以下、完全にメモ代わりです。
「よく生きるとは何か」を問うのが、倫理である、というような考え方がある。それに対して、「ただ生きるだけでよい」というような考え方がある。*1
性暴力被害者の中に、「サバイバー」を名乗る人たちがいる。その中では、「生き延びること」を称揚する考え方がある。*2加害者に反撃できなくても、裁判を起こさなくても、社会を変える運動にコミットしなくても、「あなたが生き延びることがすばらしい」とされる。
なぜ、このような考え方が出てくるのかというと、性暴力被害者が生きることが、こんなんな社会状況があるからだ。被害の最中に殺される被害者がいる。たとえ、被害を生き延びても、周囲の心ない反応で「あのとき殺されたほうがマシだった」と思う被害者がいる。生き続けることに絶望して、自殺する被害者がいる。
その中でも、生き続ける被害者がいる。そういった存在は、「被害にあったあとも、生き続けることができる」ということの実例であり、証拠である。そのために、「私は被害にあったあとも、生き続けています」と「生き延びること」をカミングアウトする被害者もいる。それが、ほかの被害者の希望になったりもする。また、被害者同士があつまるコミュニティで、「生き続ける被害者がほかにも存在すること」を実感できることが、希望になったりもする。
このとき、性暴力被害者は、「生き方」を否定されているのだろうか。
「生き方」を否定される人たちはいる。たとえば、「引きこもり」という問題は、「引きこもりの人の生き方」と「社会の在り方」の間の齟齬によって生じる。「適応障害」という問題は「適応障害者の生き方」と「その人を取り巻く環境」の間の齟齬によって生じる。「人格障害」という問題は「人格障害者の生き方」と「その人を取り巻く人たち」の間の齟齬によって生じる。
もしかすると、性暴力被害者の「生き方」には、被害を引き起こす要素が見出せるかもしれない。しかし、それは、暴力それ自体の前では、些細なことである。どんな理由があれば、レイプして善い、というのだろうか。また、それらの要素は、被害を受けていない人にも、見出されるものだろう。被害者は、些細な理由はあれども、圧倒的に偶然に加害者の暴力に巻き込まれたのだ。どんな「生き方」であるのかと、暴力を受けることは関係がない。逆にいえば、どんな「生き方」をしていても、暴力を受けることはあるのだ。*3
だとすれば、性暴力被害者が否定されているのは「生き方」ではない。「生きること」それ自体である。「どう生きるか」ではなく、どんな形であれ「生きること」を肯定するのか否定するのか、という問題に突き当たる。仮に、被害後も完璧に社会生活がこなせ、誰から見ても褒められるような「生き方」*4をしていても、被害者が自らの生を否定することはあるのではないか。
性暴力被害者の、深刻な精神的な危機に対し、精神科医やカウンセラーのケアが必要だとされている。そこでは、「他人が信じられない」「人と一緒にいることが怖い」などと、これから「どう生きるか」ということが、問題にあげられる。具体的には、就労や親しい人との関係性の問題として、語られる。それらの問題は重要であり、ケアが必要だろう。
しかし、そうでない部分は、ケアが可能なのだろうか。もしくは、ケアすべきなのだろうか。つまり、これは、完全に実存の問題であり、他者が足を踏み入れられない問題ではないか。そこに、被害者の孤独はあるのではないか。あえていうならば、「類としての被害者」*5の存在だけが、その人を支えるのではないか。
また、この問題は、「生」の問題である。しかし、それは「生とは何か」という、概念の問題ではない。「死を選ばないことは何か」「生きることとは何か」という、行為の問題である。「なぜ、死ぬのか」ではなく、「なぜ、生きるのか」という問題である。生きるに値するとは何かである。*6
ここまで。
追記
なんか、「類としての被害者」が、「生き方」を承認しあう共同体として伝わっているみたいです。そういう仲良しグループ的*7な意味ではありません。あえて、支えあいという意味であれば、「存在と存在が支えあう」支えあいです。その際に、「排他的な集団への所属」がキーになる、ことが重要だと考えています。言葉足らずですいません。じゃあ、「その内実は何よ?」というと、私もまだ輪郭が描けてないんですが。いや、描けないようなカテゴリーなのかも……。また、固まれば書きます。