役立たずの思想家たち
『思想地図』発刊記念シンポジウムのレポート記事を読んだ。なんていうか複雑な気持ちがする。たとえば、宮台さんはエリート主義をずっと推している。しかし、エリートって、いったい誰なのだ?エリート主義が機能するには、エリートたちが外在しないといけない。でも、それを主張する宮台さん自身が、エリートというには敷居が低すぎる。*1だいたい、このシンポジウムの自体も、高尚な場所で、重要な議論をしているというよりは、村の寄り合いっぽい。それを、うまいこと表現している人がいた。
twitterにも書いたのだが、一言で表すとこのようになる。「子供(鈴木・東)にムキになって食って掛かる大人(宮台)をセクシーボイスで穏やかにまとめる素敵なおじ様(姜)。横で見ている青年(北田)」
klov「思想地図シンポジウム『公共性とエリート主義』」『No Hedge!』
親しみが持てる。いいことなんだけど、どうもエリート臭さに欠ける。
やっぱり、最大の失敗は、パネリストがみんな、役に立ちそうなことを言ってしまっているところではなかろうか。当たり前だけど、役に立つという基準で、何かをしようと考えると、「アレコレ言うより、手を動かせ」という感じになってしまう。そして、こういう批判を受ける。↓
innhatrang「正しいことを言えばそれで何かどうにかなるのかね、この言論過剰の時代に」『land and ground』
ごもっともで、ゴチャゴチャ言ったって、社会は変わらないのである。
でも、ゴチャゴチャ言うのに価値がないか、というと「そうでもない」んだろう。たとえば、私にとってジャック・デリダは特別な存在で、もう神様みたいなもんだ。*2実際に、行動する上で、デリダの言葉は私の規範になっている。そして、そうやって行動する<私>は、社会に働きかける<私>でもある、という単純な話だ。やっぱり価値はあるように思う。
そして、そのデリダを知るきっかけになったのは、東さんの『存在論的、郵便的』である。今よりも、ずっとずっと、役立たずだった東さんの書いた、もうどう見ても役に立ちそうにない本である。でも、なにかつながっているように思う。
私は、ずっとこのブログでブツブツ「赦し」について書いている。それが、「被害者の役に立つか?」と聞かれると、迷いなくNOという。被害者にはお金が必要で、貧乏こそが悲惨さを生む。とにかく、安心して暮らせる経済支援の制度が必要だ。
じゃあ、「被害者にとって、私が「赦し」について書いていることは、価値がないか?」と聞かれると、それは答えに迷う。もしかしてないのかもしれないけれど、あったらいいな、と思っている。願っている。その辺は、価値がありますように、と祈りながら書いている。一番の価値でなくていい。二番目でも、三番目でも、価値の序列の最後のほうでもいいから、価値があればいいな、と思う。