まだ終わりではない、という認識

 id:FUKAMACHIさんの記事が、話題になっているようだ。FUKAMACHIさんは、一青 窈「受け入れて」を偽善であると批判した。この記事を受けて、多くのコメントが寄せられ、その中にはFUKAMACHIさんの人格やキャリアを否定するような文言もあった。
その後、FUKAMACHIさんは補足の記事で、PVに描かれた被差別者の姿がステロタイプな、かわいそうな弱者であったことを批判したのだと、説明する。FUKAMACHIさんは、被差別者も「普通の人間」であり、「虫も殺さなさそうな純粋な人間」ではなく、もっと複雑な内面を持っているという。そして、PVには、その被差別者の繊細さを踏みにじる表象の暴力があった可能性を指摘している。
 私も、このPVを観たが、不快であった*1。たとえば、もし、冒頭に出てくる特殊メイクの人が「懲役中の強姦殺人犯」という設定であれば、私はかなり興味を引かれたと思う。今の日本社会で、犯罪加害者(特に性犯罪加害者)は排除され、生きることを阻まれている状況がある。そこで、「私は他人を犯したあと、殺してしまった。こんな私を受け入れて。」というメッセージを持ったPVならば、考えるべきことはたくさんある。しかし、本来「どんな人だって受け入れよう」と言明することは、そういう人たち(私たちが受け入れがたいと感じる人たち)をも受け入れることである。このとき、私たちは自分の生理的嫌悪感とも言うべき、不快感をもよおす。その不快感に直面している自らを問い直し、いかに行動するのかを問うのが倫理である。*2
 もちろん、このPVはそんなことは考えていないだろう。そもそも、職業歌手の興行用動画に、そこまで求めるのは難しいと思う。ファンタグレープの原材料に、ブドウは使われていない、ということと同じだ。大ヒットしたSMAPの「世界に一つだけの花」にしたって、花屋の店先に並べられる、選別されたエリートたちをたたえているにすぎない。私はこの歌を聴くたびに、花屋までたどり着く前に打ち捨てられた花が気になってしょうがなくなる。
 だが、こういった偽善とも呼べる、美しき道徳唱歌も、被差別者の悪口(批判ではなく悪口)を飲み屋で酒の肴にしたり、ネットで憂さ晴らしすることよりは、何百倍もマシである。

 先に紹介した記事を書いたFUKAMACHIさんは、次のように述べる。

(引用者註:一青さんの歌は)性同一性障害の友人を思って歌ったという。そうした差別や難病といったテーマを扱えばなんでも褒めろ、批判するな、感動しろとでもいうのだろうか。印籠みたいにそれを出せばひれふすとでも思ったのだろうか。そうしたものに盲目的になれば新たな差別を生むだけだということを20世紀の時代に多く学んだ。差別というテーマは扱いが難しく、一歩間違えれば危険なことになりかねない。あのPVの露骨で一面的な描写の仕方に、そうした土壌を育みそうな危険性を感じとったからこそ私は酷評した。

FUKAMACHI「先日の大反響について」『深町秋生の新人日記』(http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20080227

その意図はわからなくはないけれど、社会はそんなに「差別や難病といったテーマを扱えばなんでも褒めろ、批判するな、感動しろ」という人<だけ>であふれているのだろうか。
 インターネット上では、逆の圧力をかけたい/かけなければと思う人たちもよく発言しているようにみえる。たとえば、先日、私が書いた記事にも「なんでも差別というのはよくない!」というコメントを寄せた人がいた。私は、なんでも差別とは言っていないのだが、「差別」という言葉が出てきただけで、「何か言わねば」と思う人はいるようだ。「お前は偽善者だ」と指摘しなければならないという責務に駆られている。
 差別と言った瞬間に、リベラルぶって愛を語るのも、一くさり露悪的な言動をとることも、どちらも典型的な差別への過敏反応である。両者は表裏だ。私もまた、たいていどちらかの強迫観念に突き動かされる。まるで、他の方法がないかのように、切羽詰り、「ノルかソルか」の決断を迫られたように感じる。また、一部の人はこの衝動を当事者のせいにするだろう。「あいつらがヒステリックだから」と典型的な心理学的投影を行い、動揺してしまった自分の平静を取り戻そうとする。さらに、「あいつらが目障りだ」と排除しようとする。また目をふさぎ、安寧な生を保つために、差別があるという現実から逃げるかもしれない。
 FUKAMACHIさんの指摘どおり、被差別者は複雑な内面を持っているだろう。そして、差別者*3の側もまた、複雑な内面を持っている。「何か言わねば」という衝動と、「何か言ってしまった」という行為を引き受けたあと、もう一度問い直すしかないだろう。偽善ではなかったか、偽悪ではなかったか、落ち着かない状況にい続けることが、肝要である。
 少なくとも、FUKAMCHIさんの紹介記事を通して、多くの人が「差別」という問題に触れた。ここから何を為しうるのか。一青さんを馬鹿にしたり、「リベラル」とカテゴライズされる人たちを馬鹿にしたりする、それは第一段階であろう。次に何をするのか。ここで終わってはいけない。ここで終われば、それこそ、この記事を通して営んだ思考は、善であり悪であり、偽者である。私は「差別」と付き合うには、根気と根性が必要だと思っている。「差別について考えること」を長続きさせることが、大事である。

*1:その不快加減は、id:tummygirlさんの記事や、id:terracaoさんの記事にうまく書いてあったので、割愛。

*2:ここでは、「犯罪加害者」を例にあげている。しかし、加害者だけでなく、被害者と接するときにも、同じ局面はよくある。たとえば、ある支援団体のDV被害者支援者養成における、一番重要な訓練は、「逃げなさい」といわないようになることである。「逃げれば解決するにもかかわらず、逃げない」という状況にある被害者を、しばしば支援者は「間違っている」と思い、憤りを感じる。自分の言うことを聞く被害者を受け入れることは簡単だ。だが、他者を受け入れるとは、そんな単純なことではない。

*3:一応補足だが、ここでいう「差別者」とは差別構造を生み出す人たちである。リベラルなヒューマニストも、露悪的なパフォーマーも、同じ「差別者」の中に含まれている。