坂本順治「闇の子供たち」

 各所で話題になっている、タイの児童買春・虐待について描いた「闇の子供たち」を観てきた。描かれている状況は、悲惨としか言いようがない。子どもたちは、檻の中に入れられ、呼び出されては強制売春をさせられる。白人や日本人に売られる子供たちは、死ぬまで働かされ、死ねばゴミ袋に入れて捨てられる。また、臓器移植を望む日本人のために、生きたまま臓器(心臓)を取られて死んでいく。
 映画では、二つの陣営の視点から描かれる。一つ目は、タイの児童福祉のNGO団体である。こちらは、日本からボランティアにきた音羽宮崎あおい)を中心にして描かれる。二つ目は、タイの臓器売買を追う新聞記者らである。こちらは、ベテランの現地記者である南部(江口洋介)を中心にして描かれる。
 ほかにも児童を管理するタイ人の男が、実は同じように児童性虐待にあっていたことが描かれたり、タイのNGOスタッフが仲間を裏切っていたり、何十人もの登場人物が交錯していく。
 難しい問題を扱っているし、映画化するには大変な苦労があっただろう。このような作品が出て、問題提起になることは、非常に重要だと思う。
 すでに映画評も出ている。
森岡正博「映画『闇の子供たち』が暴くもの − 日本人の重い自画像」
そのことを押さえた上で、批判したい点を書いておこうと思う。

(以下、ネタバレあります)

 まず一点目。上の森岡さんの評にもあるが、この映画に出演している子供たちに担わされた、性的虐待を演じる役割についてである。当然だが、この作品は児童ポルノではないとみなされるだろう。子供たちは、あくまでも「演技としての性的虐待」を演じている、と観客の多くが思うだろう。
 しかし、現在、議論を呼んでいる「児童ポルノ単純所持禁止法案」がある。ここでは、児童ポルノは以下のように定義されている。

二 児童ポルノの定義
  この法律において「児童ポルノ」とは、写真、電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られる記録であって、電子計算機による情報処理の用に供されるものをいう。以下同じ。)に係る記録媒体その他の物であって、次の1から3までのいずれかに掲げる児童の姿態を視覚により認識することができる方法により描写したものをいうこと。(第二条第三項関係)
 1 児童を相手方とする又は児童による性交又は性交類似行為に係る児童の姿態
 2 他人が児童の性器等を触る行為又は児童が他人の性器等を触る行為に係る児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの
 3 衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの

ここには、それが演技であるかどうかは問われない。なぜならば、児童であれば、合意のあるなしに関わらず、ポルノに出演する/させられることは、虐待であるからだ。上記の定義であれば、「闇の子供たち」は単純所持も規制されるだろう。
 これは、児童買春・虐待を告発する映画だからいいのか?児童の性虐待に興奮するセクシュアリティを持った人であれば、この映画は十分、ポルノグラフィとして使うことが可能であろう。製作者の意図に関わらず、この映画に出演した子供たちは、性的に搾取される。そして、この構図とは、金を持った日本人が、映画を撮るために、子供たちを買い、そのフィルムで金を得る、というものである。
 この件については、パンフレットに記事があるようだ。*1私は、そのことを失念していて、パンフレットを買わなかったので、映画の製作者が、出演した子供たちのこれからの人生に、どう向き合うのかはわからない。そして、撮ったことの是非も、慎重に議論する必要はあるだろう。
 しかし、観客である私は、どう考えればよいのだろか。私は出演した子供たちの裸体を、犯される姿を目に焼き付けてしまった。しかし、彼らは生きている子供たちである。この映画を観ることで、私は性虐待とは何かの一端に触れることができた。そのために、私は彼らを利用した。
 加えて書いておくが、タイの社会は、日本社会よりもずっと性暴力への取り組みに熱心である。もちろん、悲惨な状況はあるが、当事者のグループが活動し、政府もこの問題に取り組んできた。要するに、日本がぐだぐだ放置してきたこの現状のしりぬぐいを、タイの子供たちにさせてしまった、と見える側面もあるのだ。
 もちろん、だからといって、表現を規制すべし、と言いたいわけではない。ただ、「貧しいタイの子供たち/豊かな日本の私たち」、という図式だけは避けたいと思っている。

 二点目である。これは、書くかどうか迷うが、やっぱり書こうと思う。私は、この映画に、ほとんど入っていけなかった。なぜなら、あまりにも男くさいからである。特に南部と、同僚の新聞記者清水のやりとりは、「社会のために、女子供にわからない、前線での戦いに挑むオレたち」みたいな、匂いがむんむんと画面から漂い、終始苦痛であった。もちろん、それは相対化され、戯画化された「オトコ社会」であったのかもしれない。だが、そのおかげで、私は「あー、いるよね、こういう口先だけゴリッパな男」というイライラに、いちいち襲われた。しかも、やたら殴り合い、撃ち合う。バンバンババンっ。なにこの、ハードボイルドテイスト。若者に説教したりね。おまえは部長刑事か?って感じである。
 さらに、作品の終盤で、南部もまた少年を買春していたことが判明する。彼は、極限状態でその自分の過去の行いを想起し、絶叫して、ピストルの撃ち合いの中で悶絶する。「うぎゃああああ」という叫び声で、私はすっかり萎えてしまった。また、男泣きか……。こういう男っているよね。飲みに行っては「社会ってのは理想だけじゃまわらないんだ」とか説教しながら、突然、「おれは<本当は>ダメな人間なんだー」と叫ぶ人。そういうとき、いつも面喰って「いや、ダメなら、ダメで、早めにいってくれればよかったのに」と、言うと「男には言えないんだ」とキレられる。なんか、もう、2,3回はこういう会話を交わした経験があるような気がする。
 それで、ダメ押しにサザンである。

生まれくる子供らに
真心を伝えて
この胸に響くのは
母の大切な言葉

こういう歌詞が字幕と共に流れてくるときの脱力感といったら、言いようもない。この歌の題名は「現代東京奇譚」である。正直、苦笑いして帰ってきた。リアルな人間の闇を描こうとして、単に男の内面吐露を見せられた感じだ。人間=男じゃないからねえ。要するに、男女の扱いが違いすぎて、「まず、君らは日本の女性差別の問題に向き合えば?」と思ったのでした。

 対比するように、寓話のように描かれたヤイルーンの場面は、非常によかった。ヤイルーンは、AIDSを発症し、もう売れないとみなされ、ゴミ袋に入れて捨てられた。月の照るゴミ捨て場で、ヤイルーンは黒いゴミ袋を破り、まるでもう一度この世界に生まれ出るように這い出る。故郷に歩いて戻り、川べりの大きな樹に抱きつく。もう目が見えず、だんだんと足も動かなくなり、最後は砂の道の上を這いずりながら、家に戻る。そこで納屋のような場所に入れられ、看護もされず、横たわる。体中に蟻が這いまわる。そして息絶えると、家族は納屋ごとヤイルーンを燃やす。母親は号泣しながらうずくまる。
 生きることを否定されながら、生き延びようとしたヤイルーンの姿は、子供たちの象徴のように描かれる。誰からも見捨てられた存在であっても、手を伸ばし、家に帰ろうと進み続ける。もし、「闇の子供たち」に希望があるならば、それは音羽らのNGOの活動でも、南部らの報道の仕事でもないだろう。それら二つは、常に問題を抱え、行き詰まり、絶望にさらされる。しかし、そうやって生き延びようとする被害者がいる限り、希望を捨てることはできない。
 たとえ、それが寓話であって、現実はもっと厳しいとしても、どこかで私はこのような子供たちがいると信じている。だから、こうした問題にも取り組み続けたいと思っているし、彼らの伸ばした手に応えたいと思っている。なんとかしたい。

追記

 いくつかの映画評を読んだ。
前川有一「児童買春、臓器売買を痛烈批判する社会派の日本映画」
前川さんは、以下のように書く。

 阪本監督は子供たちが"買われる"場面について、少年少女の裸は極力写さず、逆に相手の男たちの薄汚いそれをフィルムに焼き付ける構図で撮影した。子供たちが異常性愛者どもの手で陵辱される場面は映画を成立させるために不可欠だが、その映像じたいがペドフィリア連中を喜ばせる事は絶対に避けたい。そこで心理学者からの助言を採用してこの形にしたという。撮影にあたり、被害者役の子役たちへのケアを怠らなかったのももちろんだ。こうした気遣いは非常に大事なことだし、それを事前に知っておけば観客側も安心して鑑賞することができるだろう。

何がどう安心なのだろうか?心理学者は、性的虐待を受けた子供たちをサポートするための有効な手立てを、いまだ持っていない。その問題に取り組む真摯な心理学者が多いことは確かだが、性虐待を受けた子供たちへのサポートの研究は始まったばかりだ。私たちは、まだ、彼らをどう助ければよいのかもわからない。もし、「専門家に任せておけば大丈夫」というのならば、児童ポルノを制作した後にも、専門家に任せれば問題ないということではないか。こうした、性虐待の加害者を、「異常性愛者」「ペドフィリアの連中」として見下し、自らは「児童が性虐待を受けた映像が含まれた映画」を楽しむ傲慢さこそを、撃つべきではないだろうか。
 むしろ、次の批評のほうが、よっぽど物事をよく見ているといえるだろう。
にしかわたく「『闇の子供たち』(2008・ゴー・シネマ)」
そう、これは刺激たっぷりのエンタテイメント映画である。どんなに子供たちに同情しようとも、私たちは、この映画を楽しんでいる。そのことだけは、忘れてはならない。