死刑を求めなくてよい社会を

 id:mojimojiさんとid:sk-44さんの間で、面白い議論が始まっている。
sk-44「社会正義の臨界――光市母子殺害事件高裁判決」『地を這う難破船』
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20080425/1209074435
mojimoji「死刑は社会正義ではありえない」『モジモジ君の日記みたいな』
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080508/p1

 私は、どちらかというとmojimojiさんに賛同する。sk-44さんの死に対するロマンチシズムには共感できないところもある。加害者が「死に直面して罪の大きさを知る」というのは、「そうあったらいいなあ」とは思うがあまり期待しない。死の恐怖に取り憑かれ、人を殺してしまった自分の運命を呪い、「こんなはずではなかった」と被害者のことなど一ミリを省みることなく、処刑される加害者もいることだろう。そこに改悛や悟りはない。被害者が、そうやって加害者が苦しんで死ぬことを望むことを、私は否定しない。だが、被害者でない人が望むことは、否定する。「それはあなたの他人を苦しめたいというサディズムにすぎない」くらいは言う。「うらみ」を持つことは、被害者の持つ特権である。
 また、裏返せは「うらみ」を持たないことも、被害者の持つ特権である。sk-44さんは、繰り返し、「愛するものを奪われること」について述べている。「愛するものの欠如」こそが被害の過酷さであり、「愛の紐帯」を守るために、加害者を処刑するという。しかし、被害者は加害者を愛することができる。聖書に「汝の隣人を愛せ」という一節がある。被害者の隣人とは、まさしく被害のそのときに隣にいた人、加害者である。この社会の全ての人が被害時の加害者を愛せなくても、被害者だけは被害時の加害者を愛せる。その瞬間に居合わせたものの特権である。
 それは、被害者が加害者を愛せ、という厳命ではない。「愛の可能性」がある、ということを言っている。mojimojiさんは「改悛の不可能性」を語っているが、それに付随して、私は「愛の可能性」を語る。最終的な一点において、私たちは加害者が悔いているかどうか確認できない。しかし、反転して、私たちは被害者が愛しているかどうかを、たった一点だけで確認できる。それは「加害者を殺さない」という一点である。改悛不可能な加害者の生存を受け入れること、それが被害者が加害者を愛し、赦すことである。
 被害者は、どのくらい加害者を痛めつければ、そうやって加害者が生き延びていることを、赦せるのかを考えることができる。私は、「赦し」という言葉を、「無罪放免」という意味では使っていない。加害者は罰され、苦しめられなくてはならない。問題は、これまでの刑罰が、被害者の満足いく量や質ではなかったことである。また、被害者が、加害者を赦す気になれないは、被害者の置かれる社会的状況が大きく関与していることが多い。
 社会は、被害者に「赦せ」とはいえない。けれど、被害者が加害者の生存に耐えることのできるような、豊かな被害者支援を用意することができる。そうすれば「赦し」の可能性は、より開かれることだろう。被害者が、加害者をうらまずに生きていける社会を目指す。そのような被害が起きた社会を作った、犯罪被害の第三者の一人として、私は思う。

 それから、タイムリーな本が出ている。

責任と癒し―修復的正義の実践ガイド (LITTLE BOOK)

責任と癒し―修復的正義の実践ガイド (LITTLE BOOK)

これまで多くの本で、Restorative Justiceは「修復的司法」と訳されてきた。この本では「修復的正義」と訳されている。翻訳者の森田ゆりは、性暴力の告発本の先駆けである『沈黙をやぶって』の編者であり、有名な支援者である。現在、CAP(護身術を教える団体)でも活躍している。被害者の支援側からも、このような本を出す試みが始まっている。まだパラパラとしか読んでいないが、「正義」と訳するにあたっても熟考の過程があったことがわかる。
 正義とは何か。それは、私たちの脳内や国家権力ではなく、被害者と加害者の間にある。正義を知りたければ、彼らと関わっていけばよいのだ。被害者―加害者関係に焦点をあてるという、Restorative Justiceは、「知」のありかを照らすこころみとなっていくだろう。

追記:

読み返すと、荒っぽい記事で焦る。「正義を国家権力に譲渡する近代司法と、RJの関係」とか「結局、赦しってのはクリスチャンのもんなのかい?」*1とか考えたいことは山ほど。アウトラインのスケッチということで。

*1:私は特定の信仰を持っていません。なんか偶然の産物で戒名は持っていますが、帰依はしてません。ハワード・ゼアの定義も含めて、RJにおける「赦し」の概念がキリスト教的であることは、何度も指摘され、批判されてきました。一つだけ強調しておくと、「神のために」「神の命により」赦すわけではない、というのが、私が考える「赦し」の話で肝要です。動機付けはないですし、正当化もできないような「赦し」を構想しています。