死について

ちょっと恥ずかしいので閉じておきます


 このところ「死の恐怖」という話題に触れることが多くて、真面目に考えていた。しかし、考えれば考えるほど、私はこの問題に鈍感で無頓着だということばかりがわかってくる。
 「死ぬのが怖くない」といいたいわけではない。私は死ぬのは怖いし、死んで私の存在がなくなるのはとても残念である。きっとその瞬間は、たまらない拷問なんじゃないか、と思ったりもする。
 しかし、それが不条理だ、という感覚がわからない。むしろ、私が無条件に肯定できる唯一の条理かもしれない。私がいつか死ぬ、ということは、どんなに疑っても否定できない。そのことに、私は安心する。
 私は生きているというのは、とても不自然だと思う。イメージ的には、地引網にかかった魚みたいなものだ。偶然、網に引っかかって、浅瀬で必死でバシャバシャもがいているのに近い。そのことが無駄だとは思わないし、「助けてくれ」と心底思って暴れる。だから、死んで元にいたところ(無)にかえしてもらえる、という保証があることは、かなりうれしい。
 いろんな哲学者の本を読んで、どうも「全てが生まれる場所には何もないらしい」ということが、私の中で固まってきた。無の世界が、有に転じて、また無に戻っていく過程そのものであるような、誕生と死はとても自然で条理だと思える。完璧だと思う。
 私は、自分がここに存在していることは変だと思うし、不自然だと思う。それでも、私も誕生してきて、死んでいくと思うと、それは間違いではなく、自然な流れに組み込まれていて安心だと思う。もし、私が死ななくなると、私は不安で生きていけないと思う。
 私はそういう意味では信心深いのだと思う。私にとって絶対者は不在であることが、その普遍性を担保している。いろんな宗教に首を突っ込んでは、私は「その宗教を作り出し、宗教的営みを担ってきた人々の力」(よくない面も含めて)に感動する。しかし、そこから絶対者への信仰には至らないし、至れない。
 長年、私は「命の大切さ」がわからないのかもしれない、とコンプレックスに感じてきたが、そういう問題でもないことがわかってきた。私の「命の大切さ」は、私が生きている限りしか意味を持たない。そうであれば、私の命は大切である。死んだ後は、私の命は大切ではない。ならば、私が生きている間に自分の命を大切にすることは、私の中で肯定できると思った。