「非モテ」か「女子力」か?

非モテ」か「女子力」か?

 robierobieさんが非モテを自称するフェミニストを批判している。

たまにフェミニストを自称する人の中に、自分はモテない女だ、とか、わざわざいう人がいるけど、あれってどうなんだろう。

例えば、「非モテ」を自称するくせに、自分の書く文章の中に自分とパートナーとの話をしょっちゅう書くような自称「フェミ」への不快感、とか。。とりあえず先日友人とそんな話になった。

robierobie「『非モテ』と『女子力』」『ハレンチ・フェミニズム外伝』(http://yaplog.jp/robierobie/archive/373

たぶん、これは私のようなヘテロ若女子のことを批判しているのだと思って興味深く読んだ。私はフェミニストを名乗ることもあれば、(大々的に言う気はないけれど)自分を非モテだと思っている。

 話は飛ぶのだけれど、今日、結婚を間近に控えた友人とお茶を飲んできた。結納や、試着したウエディングドレスの写真のお姿はもちろん、友人が光り輝くばかりに女子力*1を発揮していたのに目がくらみそうだった。きれいに染めた髪に、ベージュのワンピースに、ネイルはピンクのフレンチだった。
 私は大変、大変反省した。このところ、忙しい上に、悩みが多くて、自分が女子であることは二次的、三次的な問題になっていた。パーマは落ちかけ、服は歩きやすいパンツにローファー、ネイルにいたっては「どうせ、はげるしね」とエナメルを買う気もしなかった。女子としての自覚は銀河の彼方。
 私は若女子で男が好きだ。ついでに言うと、年上で頼れるタイプが好きだ。媚びるし、笑顔も安売りする。フェミニズムが批判してきた、男が求める女子像を体現するよう努力している。
 しかし、しかし、私の努力は報われない。ここが、私の最大の悲しみである。たぶん、なんか間違っているのだと思う。私の中の、モテ女子像が。それか、私はそういう女子像が似合わないのだと思う。私としては、今日会った友人のようになりたいが、彼女のように男子に扱われた試しがない。とても残念だ。
 モテようとしないので、モテない人は、非モテではないと思う。それは政治的戦略が成功しているので素晴らしいと思う。非モテというのは、私のように、モテの努力が透けて見えるのに、いまいちそれが効果を発揮していない人を指す。非モテの滑稽さは、そこにある。モテたいのに、モテないのが非モテ

 だが、私にはパートナーがいる。だったら、少なくとも一人にはモテているのではないか、と思われるかも知れない。確かに、モテた、彼と付き合うそのときまでは!けれど、毎日の暮らしの中で私の女子力はそぎ落とされ、生活の中の手あかに汚れ、もう腋毛が生えていても気にしなくなった。(女子生活をしている皆さんは、それがどれほど致命的な女子力低下かご存じのはずです。)
 女子力で、男と共同生活を維持するのは大変難しいし、私は挑戦する気になれない。だから、女子力を放棄する代わりに、生活力をつけていくことになった。好きだから一緒にいるわけではなく、一緒にいるためには好きでなければ辛い。だから、お互いを好きでいるために努力するが、私は女子力を磨く代わりに、生活力を磨いたのだ。私のパートナーにとって、私が女子であるという要素は、共同生活においてきわめて低い。
 モテというのは、状態を指すのであって、経験を指すわけではない。私にはモテた時期がある(と言える)。しかし、現在の私はちっともモテない。

 それは、女子の形をしていないことではない。明らかにモテたそうなのに、どうも女子としての需要がない。それは他人に必要とされないわけではなく、人としての需要はある。だけど、私はすごくすごく寂しい。平たく言えば、「私はもっと男子にちやほやされたい」!!
 この話は、男子の非モテ話に繋がっていくので、次の日の記事に続く。

 ところで、私のどこがフェミニストか、と聞かれると、迷うところではある。しかし、このように私が自覚的に男に媚びれる(自分が男に媚びることを、自分で認められるようになる)には、フェミニズムを通過する必要があったし、今も私は「自分が女である」と言うためには、フェミニズムは必要だ。私のような女でも、男を好きになって良い(誘惑して良い)と思えたのは、フェミニズムの影響なので、フェミニストと名乗ることにしている。

*1:安野モヨコが『美人画報』で連発した女子がモテるための力。女性に求められる「モテたいなどとは思わない」慎み深い女らしさではなく、「男ってこういうのがスキなんでしょ?」と強迫的に追いつめられるモテ願望を凝縮した媚びのこと。