村上春樹はエルサレムで語ることができるか?

 id:mojimojiさん経由で村上春樹イスラエル文学賞である「エルサレム賞」に選ばれたことを知った。

イスラエル最高の文学賞エルサレム賞の09年受賞者に作家の村上春樹さんが決まった。受賞選定委員長が編集長を務めるイスラエルの有力紙ハアレツは21日付で、受賞理由について「日本文化と現代西欧文化とのユニークなつながりを描くなど、西側で最も人気がある日本人作家。読むのはやさしいが、理解するのはむずかしい」と伝えた。

http://www.asahi.com/culture/update/0124/TKY200901240160.html

mojimojiさんは、2001年に授賞式に出席したスーザン・ソンタグのふるまいを取り上げている。ソンタグは受賞のスピーチでイスラエルを猛然と批判したという。当然、イスラエル側の要人は抗議の意味をもって席を立ち、音を立ててドアを閉めて出ていったという。まあ、そりゃそうだろ、だってあの*1ソンタグである。どこをどう取ったって、なんも言わずに帰ってくるとは思わんぞ。そのあとで、mojimojiさんは次のように述べる。

 村上春樹が受賞を受けるのかどうか、受けるとして、どんなスピーチをするのか、注目です。

 ある意味チャンスですよ、村上さん。事と次第によっては、こちらのリストに載ることになるのでしょう。>「注意深くお金を使うために

mojimoji「村上春樹エルサレム賞受賞おめでとう!!!」
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090125/p1

この発言に対して、id:fujiponさんは次のようにブックマークコメントをつけた。

fujipon たぶん村上さんは普通に出席して、普通に「自分の作品を読んでくれているイスラエル人」たちに謝辞を述べて、普通に帰ってくるのではないかと思う。小説家というのは、作品で語ればいいんじゃないかな。 2009/01/26

さらに、上のコメントに批判があったため、fujiponさんの次のように詳しく語っている。

「大事なのは、(政治的な問題も含めて)「作品」に何が書かれているかということで、スピーチやパフォーマンスで作家を評価するのは間違ってるんじゃないの?という意味だったんだけど。

いや、イスラエルがいまやっていることについて、苛立ちや無力感にさいなまれている人が多いのは理解できるんですよ、僕もそうだから。

ただ、だからといって、「村上春樹という人が、自分たちが望んでいるような方法でイスラエルで抗議行動をやらなければバッシングする」というスタンスはあまりに狭量なんじゃなかろうか。

僕はたくさんの村上春樹作品(小説だけではなくて評論や翻訳も含めて)に接してきているのですが、村上さんと言う人は、自分で翻訳をされることもあり、「自分の作品が外国語に翻訳されて、海外の読者に読まれること」に対して、非常に興味と感謝の念を抱いている人だと思います。

(略)

 村上さんは、スピーチで政府の批判をするよりも、イスラエルの読者に感謝の辞を述べるほうが、「村上春樹にできること」としては、よっぽど平和に近づけると思っているのではないかと。

 小説家というのは、「作品に書くこと」を「現実との最高のコミットメント」だと信じている人種だと僕は考えます。

fujipon「村上春樹さんの「エルサレム賞」受賞に、一ファンとして言っておきたいこと」
http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20090127

この主張に対して、id:icchan0000さんは次の指摘を行う。

まぁそれは確かにそうなんだろうけど、それが単なる思い込みや自己満足に終わってることもあるだろうし、結果として特定の政治的力学に加担することもあるだろうし、狭義な意味で政治的に無力であることを露呈するだけのこともあろう。それをただ「小説家である」というだけで免罪する論理ってのが、理解できない。なぜ作家をそれほど特権的存在と見なしうるのか。作家が最高だと信じていれば、批判をまぬがれるのか。作家ってすごいな。

(略)

単純に敵か味方かの二分法で斬って捨てる単純な「政治的正義」を警戒するid:fujipon氏の

ただ、だからといって、「村上春樹という人が、自分たちが望んでいるような方法でイスラエルで抗議行動をやらなければバッシングする」というスタンスはあまりに狭量なんじゃなかろうか。

誰かの「抗議」のやりかたが自分の意にそまないものだからという理由で、「人として批判されてるのです」なんて言うのこそ、「イスラエル的」じゃないの?
村上春樹さんの「エルサレム賞」受賞に、一ファンとして言っておきたいこと - 琥珀色の戯言

という指摘は、極めて正しいとも思う。総論的に、一般論的に、極めて正しい。

ただ、いつも政治は現実的個別的問題として発露し、あれかこれか的な選択を迫ってくるものでもある。具体的個別的政治状況の前で春樹さん的振る舞いは、ある種の政治的意味合いを帯びざるを得ないだろう、それゆえに政治的批判がありうるだろうという見解はやはりゆるがない。

icchan0000「村上春樹氏 エルサレム賞受賞−補」
http://d.hatena.ne.jp/icchan0000/20090127/p2

以上のようなicchan0000さんの指摘は、クリアーだし私も賛同する。
 しかし、私が考えたのは別のことだ。それは、春樹さんのファンは、きっとfujiponさんのような考え方をする人が多いだろう、ということだ。fujiponさんは次のように書く。

村上春樹フリーク」である僕がこのmojimojiさんのコメントを読んで思ったのは、「たぶん春樹さんは、こういう文脈で”人として批判”されることに対して、何の痛痒も感じないだろうな」ということでした。「小説家が”ひとでなし”なのは当然だ」とかうそぶきながら、「やれやれ」とため息をつくくらいのもので。 ”小説家としての作品”に対する批判には、それなりにナーバスになることもあるかもしれませんが。

fujipon「村上春樹さんの「エルサレム賞」受賞に、一ファンとして言っておきたいこと」
http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20090127

私は、春樹さんの文学を支えているファン層は、"村上春樹"という作家に上で描かれるような態度を期待しているのではないか、と推察する。春樹さんが、汗を飛ばし、髪を振り乱しながら、イスラエルを批判したら、と想像すると、ファンはガッカリするさまが、私には思い浮かぶ。そして、私はどこかでそんなファン層が実在することを期待している。「"村上春樹"とその作品」という商品は、こうした消費者をターゲットに作られてきたように私には思われるのだ。
 もちろん、裏を返せば、私のこの春樹さんの小説を消費社会のイコンとして扱おうとする態度は、"村上春樹"を基準にした反"村上春樹"的なイコンによってこそ駆動されている。簡単にいえば、「"村上春樹"とその作品」はとても魅力的なのだ。私も、のめりこんだ時期がある。*2しかし、一時期の批評家の春樹さんに対する批判もあり、春樹さんの小説は、文学としての評価を売り上げや知名度に比べて、ずいぶん低く見積もられてきた。そのようなアカデミック批評家の態度に対して、若い世代の読者は批判をした。そのような論争があった。だから、日本の現代小説を読む多くの人たちにとって、春樹さんの小説は避けて通れない関門であり、それを評価するかがひとつの分水嶺になっている。そういう意味で、春樹さんは日本において特殊な作家である。完全にイコンとしての"村上春樹"的なモノが成立しまっているのだ。
 上記にfujiponさんの書いたような「やれやれ」という態度を期待するファンの存在も、"村上春樹"的なモノを前提にしている。同時に、私の「村上春樹ソンタグみたいに格好いいマネできるわけないじゃん」という軽口も、同じく"村上春樹"的なモノを前提にしているのだ。実物の春樹さんや春樹さんの作品を超えたところに、"村上春樹"のイコンはある。
 以上を踏まえた上で、私は春樹さんは、おそらく上のイコン化された自分への期待を認識したうえで、授賞式でどう振る舞うのかを考えることになるだろう、と思っている。

 さて、ここで、ある「シニカル」と評される作品を書いた作家の、政治的振る舞いを紹介しておく。劇評家の西堂行人は、ハロルド・ピンターの「何も起こりはしなかった」を読んで、驚いたという。

何も起こりはしなかった ―劇の言葉、政治の言葉 (集英社新書)

何も起こりはしなかった ―劇の言葉、政治の言葉 (集英社新書)

ピンターはヨーロッパの不条理劇を書いた作家である。西堂さんは、文学と政治をめぐる論争を次のようにまとめる。

本書を読んで、彼が現代世界の理不尽な事柄に向けて激しい怒りを発していることを知って、なかば驚かざるをえなかった。彼は芸術家として作品を発表するのみならず、きわめて政治的にも振る舞っていたからである。それは「行動する知識人」という言葉を彷彿させるものであった。劇作家のなかには、東西ベルリンの崩壊のさい、その早すぎる統一に向かってさまざまな発言を繰り出したハイナー・ミュラーのような存在もいた。しかし彼は例外的存在であって、芸術家は現実の政治に発言すべきでないという風潮は案外根強く残っている。芸術と現実(政治)は別物であり、表現でのみメッセージを表明すべきだということなのだろう。

西堂行人「書評空間」
http://booklog.kinokuniya.co.jp/nisidou/archives/2007/05/post_22.html

この状況の中で、ピンターは「そんな悠長なことを言っている場合のなのか?」と問う。世界のニュースが瞬く間に広がる時代になったが、その情報は確実に選別されている。メディアはセンセーショナルなできごとは報じるが、小さな善行や悲劇は無視され、排除される。そして、世界規模での「今起きているできごと」にはカウントされず、「何も起こりはしなかった」ことにされてしまうのだ。そして、その一例をピンターがあげていることを紹介している。

これに関して、興味深いエピソードも収録されている。劇評家マイケル・ビリントンとの対話で、「イギリスでは、ノーベル賞授賞講演は衛星放送では同時刻に放映され、『ガーディアン』には講演の全文が掲載されました。しかし、私の知る限り、それはBBCテレビではほとんど採りあげられませんでした。これには驚きました。」というビリントン氏の言葉に対して、「ほとんど採りあげられなかったのではありません。BBC、講演を徹底的に無視しました。そんなことは起こらなかったのです。」

ここでも「何も起こりはしなかった」が繰り返されている。ピンターの対応は絶妙である。決して感情的にならず、あくまで劇の対話のように、ユーモアとアイロニーを手放さない。それがために、かえってBBCの愚挙が鮮明になってくるのだ。あくまで「表現」を通しているから、その研ぎ澄まされた言葉は読者のなかに通り一遍でない感情を巻きおこす。

劇作家らしく、ピンターの言葉は直接的でない。必ずユーモアとシニカルな目をたたえて、事態を見据えている。彼は政治的問題を「政治」で解決できないことを知っている。そこで前述した「知性」や「言葉」の問題が出てくるのだ。

http://booklog.kinokuniya.co.jp/nisidou/archives/2007/05/post_22.html

このようなピンターの振る舞いは非常に洗練されたものである。たぶん、私には絶対マネできないし、しようとも思わない。十中八九「シニカル」ぶっている意図が見え隠れして馬鹿みたいに見えるだろう。私は、ユーモアとシニカルを手にすることのできるのは、賢い人だけだと思っている。ソンタグのマネは根性さえあればできるが、ピンターのマネは常人にはできない。
 春樹さんはいったいどのようにふるまうのだろうか。とにかく、私はmojimojiさんの以下の誘いかけに賛成である。

この話、是非、あちこちで話題にしましょう。

mojimoji「村上春樹エルサレム賞受賞おめでとう!!!」
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090125/p1

*1:「キャンプ」(今のクィアにつながる概念)の思想を立ち上げ、反戦運動で「私は嫌悪感を記述する」と宣言し、戦闘中のサラエヴォで「ゴドーを待ちながら」を公演し、レズビアンだとカムアウトしながらHIVが持たされた政治的意味を解き明かし、写真報道の欺瞞を指摘し、9.11のあとには早速米国を批判したソンタグである。彼女はいつもバッシングされていた。

*2:しかし、私がどうものめりこみきれなかったのは、春樹さんの小説に登場する女(やたらフェラチオ好き、とかさ)が理解不能であったし、恋愛模様は共感どころか嫌悪すら感じる内容だったからだ。さらにあからさまなフェミニスト嫌いが示される。そういった、うっすらと漂う男根主義が、春樹さんのべらぼうに巧い文章をもってしても、私の嫌悪感を引き起こす。