「ADR、メディエーション 法的争いの新たな解決方法におけるEU法の影響」

公開講演会「ADR、メディエーション 法的争いの新たな解決方法におけるEU法の影響」

日時 2008年6月4日(水) 13:15〜14:45
会場 寒梅館203号室
講演者 ヴォン・シュリーフェン(ハーゲン大学法学部教授)
主催:総合情報センター・EU研究センター
同志社大学
http://www.doshisha.ac.jp/news/index.php?i=2408

上記の講演会に参加してきた。法科大学院の授業の一環らしい。*1
 シュリーフェンさんの講演は"Is Europe's legal culture changing?"というクエスチョンから始まる。EU統合により、国内法を越えたメディエーションの制度化が求められている。メディエーションについては、各国により特色がある。この講演では、ドイツのメディエーションを取り上げている。
 ドイツでは、訴訟過多により、「裁判所の負担が重過ぎる」「裁判が長い」「コストが多すぎる」などの問題が出ている。そこで、裁判外での紛争解決が必要となった。ドイツのメディエーションが、その根拠を求めるのはEU法である。
 EU憲法条約は、直接にメディエーションに言及していないが、65条に「市場の円滑さを求める措置を求める」という文言がある。その措置として新たな紛争解決制度を司法制度に組み込むことを呼びかけていると、みなしうる。
 EU法では、判事がメディエーターを勤めてよいとされている。そこで、司法手続き進行中に、担当ではない別の判事によるメディエーションが行われることもある。また、判事は、いつでもメディエーションをしたり、当事者に勧めたりできる。あるいは、メディエーションの説明会への参加を促すこともできる。この場合、学びの場として、メディエーションは語られる。
 ドイツの場合、メディエーションの合意は執行力を持つ。判事もしくは公証人によって、公的な書面を作成する。当事者には証言拒否権も与えられる。メディエーション進行中は、時効の期間を中止される。このように、メディエーションが形式化し、法化されている。
 メディエーションの中で、ADRを取り上げる。ADRとはAlternative Dispute Resolutionの略で、裁判外紛争解決とも訳される。民事訴訟を当事者間交渉によって解決することにより、法手続きの簡略化を目ざすものである。日本では医療過誤などでの導入が主である。このブログで何度か取り上げているRJ(修復的司法)との類似点も多いが、あくまでもADR民法内の利害関係を問題とし、秩序維持を目的とする刑法上の問題を扱うRJとは、必ずしも重ね合わせられるわけではない。(参照:前原宏一「修復的司法と裁判外紛争処理(ADR)」『修復的司法の総合的研究』)

修復的司法の総合的研究―刑罰を超え新たな正義を求めて

修復的司法の総合的研究―刑罰を超え新たな正義を求めて

 ADRが浸透しているアメリカやオーストラリアと違い、ヨーロッパは法の権威が保たれている。しかし、ADRが成功すれば、司法にも受け入れられる。パラドクスのように聞こえるかもしれないが、司法に受け入れられながら、「裁判外」であり続けるというところがミソである。ヨーロッパでのADRは「形式的和解弁論(Ingformal out of court settlement)」「仲裁裁判(Arbitration)」「オンブズマン」「苦情手続き」などが挙げられる。メディエーションを浸透させる糸口となるだろう。
 メディエーションは、家庭内・離婚問題で用いられやすい。また、長期間に及ぶ経済関係でも適用される。また、裁判前手続きは、強制的手続きとして導入されている。これには罰金も課せられる。
 判事はメディエーションを通して、「裁くもの」としてではなく「調停するもの」として、メディエーターの自己を発見するだろう。この経験は、判事を行う者、そして法文化全体に、影響があるかもしれない。この点については、市民的な議論が必要である。
 以上のように、メディエーションADRという形式が、紹介されつつある。そして、EUメディエーションを支持している。このことにより、ヨーロッパの法文化は変わっていくだろうか?と疑問を投げかけなおして、シュリーフェンさんは講演を締めた。

 実は、メディエーションの専門家に会うのは、私は今回が初めてであった。どきどきした。せっかくだから、短い質問時間ではあったが、私も一つだけ、以下のような質問をさせてもらった。

理念的なことを聞きたい。ADRが司法に受け入れられるという話だった。しかし、法化するときに、すでにADRは変質しているとも言える。ADRは本来「trialではなくmediationで行くんだ」という理念に基づくアクティビズムであったはずだ。その理念が失われる、という批判は、ドイツにはないのか。

通訳さんがシュリーフェンさんに伝えると、すごく興奮した様子で何かおっしゃっていた。通訳さんの訳によると「頭を釘で打ち抜かれたような衝撃を受ける質問だった。政治など難しい問題がある。今は、なんと答えればよいか…」ということらしい。わきから、同志社大学の法学の先生が「ドイツにも問題はあるが、まだ未解決だ、ということですね」とまとめてくれた。
 これは、メディエーションが、近代司法システムのオルタナティブとして構想される以上、避けられない問題である。実効性を持つ制度を設計すれば、おのずとそれは法化するだろう。そのとき、本来目ざされた理念は失われる。
 昨今、法学の専門家も少しずつメディエーションを取り上げつつあるようだ。その際、「裁判外」というところに着目して、「速く、楽に、低コストで問題解決」するhow toとして紹介されることもあるようだ。しかし、メディエーションは、その実践法ではなく、設立時に用いられた理念が重要である。そうでないと、単なる町奉行への巻き戻しである。もしくは、法律家のアルバイトとして、サービス産業化されるだろう。
 VOM(Victim Offender Mediation)を研究する社会学者マイケル・グランフォルスによれば、メディエーションは制度化されると必ず理念を失う。そのジレンマにより、維持が難しい制度である。恐らく、必ず内部崩壊する、失敗が決定した制度であろう。
 しかし、それでも制度化し、なんとか崩壊を切り抜けようとするのが、活動家の最大に格好いいところである。私は、法学にはまったく詳しくないので、法律家からみたメディエーションへの評価はわからない。しかし、アクティビズムとしてメディエーションを見ると、非常に面白くて、何かが起きるのではないか、と期待させられる。改めて、メディエーションに取り組もうと思った。

*1:出席カードを配られてびっくりした。