デリダのパレルゴン論

 ジャック・デリダのパレルゴン論を読み始めた。

絵画における真理〈上〉 (叢書・ウニベルシタス)

絵画における真理〈上〉 (叢書・ウニベルシタス)

ようやく「Ⅰ レンム」を読み終えたので、印象に残った部分をメモしておく。

 「レンム」で論じられているのは「芸術とは何か」という主題である。しかし、デリダらしい問いが立てられている。デリダは「この「芸術とは何か」と発話する際に、発話者はすでに「芸術とは何か」を措定している」ことに、焦点を当てる。
 まず、デリダが取り上げるのはヘーゲル美学である。歴史の中に存在する芸術作品を体系化し、それが芸術だと述べる。そして芸術を分析する中で、哲学的な「美とは何か」についての論考が重ねられる。しかし、このときヘーゲルは「美の本質と芸術の本質を結びつけ終わっている」(39ページ)ということがデリダによって指摘される。

したがって、我々にとって、美と芸術の概念は「哲学の体系によって与えられた前提の一つ」である。「美とは何であるか」という問いは、哲学のみがそれを提示し、それに答えうるのである。美は芸術の、すなわち精神の一つの所産であるからである。美しさの理念は芸術によって我々に与えられるのであり、芸術は精神の、そして哲学的百科全書の円環の内部の円環であり、等々というわけである。(45ページ)

すなわち、

芸術作品→美の規定→精神→芸術作品

という円環に陥る。
 次に取り上げるのは、ハイデガーの芸術論である。ハイデガーは、芸術家と芸術作品の関係性を問題にする。そのあいだにある「第三のもの」が芸術である。すなわち、すでに現出しているの芸術家と芸術作品を分析する中で、芸術なるものは立ち上がってくるのだ。しかし、芸術家と芸術作品は、何を持ってその冠に「芸術」をつけられるのか。やはり、すでに芸術は措定されているから、私たちは芸術家や芸術作品を見分けることができる。
 ハイデガーは先に述べた、ヘーゲルの円環に気づいていた。そこで、円環から逃れでようと、観念論から実在する芸術作品へと対象を変えたはずだった。しかし、ここで繰り返される円環は、ヘーゲルより深い「ヘーゲル的反復」であった。
 デリダはこの円環こそが、「芸術とは何か」という問いの本質だという。「芸術とは何か」を問おうとすると、その導きの糸として「芸術作品は存在する」ことを前提にしなければならない。これが、「芸術は何か」についての「予備定理〔前提:lemme〕」である。この予備定理が、予備である限り、円環からは逃れられない。解釈学的循環に陥り、「表面的には悪循環から派生した論理と形式しか持たないように見える」(51ページ)だろう。しかし、デリダは、あえてその円環に自ら足を踏み入れることが必要だと述べる。

 暴力的に円環を断ち切らないこと(そんなことをしたら、しっぺ返しが来るだろう)、それを断乎として、本当の意味で(Entschlossenheit, Eigentlichkeit)引き受けること。円環的な囲いの経験は何物も閉ざしはしない、それは欠如〔欠陥〕も否定性もこうむりはしない。意志主義なき、違反[踏み越え]的にして強迫なき肯定的経験。すなわち、円環の法則に、円環の歩みの法則に違反〔踏み越え〕するのではなく、信頼してそこに身を委ねること〔s ' y fier 〕。思考はこの忠実さのうちに存することになろう。円環に忠実なこの反復によって、いまだ飛び越えられたことのないものへと到達しようとする欲望も存在しないわけではない。たとえそれが後退的なもの(Schritt zuruck)であろうと、新たな一歩への欲望が、この思考の足取り〔demarche:歩み、やり方、考え方〕を結び合わせそしてその結び目を解く〔lie et delie:関係付け、解放する〕。拘束なき関係〔Lien sans lien〕、その法則から逃れる〔自らを解放する:s ' affranchir〕ことなしに円環を飛び越えること。否定なき歩み〔Pas sans pas〕
(53ページ)

我々が「芸術とは何か」を問うときに、その答えと我々の間には、断絶(深淵)がある。それでも問い続けることは、「思考の祝祭」であり、穴(深淵)を掘って埋める作業である。デリダは、円環的歩みを楽しめ(喜劇的効果がある)と言う。

 このことの喜劇的効果を問題にすること。もしも深淵が十分でないならば、もしも深淵が底なし〔le sans-fond(深淵、無根拠)〕と底の底〔le fond du fond(根拠の根拠)〕とのあいだに――未決定のまま――とどまっていなければならないならば、われわれはそうした喜劇的効果を決して逸することはない。「深い淵のなかにおく」〔maise en abyme〕操作〔operatian〕は、どこかで満たすことに、深淵で満たすことに、深淵を満たすことに、いつでも腐心しているのである(主観の能動性、その多忙な措定、その制圧)
(54ページ)

このデリダの言表にあらわれるのは、本質的無根拠主義ともいうべき、無根拠化への徹底である。つまり、「無根拠」であるかどうか、すらわからない。底なしの井戸のイメージであり、「おそらく底はあるのだろう」と思いつつ、「底はないのかもしれない」としたまま、井戸に土砂を投げ入れては、その反響音で井戸の深みを知り、同時に井戸を埋めようとするのだ。
 さらに、デリダは、今、私が井戸のイメージを使ったような、類比でしか、このことは語れないとする。しかし、類比でしか語れないことと、何も語れないことは違う。この点について、「Ⅱ パレルゴン」以降で論じられることであろう。とりあえず、ここまで。