「動物的としての政治」を構想する机上派と現場派というラベル
id:sugitasyunsukeさんのところ経由で、東さんの政治的立場の表明を読んだ。
「シンポに向けてのメモ」『東浩紀の渦状言論』
「シンポに向けてのメモ2」『東浩紀の渦状言論』
簡単に言えば、「人間的な高度なコミュニケーションとしての政治ではなく、『動物的な政治』のありかたを構想する」ことを目指しているらしい。
偶然にも、動物としての政治を目指すと宣言する人を、2週間前に見かけた。シンポジウム「あたらしく”じりつ”をめざすひとたちへ」*1で、パネリストをつとめた、矢吹文敏である。矢吹さんは、「私たちは『障害者は人間である』ということを主張してきた。しかし、この現状では『動物である』ということに立ち返るべきかもしれない」という内容を述べていた。
現在の福祉行政は、表向きには障害者の権利を尊重しているようにみえる。障害者向けのプログラムには「レクリエーション」と称する娯楽がたくさん用意されている。しかし、それは娯楽を与えることで障害者の目先の欲望を満足させるシステムにすぎず、障害者差別を行う健常者文明は依然として解体されていない。さらに、障害者のスケジュール管理を行政がモニタリングするという、見えにくい形での管理を進めることにより、別の形での抑圧を進めている。
この状況に、矢吹さんの先の発言は向けられている。牙を抜かれた障害者たちに対する「剥き出しの本能をさらけ出し、動物として生きる権利を奪取すべし」というアジテーションだと私は感じた。私は矢吹さんの「動物としての政治」を次のように解釈した。
人間らしく、お互いの意見を尊重する、という営みは尊い。しかし、たいていそういうときの「お互い」とは対等ではなく、権力関係を孕んでいる。話し合いの結果、確認されるのは、「声は聞いてもらえるが、聞いて終わりである」という絶望感だけである。その繰り返しによって、疲弊するのは、いつも弱者(当事者)である。そのような高度なコミュニケーションを期待するのはやめ、ただ「俺たちは生きたい」「俺たちはセックスがしたい」という本能を取り戻す。そして、お願いしてサービスをよくしてもらうのではなく、生きる権利を奪取するのだ。
東さんと矢吹さんが、ほぼ同時期に「動物としての政治」を掲げているのは、単なる偶然である。連関はないし、構想している内容も、まったく別である。しかしながら、両者が同じことを言い出したのは同根である。要するに「話し合いでは、解決しない」こと、つまり、「討議制民主主義」の無力さに対する対処法を必要としている、ということである。
さて、私が東さんの議論展開で違和を覚えたのは以下の部分である。
友と敵を作って、そのうえで他者を尊重したりなんだりする。それはとても「人間的」であり、高級な話ではある。実際、それはある範囲ではますますやるべきだ。たとえばブログとか。ぼくはそう思っている。この点を誤解してほしくない。
しかし、政治の本来の目的が共通資源のよりよい管理にあるのであれば、その過程が必ずしもそういう人間的で高級なコミュニケーションに結びつく必要はない。ポリシーなき政治、討議なき政治だってありうるはずだ。
「シンポに向けてのメモ2」(http://www.hirokiazuma.com/archives/000362.html)
こう書いてしまった時点で、東さんこそが「友と敵」を作っているのである。「ブログ」と「現実政治」を切り離す。「ポリシーのある政治家」(アイデンティティ・ポリティクスの担い手を指すのだろう)と「ポリシーを信じられないポストモダニスト」を切り離す。要するに、「具体的な実践」と「抽象的な理論」すなわち「現場派」と「机上派」を分別し、友と敵として捉えているのである。
私は、このような認識を前にすると、いつも困惑する。なぜなら、私はどちらにも入らない/入れないコウモリみたいな中途半端者だからである。「現場派」というには運動実績がなさすぎ、「机上派」というには業績がなさすぎる。「現場派」には「お勉強熱心でかしこいですね。私たちに教えてください」といわれ、「机上派」には「現場を知っているから、私の話は机上の空論に聞こえるでしょう」といわれる。そんなこといわれたって、困る。どちらも知っているのではなく、どちらも知らない*2のであり、バランスが良いのではなく重心の置き方をいまだ決めかねているのだ。
私は矢吹さんの言葉に感銘を受けながら、東さんの議論を追うことを捨てきれない。そして、どっちかしか選べないなんて変だと思う。
東さんの言うとおり、システム設計において、抽象化された非人間的な手続きが行われることは、致し方ない部分がある。しかし、同時に、システムの作動においては、「生きさせろ」という生身の生き物がありありと現れてくる。そして、少なくとも社会設計においては、作動後に興味を持たない設計者は、「陳腐な悪」に荷担することになる。
ここのところ、繰り返し、東さんを槍玉にあげている。それは、東さんのような、理論家としては名前が知られているが、活動家としては無名の人と、その逆の立場にある人が断絶していることに、私は危機感を持っているからである。私自身が、その両極に引き裂かれる気持ちになるから、だけではない。私は「両者は出会わねばならないと」考えている。互いを尊重しあうわけではない。両者は別様ではあるが、別物ではないことを知るためである。私たちの身近で出会う他者は、そんなに他者ではないことを、知るべきである。それは、「他者としか言いようもない他者」を担保するために必要な行為である。