矢原隆行「男性ピンクカラーの社会学――ケア労働の男性化の諸相――」

 下の記事と関連して、同じ『社会学評論』から男性のケアワーカーを論じる論文を紹介しておく。
 この論文は「ケア労働の男性化」を主題にしている。近年、急速に男性のケアワーカーが増加している。これまでの男性学では、抑圧された「仕事人間」と、豊かな人生観を持つ「主夫」という対比という単純な構図が描かれてきた。しかし、ピンクカラー・ジョブと呼ばれる、女性が主な担い手である労働現場での、男性労働者を取り上げた研究は少なかった。
 男性のケアワーカーは、「トークン」*1としての視覚的特徴を持っている。看護系学校では、男子学生は「今日は男は何匹かな」と確認されたり、授業中何かと指名される。(可視化)女性スタッフの子どもに対する反応が、男性には起きないと強調される。(対照性)精神科の患者が暴れたときに、押さえつける役割を期待される。(同化)などが、論文内で指摘される。
 また、男性のケアワーカーは、身体接触にかかわるセクシュアリティの問題や、女性のジェンダー・イメージに結びついた感情労働の必要性の問題に直面する。さらに、他の職業に比べ社会的および経済的評価が低く抑えられることに起因する、社会的評価の低さが問題になる。男性が多数派を占める職場での女性労働者が「上昇」イメージ見られるのに対し、女性が多数派を支援る職場での男性労働者は「下降」イメージでみられることもある。
 以上の条件もありながら、C.L.Williamsによる「男性ピンクカラーの優位性」が日本国内のデータにも現れていると、矢原さんは報告する。

 Williamsの主張する男性ピンクカラーの優位性についての国内の統計資料から検討してみよう。「平成17年賃金構造基本統計調査」(厚生労働省2006)においてケア労働にかかわるピンクカラー・ジョブのうち男女別の所定内給与額(きまって支給する現金給与額のうち、超過労働給与額を差し引いた額)が比較可能な「看護師」*2准看護師」「福祉施設介護員」について年齢階級別にみると、「看護師」ではほとんど男女差が見出せないが、「准看護師」では30〜34歳までは男女にほとんどないか、女性の所定内給与額の方がわずあに上回っているものの、35〜39歳以降、男性の所定内給与額が女性を1割から2割ほど上回っている。「福祉施設介護員」では30〜34歳以降で男女の差が開き始め、40歳代での男性の所定内給与額は、女性の1.4倍ほどになる。
 職務上の地位については、管見のかぎりこうした視点から分析可能である有用な公式統計が得られないため、「2003看護職・介護職調査」のデータから看護職における経験年数区分(10年単位)ごとの管理職者の比率を比較した。その結果、経験年数10〜19年の看護職者において、男性では29.6%が副師長以上の職位に就いているのに対し、女性でそうした職位にあるのは11.2%と大きな差が確認された(経験年数10年未満および20年以上では明確な男女差は確認できなかった)。以上の資料から判断するかぎり、Williamsが主張するピンクカラー・ジョブにおける男性の優位性は国内においても(ここの職業間に差異はあれ)一定程度存在するといえよう。

矢原隆行「男性ピンクカラーの社会学――ケア労働の男性化の諸相――」『社会学評論』58(3)、349ページ

このように、ピンクカラー・ジョブにおいても、ジェンダー体制が構築されることが確認された。
 その上で、矢原さんは、男性ケアワーカーの看護職現場での戦略を二つに分ける。
 一つ目は「男性性を不可視化する」戦略である。これは、「専門職としての看護に性差は無関係」というレトリックの中にあらわれる、性中立的なものとみなす試みと、「男女差ではなく個人差が問題」というレトリックの中にあらわれる、個人としての男性性を不可視化する試みがある。
 二つ目は「男性性を可視化する戦略である。これは「機械に強い男性向きの仕事」「体力のある男性向きの仕事」というレトリックにの中にあらわれる、男性向きであるような仕事を指摘する試みと、「男性ならではの看護の視点」というレトリックの中にあらわれる、男性性の意義を主張する試みがある。
 矢原さんはこれらの戦略を以下のように指摘する。

 以上の分析に付け加えるならば、ここで述べられている可視化戦略が、直接的に男性性の利点を主張するものである点においてまさに「男性化」の戦略であることは言うまでもないが、性差を不可視化するという第一の戦略もまた、そこで性中立とされるものが、現実には(ピンクカラー・ジョブにおいても往々にして)男性労働者を基準として構成された職業領域における「普遍的」労働者評価へつながっていくものであることを認識するならば、それはやはりある種の「男性化」の戦略であると言わざるをえないだろう。すなわち、いずれの戦略が用いられるにせよ、ケア労働領域への男性の参入は、当該職業内部における既存のジェンダー体制の再生産にいたらざるをえない。
(350ページ)

この記述により、「打つ手なし」という結論に至りそうになる。ところが、もう少し調査を見ていくと彼らが「なんとかやっていく」ことがわかっていく。その様子は、彼らの首尾一貫しない語りによって見出されていく。性差を肯定する場面もあれば、次の場面では否定する。矢原さんは、このように可視化と不可視化の戦略を、試行錯誤的に対応させていくことを「戦術」と呼ぶ。

男性ピンクカラーにおける一見すると曖昧で一貫しない主張は、それを「戦術」として捉えなおすならば、そこに既存の「男性性」の変容可能性を読み込むことができる。別言すれば、そこで提示される「男性性」は、男性であるという強固なアイデンティティに基づくものというよりも、カテゴリーとしての性差の場当たり的な活用ともいえよう。

 矢原さんは、この戦術の矛盾や曖昧さは、結果として、普遍的な「男性性」を切り崩すという。それは、実際に男性労働者と女性労働者が、同じ現場で同じ労働に携わり、かかわっていく中で、お互いのジェンダーイメージが変容していくからだという。そして、その変容は、労働現場にとどまらず、家庭内にも波及するという。矢原さんは次のように述べる。

無論、ケア労働に従事する男性が、つねに家庭におけるジェンダー平等を実現しているなどとは決して言えないが、彼らがその同僚の多くを占める女性たちから、日々職場および家庭における「働きかた」を学ぶ機会に直面していることは確かだろう。
(353ページ)

ここで、私は、矢原さんの論文を離れて、次の点を指摘しておきたい。すなわち、「分離こそが差別を強化する」ということである。下の記事のように、女性が労働市場から退出していく現状がある。そのことを女性自らが望んでいる、という側面はある。しかし、女性が退出することによるデメリットは、労働力の問題だけではない。一つの同質性であるグループが作られることは、多様な価値観を一つ失うことである。どんな多様性に基づく混乱や困難があろうとも、「なんとかやっていくこと」はできる、という可能性がある。しかし、同質な場所で、多様性を持つことは言語矛盾であり、不可能である。そこに異なる人がいる、というだけで、それは多様であることの豊かさをもたらすのである。

 ところで、、矢原さんの論文は、理論的隘路を実践により打破していく構図が描かれる。このような社会学論文は増えており、これからもこの構図が多用されていくであろう。*3このような、現場の力を研究者が取り上げ、焦点を当てることは大事である。一方で、現場に頼り、現状保守になることも避けなければならない。当然ではあるが、ケアワーカーの賃金は安く、労働条件も整っていない。このような社会的整備を進めることと、現場で何が起きているのかを丁寧に見ていくことは、両立させなければならない。
 

*1:R.M.Kanterの用いた概念。あるグループの多数派を「ドミナント」、少数派を「トークン」とした。トークンの視覚的特徴は「可視性」「対照性」「同化」の三点である。

*2:この呼び方は定着していないようだ。今、ATOKの変換に「看護師」が含まれていなくて、衝撃を受けた

*3:ていうか、私も論文に書いた。わりかし、机上でどん詰まりのことが、現場で「なんとかやっていく」ことができていることに、研究者はビックリするし感動する。ほんまやて。