倫理の教え方

 id:toledさん経由で、トリアージをめぐって議論が起きている。
 id:fuku33さんは、経営学の授業*1で、トリアージについてこのように述べた。

 また、別の回に、資源の有限性がその合目的的な最適配分を促し、戦略性やリーダーシップや組織内の規範意識も意思決定も価値判断もそこから始まる、ということをわかりやすく説明したくって、四川の震災のニュースを挙げてトリアージの概念を説明した。絶対的に医療資源が不足しているところでは、「もう助かりそうにない患者」と「患者自身が処置したら大丈夫な患者」はカテゴライズして分けて、その間の「治療しなければ助からないが治療すれば助かるかも」というところに有限の医療資源を配分する、というシステムがあるんだよ、ということを説明したら、やっぱり女子学生のかなりの部分から「かわいそうだ」という反応があった。

 これ、「トリアージの判断をしなければいけないお医者さんたちもつらいだろうな」というのではないんですよ。そうでありつつ、でもひとりでも多くの人を助けようとしたら、そこで考えなければいけないんだろうな、それを「戦略性」とでもいうのでしょうか?と聞いてきた男子学生には、僕は巧くコンセプトが伝わった、その通り!と褒めたい感じですが、「可哀想じゃないですか致命傷の人を見捨てるなんて」。でもそういう非常事態では、特に医療資源は有限だからこそ、適切に配分しなければならないという考えなんだよ、とくどく説明した。

fuku33「ケーキを売ればいいのに」『福耳コラム』

*2
 一読すると、fuku33さんがトリアージ肯定論を述べているようにみえる。が、ブックマークコメントへの応答として書かれた追記を読むとそうでもないらしい。

(引用者注:トリアージの重要性を理解した上で)もちろん、「じゃあどうすればいいんでしょうね?」という「次の問い」に自分から進んでいく学生もかなりいます。そういう人は、自分で「戦略」というコンセプトをももやもやと意識するようになるようです。でもそういう学生さんばかりでもないのですね。少数ですが、「かわいそう」にとどまって事たれりとする学生さんがいる。教える側としては、みんなもっと早く「じゃあどうしよう?」からやっと始まるスタンスについて考えよう、と煽りたいところです。前途多難ですが。

さらに、こういう応答が続く。

学生の多くは「かわいそう、でも、それではなぜトリアージというものがあるのか?」という次の問いに、ちょっと時間はかかりましたが達したことを学生さんたちの名誉のために付け加えます。それだけに、「かわいそう」で足踏みしてしまう学生さんにちょっと歯がゆい思いがするのです。まさかカマトトぶっているだけとも思いませんし、いろいろ投げかけては見ているのですが。

つまり、fuku33さんは、トリアージの残酷さを踏まえたうえで、トリアージせざるをえない極限状況について、学生に考えさせたかったということだろう。こういうことを考える是非については、以前、議論したことがある。*3なんにせよ、この手の議論は、「だからしょうがないよね」という話には落ち着かせないことが重要である。そして、「『最悪や』と思いながら生きていく<私>とは何か」という問いが、私の倫理に向かう動機である。もし、fuku33さんが、このような動機を学生たちに持たせようとしているのならば、共感するだろう。
 しかし、どうもこの記事には違和感がある。そもそも、なんで女子学生たちは、「トリアージはかわいそう」という発想から抜け出せないんだろうか?それって、授業の仕方が悪いのではないか、と疑ってしまう。なぜならば、トリアージが、それを遂行する人間に与える精神的負荷については、多くのネガティブな報告があがっているからだ。特に、1995年の阪神・淡路大震災において、消防隊員がトリアージを行った後、PTSD様の症状を出している例が報告されている。これは、災害のサバイバーが、生き残ってしまったこと自体に罪悪感を抱くサバイバーギルトに似ている。消防隊員は、助けられなかった被災者たちを、自分が殺したように感じたり、自分は何もできなかったと感じ無力感にさいなまされる。にも関わらず、彼らはトリアージの必要性を認める。このような例を出してなお、「トリアージはかわいそう」という感想が出るのだろうか?
 で、まあ、出てもいいと思うのだ。そこまで聞いても、「トリアージがかわいそう」という学生は、かなり信念がある。ましてや、「『そんな重傷者をもう助けないなんてレッテルを貼るなんて、人権侵害じゃないですか?』と書いてきたお嬢さん」*4などは、fuku33さんに喧嘩を売っているとしか思えない。そう、喧嘩を売っているのだ。fuku33さんに、これを書いた人は抵抗している。そもそも、人権という概念は論理の産物である。これを書いた人は、書いた人の論理で怒っているのだ。
 こういう状況に対して、私なら教育者として情熱を煽られるだろう。ちょっと言ったくらいで、「あーそうなんですか。先生は正しいですね」なんていう学生は、「ちょっと迎合的なんじゃない?」と思ってしまう。感情的には、自分に「わかります」って言ってくれる学生をひいきしたくなるのは理解できる。しかし、論理的に考えれば、自分の考えを否定しにかかる<他者>として現れた学生のほうが、教育者にとっては重要な存在ではないだろうか。
 その上で言うが、教育者が、自分の授業で発言した学生に対し、くさすのってあまり良い構図に見えない。fuku33さんと学生の間には、はっきりとした権力関係がある。もしかしたら、fuku33さんに歯向かうことで、学生の側は単位がもらえなかったり、これから先、教員に良いイメージを持ってもらえなかったりするリスクを負っている。そのリスクを負っての発言に対し、揶揄的に扱うのはすごくイヤな感じだ。*5

追記

今になって気づきましたが、「サバイバーギルト」を「サバイバーギルド」と書き損じていました。すいません。しかし、職能集団を組むサバイバーたちって……笑えない感じです。本文では修正しました。

*1:たぶん、ここは重要

*2:とりあえず、この人の「男=論理的」「女=感情的」という、個人的経験論に基づく感情的な思い込みは、置いておくとする

*3:こういう感じ→http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070519/1179542871http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070520

*4:ちなみに、あたしは、こういうこと書くタイプね。あたしって、ケガレを知らないお嬢さんだから。おほほ。

*5:これまた、反面教師にさせてもらおう。