『国文学』伊藤キムインタビュー

 他分野雑誌の、演劇特集は義務的に買うようにしているんだけど、今回はさすがに・・・特集名が「現代演劇と世界同時性」っていうダサさもキツい。もう、10年くらい言ってない?「同時多発」とかさ。若手の劇作家・演出家のゆるーい演劇論が並んでました。わかりやすくて、率直で、なに書いてあったか、すぐ忘れる。現在の小劇場演劇をそのまま映し出したような特集ではありました。しかし、1600円は高いよ・・・。

 その中で、伊藤キムのインタビューが載っている。私は伊藤さんのファンで、ワークショップ*1に参加したこともある。教えるのが上手くて、初心者でもプロダンサーでも関係なく、ムキになって頑張れる楽しい稽古だった。
 伊藤さんは、眼帯をしていて、子どもの時に怪我をしたというのは、伝え聞いていたけれど、はっきりそのことに触れたインタビューは初めて読んだ。
 伊藤さんは、4歳のときに、ケガで片目を失う。それはスティグマであり、幼少期から人前で、自分をさらす経験をするという運命を背負ったと語る。さらに、伊藤さんはこう続ける。

 ただ、問題は、もしこれ(引用者注:怪我)がなければ伊藤キムは成立していなかったか、ということなんです。
 もし僕がケガをしていなくって、でも踊りをやりたいと思ったら、ものすごく努力しないとダンサーにはなれないだろう。たぶん。無理だったでしょうね。絶対無理。だって、こういうケガしたっていうこと自体は、どんなに練習したってできないことですから。たとえば、すごく背が高く生まれるとか、男に生まれるとか女に生まれるとか、インド人に生まれるとか、貧乏な家に生まれるとか、そういう運命を背負うということはあとでどんなふうにやったって、変えようがないじゃないですか。出自っていうのは。
 となると、もし僕にこういうこと=ケガがなければ、たぶんいまこうなってはいなかっただろうな。すると、今度は自分で自分を卑怯だなって思うんですよ。ずいぶん卑怯な手を使ってこういうふうになっているなと。

伊藤キム「沈黙と饒舌のダンス」『国文学』学澄社、2007年7月、121-122頁

「卑怯だなって思う」という言い回しが、いい。ひとつの運命の引き受け方として、上手い言い方だと思う。

*1:「階段主義」という階段から転がり落ちるパフォーマンス。思えば、あのとき私に階段の転がり落ち方を教えてくれたのは、今をときめく黒田育代さんだった。なんて贅沢な!むちゃくちゃ美人で優しい人でした。