「誰のこともクズとは言いたくない」から、考えている

 一部の人が「ホームレスは社会のクズだ」と言っている。それに対する言及は一通り収まった様子だ。
 「ホームレス」という存在は、社会からドロップアウトしているとみなされる。したがって、社会的な基準で、「クズか、そうでないか」を判断することはできない。「ホームレスがクズであるような社会」を構想すれば、「ホームレスは社会のクズだ」と言うことは可能だ。私の持つ社会観によって、ホームレスが「クズか、そうでないか」は決定される。
 事例を検討するより先に、「ホームレスはクズではない」と言い切ってしまえばいい。そのあと、いかに「ホームレスはクズではない」と言えるような社会が可能かを、構想すればよい。私たちの目に映る社会は、永遠に同じ形を保つわけではない。私たちは、社会を変えていける。なぜならば、社会は、人間同士の営みの中で形成されるからだ。
 私は、社会は人間の主観にゆがめられた幻想にすぎない、と言いたいわけではない。私たちは、暮らしている社会をありありと感じているし、そこで生き抜くために、あらゆる知恵をしぼり、必死で努力している。労働し、生活する。その社会は、実在する。私たちは、目に映る社会を、「ゆめまぼろしにすぎない」と見下すことはできない。
 「ホームレスは社会のクズだ」という直観は、否定できない。ただし、疑うことはできる。どこまでも崩していける。私は、直観を大事にする。けれど、その直観をギリギリまで切り崩して、自分がどこまで主観を捨てて、社会の実在に迫れるのかを知りたい。*1
 こういうことは、たいてい、社会学の教科書の一ページ目に書いてある。けれど、勉強すれば、するほど、忘れてしまう。私は、わりとまじめで純粋なので、こういう基本的な方針を読むと感動して、そのように社会について考えようと思うのだが、やっぱり忘れてしまう。つまらないかもしれないけど、こういう基本的な方針は、繰り返して言っておいたほうがいいように思う。
 それは、たとえば、「ホームレスは社会のクズだ」と言いたい<私>の存在を問うことなしに、社会を論じると、どんどん社会に絶望していくことになる、というようなことである。

*1:ちなみに、その結果知った答えは、たいてい、できれば瞬時に忘れてしまいたいような、社会的現実である。