない、ありがたくもない、滑稽な存在であった。わたしの母はとくべつの教育も受けていない、ごくふつうの女であった。だから、そのころの一般庶民の天皇観を母は代表していたと思う。
(138ページ)

牧瀬さんは、自由教育の風を受けて子ども時代を過ごす。こんなふうに新しい教育に対する喜びは書かれている。

 そのころ「つづり方」の時間に教師が「自由選題」と白墨で大きく書く。それまでの陳腐な課題主義の「つづり方」教育から一歩抜け出た「自由選題」は、わたしにも自由に書ける意欲をかきたてた。今も不思議に「自由選題」というコトバの新鮮さが胸によみがえる。思えば、これは大正期の鈴木三重吉の『赤い鳥』などの影響を受けた自由教育が農村の小学校にしみこんできていたのだ。
(139〜140ページ)

さらに自由主義的な女学校で学んだあと、今度は教員の免状をとるために皇室中心主義の専門学校に進学する。1928年、1929年とマルクス主義学生運動が盛り上がり、女学生たちも検挙されていく。牧瀬さんは、委員長として優等生を務めながらも、共産主義の級友たちを手助けしていた。成績優秀にもかかわらず、思想偏重とレッテル貼りされ、就職先を学校からあっせんしてもらえなかった。そして、つてを頼りに1932年から岩波書店で働き始める。次のようなエピソードが描かれている。

 同年(引用者註:1932年)夏、岩波氏は店で働く女の人たち全部をつれて、北軽井沢に行った。秋草の乱れ咲く高原の細道を一列になって辿っているとき、先頭に立っていた岩波氏が、いきなり、後につづく女のいったいのほうをふりむいて、大声でいった。
治安維持法こそが罪人をつくるんだ!ね、そうだろう?治安維持法さえなければ絶対に罪人にならない人たちを、この法律でみんなひっくくり、罪人扱いするんだから――
(149ページ)

そして、敗戦後について、次のように短く書いている。

 一九四五年八月十五日、有頂天になったわたしは甘かった。十月、治安維持法は占領軍の手によって撤廃された。治安維持法こそが、この戦争に人民を狩りたてたものだと信じるわたしは、何にも増してこの法律を憎む。しかもこの法律を撤廃したのは、わたしたち日本人民ではなくて、占領軍であった。治安維持法だけなくなっても、天皇制は「護持」された。
 それいらい三十年余り、気の遠くなるような長い年月、わたしたちは天皇制に対して何をしてきたのか。無力なわたしに何もできないはずはない。日本人民を指導するはずの党は何をしてきたのか。
 戦後も天皇制に触れることをタブーとしてきた年月は長く、ようやくここ数年、論議されるようになったばかりだ。天皇栄というコトバさえ使えず「絶対主義」というコトバを用いた戦前の暗黒時代に、天皇制権力に対して果敢にたたかい、命まで奪われた人々を思うと、わたしは耐えがたい。
 天皇の名によって行われたありとあらゆる罪悪、日本人民の苦難はもちろん、諸外国の人民に与えたはかりしれない罪業を、開闢いらいの記者会見で「(戦争責任という)そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面は、あまり研究していないのでよくあかりませんから、そういう問題についてはお答出来かねます」と天皇は答えた。戦争責任がなんで「文学方面」のことかた?平然としてそれをいう天皇、それをいわせるものたちを、わたしはどうしようもなく憎む。
 「天皇制なんか倒せっこないよ」と、わたしの甘さを人は嘲う。天皇制廃止というわたしの四十年来の夢は、幻想のようにはかないものだったのか。わたしはいようもなく悲しい。
(153ページ)

こうした、共産主義マルクス主義の立場からのストレートな批判がある。
 一方で1925年生まれの駒尺喜美*2は、自身の子供時代をほんやりとしていたと振り返る。その原因を、駒尺は商人で多忙だった両親からかまってもらえず、何か反応することを求められずに育ったことに探る。そのため、忠君愛国も良妻賢母も頭にきちんと入っていない状態で、ぼんやりと反応鈍く育ったのあという。そのため、「戦前のわたしの心の中のどこを探しても、天皇いない。天皇尊い人とも偉い人とも思っていなかったし、天皇のために忠義をつくすなどということも、言葉としては確かに聞いていたが、何のことかさっぱりわからなかった」(15ページ)のだという。
 駒尺さんの子ども時代に強烈な印象を残したのは、父の二度の暴力だった。一度目は、母が殴られた。そのとき女が「なぐられる側」であり、男が「なぐる側」であることを悟ったという。そして、はっきりと母の側に立ち、女の連帯感を持ったとも言えるような、「(女性である)わがみへの屈辱」のようなものも感じたという。二度目は、駒尺さん自身が父に殴られた。夜更けに帰った自分を殴る父に対し、激しく憤る。なぜなら、父自身は夜間に外出して帰ることもあったからだ。娘の身を慮る父の愛のムチでもあったのだろう、と駒尺さんは振り返る。だが、力で屈服させられた屈辱感で身をふるわせつつ家に帰る様子を次のように書く。

 その時、遠景にかすんでいた、だがいつまでも眼の底から消え去らぬ、泣いている母の姿が私の体験とぴたりと重なった。それが重なった時、母とわたしがなぐられる側の女であり、父がなぐる側の男である事を、はっきり意識した。男が暴力的存在であり、その力によって女を支配しているのである事を悟った。この場合、わたしが父を尊敬していなかったのは、幸い(?)であったと思う。わたしは母からも誰からも、父が偉い人であるといわれた事がなかった。お父さんのおかげで生活しているのよ、などといい聞かされた事もなかった。事実、母は父と同じに働いていたのだから、そんな事をいう筈もなかた。わたしの眼には、父も母も同じ大きさ、同じ小ささの人間として写っていた。それがどうしても、最後には父が決定権をもつのかわからなかった。が、それは男の暴力である事を悟ったのである。もしも父が日頃から偉い人であると、母からあるいはまわりの人から、それとなくわたしの耳に入っていたならば、こんなに明確に、「なぐられる側」の屈辱を、私が受けとったかどうかは疑わしい。男の力による女支配を感じとったかどうか。その時は悔しくとも、時が過ぎれば、素直に愛のムチと思いこんだに違いない。しかし、今のわたしはいいたい。それが例え愛のムチであろうとも、男の愛は、「なぐる側」の表現を通じてしか現れないということを。女の愛は、「なぐられる側」としての表現を通じて現れるのであることを。愛の表現もまた、支配と被支配の、関係構造に応じての形式で現れることを。父の行為が、例えわたしへの愛の現れであったとしても、そこには自ずから男の女支配の形が現われていたのである。
(18〜19ページ)

 駒尺さんは上記の「父が尊敬できない人であってよかった」という部分は、萩原葉子「蕁麻の家」と比較しながら詳しく説明される。

蕁麻の家 (講談社文芸文庫)

蕁麻の家 (講談社文芸文庫)

「蕁麻の家」の家は、詩人・萩原朔太郎の娘である萩原葉子が、自身の幼少期をモデルに書いた自伝的小説である。そこでは、朔太郎の母(葉子の祖母)が徹底的に、葉子さんをいじめる女の「いやらしさ」が描かれる。批評家の奥野健男はこの作品を評して、女性原理で書かれ、救いのない中で生き抜く女性の様が描かれているといった。自分には嫌悪に近いたまらなさがあるので、それらを超越した朔太郎の男性的原理の別宇宙の文学の貴さ、必要さが痛感されると続ける。だが、駒尺さんはその別宇宙は、現実を女たちに押し付けた上で作られたという。いくらおばあさんが実験を握っているように見えても、そこで修羅場を見下して超然とできる立場、すなわち家長の立場にあったのは、朔太郎であった。葉子さんが、祖母のエゴに傷つきながら、この父のエゴに傷つかなかったのは、朔太郎が家長だったからだ、と分析する。父が、自分が自殺をはかって血まみれになっても、彼眼にはとまらないだろうと言いながら、洗面所でチラリと自分の顔をもみたことで「存在を認めてくれた」と満足する。葉子さんにとって父は、相談もできず一声かけるのもはばかれる、遠くの家長室に鎮座しているのだ。駒尺さんは次のように書く。

 天皇の御座所=家長室などわたしの家にはなかった。が、もしも父が、毎日家長室に鎮座ましまして、世間から偉い人といわれるような人であったなら、家長という父の特権にそれほど気付かなかったかもしれない。父の暴力をそのまま暴力として、屈辱と怒りをもってわたしが受け取ることができたのは、彼に家長=尊い人というイメージがつきまとっていなかったからであろう。父は無教養にして粗野な人であったから、家長の力をそのまま腕力として示した。しかし、彼が偉い人、優しい人であったならば、直接力を用いなくとも、もっと巧妙な形で家族を自ずから従わせただろう。それが恰も家族本人の自由意志によるかのように。
(23ページ)

駒尺さんは、この構造と天皇制を重ね合わせる。

 うやうやしく天皇にお仕えするのは、もちろんすぐれた臣の道である。うやうやしく主人・夫にお仕えするのはすぐれた妻・女の道だる。その天皇や主人が、優しくてお慈悲深い人であれば、ますます臣や女は喜んで心からお仕えするのである。現在、よき臣である事に誇りをもつ人は、ごく少ない。しかしよき妻である事、即ち内助という名の家来道は、いまだにすたれてはいないのである。それは天皇よりも家長の方がみえにくいからではないだろうか。夫や父の慈悲やヒューマニズムは、天皇のそれよりも直接にそそがれるから、従者である事のの隷属感(屈辱感)よりも、従者である事の有難さとして身にしむのではないだろうか。女は現在でも、自分が自分の主人になる事よりも、主人に愛される従者になる事の方に満足と誇りをもち勝ちである。葉子さんのおばあさんを極悪非道な女として、男はもちろんの事、女もまたそうみてしまうことに、わたしは恐ろしさを感じる。三従の道をはねのけたおばあさんを、極悪非道としてみてしまう事が、世間の常識であるという事に恐ろしさを感じる。
 父権は失墜したかにいわれているが、「最後の決定権」はいまなお健在なのではないだろうか。民主的な男が家のトラブルの話をしている時に、「最後の決定権は自分だから」と、何気なく口にしたのをわたしは忘れ難い。民主的な夫の優しさが、最後の決定権を握っている事の余裕からくるならば、それは女にとっては、お慈悲深い天皇、民主的な天皇にすぎない。お慈悲深くても優しくても天皇天皇なのである。
(25〜26ページ)

 一方、1926年生まれの茨木のり子*3は、敗戦後の闇市で「古事記」「日本書記」を岩波文庫で買った。当時21歳である。二十歳まで、万世一系天皇がどんなにすばらしくありがたいかという教育を受け、二著が小学生時代から仕込まれたその歴史の源だと感づいて、距離を置いて客観的に読了したかったのだという。茨木さんが特に興味を持ったのは埴輪である。

 そんな或る日、垂仁紀のところで、なにやらピカリと光って、こちらに合図を送ってよこす箇所をみつけた。埴輪作成の縁起ともいうべきものが記されているくだりである。それまでは天皇が死ぬと古墳の廻りに近習者を生きながら埋め立てて人垣となした。日夜泣き叫び死に絶えると、犬や鳥が集まってきて貪りつくす。それを哀れに思った垂仁天皇が殉死の禁を出し、人馬の埴輪を作らせて、人垣の代わりとなした、という記述である。
 闇市が栄え、誰が復員してきたとか、まだだとか、そういう話題で持ちきりの頃だったから、人垣、埴輪の文字から狩り出されていった兵士たち、全滅した軍隊、玉砕した島などが必然的に浮かびあがってくる。
 敗戦だったから尚のこと、日本人は結局この戦争で天皇家という古墳を守るための人垣にさらのであり、アルカイック・スマイルの埴輪にされたのだという意識が強くきた(今はそう単純に割り切れているわけではないが)。
 それから手あたり次第に古代史を読み漁っているうちに、やがて陸続という感じで、唯物史観による史書が出版されはじめる。先日、或る歴史学者の講演を聞いたら、当時のことを回想して、「血湧き肉躍るおもいでした」と語った。古代史は戦前もっとも抑圧された部門であり、それが一挙に開花してゆくさまは一読者としても興奮を禁じえなかった。
 私は結婚してから詩を書きはじめたが、埴輪との出会いを大切なものに思い、なんとかこれを作品化したいという願いを持った。この学説あの学説の間を右往左往しながら、家事の合間にノートをとりメモを作り、約十年位かかって「埴輪」を書いた。
 一九五八年にラジオドラマとしてTBSから放送されている。作品は好意をもって受けとめられたが、私は不満足だった。自分の書いた台本自身に。天皇制と私なりの大格闘ではあったのだが。
 それからまた二十年近い歳月が流れている。
 その間に横井正一氏、小野田寛朗氏の帰還があった。生きながら埋めたてられ、とうに朽ちはてたと思いこんでいた人垣の中に、頑強に生き残っていた人が居たのだ。埴輪ではなく生きた人間の証拠に、日本人全体の肺腑を刳るような言葉を待ったのだったが、それは遂に聞かれなかった。
(232〜233ページ)

これ以降、茨木さんは形骸化した天皇制を解体しない、日本人の「奴隷根性」が批判し、もう一度古代史の話に戻ってきている。近頃(1975年頃)、茨木さんは素人の古代史跡めぐりの旅に参加するようになる。そこには主婦たちが参加しており、彼女たちは舌を巻くほどの鋭い分析眼と、豊かな知識を持っていた。そして、はっきりと言語化はされなかったが「自分たちの教わったひどく偏った天皇主義の歴史を、調整し、生涯かかってもいいから日本人の歴史を、人間の歴史として把握し直したいということでは一致しているように見えた」(243ページ)という。

 こういう旅に行ってきたと言えば、世間の人は「まあ、優雅なお暮らしね」とか、「閑とお金のある人が多いんだなァ」とか、「いいお道楽ですこと」などと言うだろう。しかし何を言われたって、そんなものを跳ね返すだけの強さや、みずからの欲求に従う落ちつきを身につけている人たちであった。参加するについては一人一人どれだけの犠牲を払って出て来たか知るよしもない。
 名刺の交換もなく、名前のおぼろになった人もあるが、「また、どこかでお目にかかれたら、うれしいわね」とさばさば別れた彼女たちが、それぞれの家庭や職場に戻った日々のことをふと想像してみることがある。子や孫たちは、母や祖母の話やケンキュウには聴く耳もたず、馬耳東風かもしれない。しかし、と思う。
 自分の子供の頃を思い返せば、一家のうちの誰かが夢中になっている対象に関しては、意外と深いところで影響を受けているものであると。
 甘いと言われればそれまでだが、こういう女性たちが地道に根を張ってゆくかぎり、神話とも民話とも民謡ともつかないものが、日本人の発生説や歴史として、同じ形で復活することは出来ないだろう。
 茨城県の菓子商のおかみさんがくれた飴玉をしゃぶりながら、古代、新羅からの渡来集団であった天日槍一派の終局の集結地となった豊岡、出石、楽々浦そしてたっぷりとした水量で日本海へと抜ける円山川のほとりを共に歩きながら、私もまた、彼女たちに連なる一点でありたいと思ったのである。
(244ページ)

 いまや、かまびすしく天皇制が議論された70年代ははるか遠い。ネット右翼と呼ばれる人たちですら、天皇制を正面から取り上げはしない。命がけで天皇制を護るものも、壊すものも、ほとんどいない。しかし、この本の刊行から30年たった今も、厳然と天皇制はあり続けている。昭和天皇の死後、より優しく民主的な天皇像が喧伝される。「ええ、私は天皇なんて偉いと思っていませんよ。でもあってもいいじゃないですか」と冷めた風な口調でコメントする人の傍から、「新しい教科書」が教育の場に普及していく。歴史と向き合い続ける主婦たちの営みは、いまも続いており、結果として無力だったのか。それとも彼女たちに連なる一点が潰えてしまったのか。私自身、天皇制の前で何も言えなくなる。天皇は神ではない、天皇は必要ない、しかし、なぜ私は存続を認めるのか。

*1:女性のオーラルヒストリーの収集で有名

*2:女性の視点からの文学批評で有名

*3:詩人