社会運動と暴力

 沖縄の反基地運動が話題になっています。座り込み(シットイン)の定義が議論になっていましたが、ものすごくよくある運動戦術なので、規模や場所や時間の長さなどがバラバラなのは当たり前だろうと思います。ところで、反基地運動であれ、どんな運動においても暴力行為はゆるされない、という声が上がっています。

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 それでは、過去の社会運動における暴力事件を振り返ってみましょう。水俣病運動では、自主交渉派によるチッソ東京本社での1年8ヶ月にわたる座り込みの運動(1971-1973)がありました。かれらの目的はチッソの社長と対話することです。結局、正面からの対話は受け入れられなかったので、自主交渉派は突入部隊を組織して*1社長室を占拠し、膝詰めで社長と話し合いました。その様子は映像で記録されています。その後、自主交渉派は補償協定を結ぶ立役者となります。

 この座り込みの運動のなかで、リーダーだった水俣病患者・川本輝夫さんは傷害容疑をかけられ、任意出頭を求められ、家宅捜索を受けました。川本さんが、チッソの従業員に暴力をふるったとされたのです。その経緯は米本浩二水俣病闘争史』で概説されています(太字は引用者)。

 川本輝夫への警察の強制捜査が始まったのは一〇月二五日である。警視庁丸の内署は同日、川本に「傷害容疑がある」と二九日に任意出頭を求めた。三一日早朝、出頭した川本を私服刑事数人が車で連行。警視庁の極左暴力取締本部で取り調べを受けた。同日、告発する会の東京・荻窪の宿舎と、水俣の川本の自宅が家宅捜索を受けた。

 宿舎の石牟礼道子は捜索の一部始終を目撃した。〈ここに至ってなおただの一度たりとも公権力の手によっては、犯人チッソの取り調べはおろか、被害民の実態調査はいうにおよばず、救済策などなにひとつ自ら立てたことのない国家が、川本輝夫水俣の自宅まで!〉(『天の魚』)。

 川本は七二年一二月に障害の罪で起訴され、東京地裁は七五年一月、罰金五万円、執行猶予一年の有罪判決を出した。東京高裁は七七年六月、地裁判決を破棄し、「水俣病の被害という比較を絶する背景事実があり、自主交渉という長い時間と空間のさなかに発生した片々たる一こまの傷害行為を被告人らが自主交渉に至らざるえを得なかった経緯と切り離して取り出し、それに法的評価を加えるのは、事の本質を見誤るおそれがある」と起訴したこと自体検察官の公訴権濫用だと断じた。最高裁は八〇年一二月、検察の上告を棄却し、高裁判決が確定した。(155-156)

 重要なのは、引用部にあるように、裁判において、川本さんの「暴力をふるった」という一つの行為を、水俣病の被害を受けて苦難にある患者たちの境遇と切り離して判断することが、不当であると判断されたことです。公害加害企業チッソ水俣病患者の間にある、継続的・構造的な被害加害関係の中で、川本さんの暴力行為が起きたことを勘案すべきであるというのです。

 上の判決に即して言えば、沖縄の反基地運動で活動家による暴力事件についても、米軍と基地周辺住民の間にある、継続的・構造的な被害加害関係のなかで起きたことであることを勘案すべきでしょう。ここでいう、継続的・構造的な被害加害関係については、多くの研究者が明らかにしてきたので割愛します。もちろん、長い戦前・戦後の沖縄の歴史と結びついた問題です。社会運動の個々の暴力事件だけを取り上げて、その善悪を問うことは困難です。

 他方、こうした長い説明はTwitterを中心としたSNSでは注目されにくいため、もっとキャッチーで議論に参加しやすい切り口の方が注目を集めます。もちろん。この件をきっかけに米軍基地の問題に関心を持つ人もいるかもしれませんが、多くの人は目についたことだけを発言し、すぐに忘れてしまいます。これは、現在のインターネットの一番大きな問題です。私自身、上のような水俣の事件をすぐに想起して記事を書けるのは、2015年からずっと水俣の問題を追っているからです。それでも、水俣についてなにかわかったとは思えず、少しずつ理解の努力をしています。こうしたコツコツとした調査の作業なしに、社会運動の問題には向き合えませんが、インターネットと相性は悪いです。

 

*1:指揮官の松浦豊敏はインパール帰りの元兵士でした。

近況

 環境破壊事例における修復的正義についてのハンドブックが、Palgrave社から出版されました。英語でも初めての環境修復的正義の論文集となっています。ご関心ある方は、お手にとっていただければ幸いです。なんとこの本の表紙の写真には、私も写っています。(オカッパの後ろ姿が私)なんと、表紙デビューしてしまいました……この写真は、アートを通した修復的正義の活動のもので、本書のChapter 16でBurnilda Pali他の「The Art of Repair: Bridging Artistic and Restorative Responses to Environmental Harm and Ecocide 」が事例として取り上げています。

 もちろん、論文集には私も寄稿しています。タイトルは「Exploring Environmental Restorative Philosophy for Victims: The Pollution and Life-World in Minamata, Japan」で、環境破壊の被害者が修復的正義に向かっていくための内発的な思想を、水俣地域を事例にして描き出しています。具体的に取り上げたのは、水俣における石牟礼道子、不知火会総合学術調査団、緒方正人、本願の会の活動です。ディスカッションでは、水俣から見えてくる修復的正義の哲学は「個人の内省ではなく相互交流の中で生まれてきた思想であること」と「非言語的な表現を含むこと」を論じています。

 私が水俣で哲学の研究をしようと思ったきっかけは、2016年に川本輝夫さんが「水俣には哲学が必要だ」とおっしゃっていたと知ったことなのですが、それから6年近く経ち、やっと1本目の「水俣の哲学」の論文を書けたという気持ちがあります。今後も哲学アプローチでの水俣研究を積み重ねていきたいと思っています。

 さて、「当事者は嘘をつく」についてのブログ記事を書いていただいています。

manaasami.hatenablog.com

執筆されているid:manaasami さんとは、昔、ウェブ上の掲示板で交流がありました。あさみさんは、「いつか愛せる DV・共依存からの回復」の著者でもあります。残念ながらこの本は絶版だそうですが、ブログ記事では続編にあたるDV・共依存についての手記を書いておられます。どれも読み応えのある記事ですので、ご関心のある方にはおすすめです。

 私の本は届くところには届いたので、本当にありがたいなあと思っています。本を出版後、マスメディアからの取材もありましたが、取材者には「話がわかりにくい」と言われたり、サクセスストーリーを語ることを求められたりすることもありました。何度も書いた通り、私の本は「お話」にすぎず、私の実際の人生はもっと複雑で一つの線にはならないぐちゃぐちゃしたものです。私はそういう生をそのまま受け止めたいと思っています。それができないのがマスメディアなのだとすれば、私は相容れないなあと心底思った数ヶ月でもありました。

 私の日々はコツコツと資料を読んで、コツコツと文字を埋めていくだけの地味なものですし、書くことが好きで今の仕事をしているので、これが続けられたらいいな、と思っています。

近況

 そろそろ、夏の休暇も終わって大学に同僚たちが戻ってきました。私はまだ、9月末に学会報告の予定があるのでバタバタしています。少しずつ、在外研究の終わりが近づいており、航空チケットも取りました。1月初めには帰国予定です。

 最後のあがきのように、あちこちの学会に行っています。先週はルーマニアブカレストであった日本学会に聴講者として参加してきました。小規模でしたたが、どの報告もとても面白かったですし、知り合いもいないのにふらっと伺った私を歓迎してくださって、とても嬉しかったです。

ucdcjstudiesconf.wordpress.com

 「まだ帰りたくない」と思う一方で、帰国したらもっと日本の哲学・文化に焦点を当てて、環境問題を中心に研究を続けていきたいという気持ちになっています。もう一回、自分自身とルーツを結び直すための勉強をしたいな、とも思っています。この年になって、やっとそんなことを考えるようになりました。

 そんな夢想はともかく、現実的には科研費や公募の書類の作成に追われています。来年はどうなるのかさっぱりわかりません。

 最近書いたものとしては、平野啓一郎『死刑について』(岩波書店、2022年)の書評があります。共同通信から配信され、全国で順々に掲載されたようです。

 

 オンラインメディア・Modern Timesでは、宮崎駿のアニメーション作品を読み解く連載を続けています。先日、ジェンダーのシリーズの第2回、第3回が公開されました。

www.moderntimes.tv

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近況

 久しぶりの更新になります。6月まで論文を書いたり、学会報告をしたりで忙しかったのもあるのですが、なぜか自分のブログだけアクセスできない状況になりました、奇妙な状態が続いているので、運営に問い合わせしているところです。本人は元気でやっています。

 「現代思想」7月号の巻頭に、森岡正博さんと対談をした記事が出ています。学部制のころに夢中になって図書館で読んで、コピーをとりまくっていた雑誌に、よもや自分が出るとは……ということで、さすがに手元に届いた時には浮かれました。

 対談では、私は好き放題にあっちこっちに飛びまくりながら話しています。対談の課題図書として、私から石原吉郎の『望郷の海』を提案していたのですが、肝心の私自身が前日に読んだ細見和之石原吉郎』に大きく揺さぶられたので、それに引っ張られながら喋っています。私は研究者としては、当然、法制度や社会運動の面から、犯罪や暴力の被害ー加害関係について検討してきたことが多いのですが、もともとの私個人の持っている関心は文学的な罪と赦しが中心であるので、せっかくの現代思想の対談ですし、そういう話題が中心になっています。対談の最後では、実存的にひとりの人間として被害や加害に向き合うことと、研究者として学問に取り組むことが繋がるのか、繋がらないのか、というような議論になりました。

 実際に雑誌を手に取って読むと、私と森岡さんの対談だけ、昔の「現代思想」みたいですね。私は「遅れてきたニューアカ」なところがあるので……

 『当事者は嘘をつく』の書評もいくつか拝見しています。文学ムック『ことばと』に掲載された、書評家の江南亜美子「更新される、『私小説』」で拙著を取り上げていただきました。私のエッセイを「私小説」として読むという試みがなされています。

 この点については、佐々木敦×樋口恭介×大滝瓶太 「小説が私の言葉になるとき」という対談イベントでも取り上げていただきました。たしかに、私はフィクションの物語のように自分の人生に起きたことを書いたわけで、私小説といえばそうなのです。ただ、私はあんまり文章が文学的ではないという劣等感は常に抱いているので*1、文章を褒められたのはとても嬉しかったです。あと、樋口さんが何度もすごく良いと言ってくださっていたので、こちらも素朴に嬉しかったです。

 考えてみれば、私は学部生の頃は、ハイナー・ミュラーハムレットマシーン」の上演プロジェクトに関わっていました。「ハムレットマシーン」(1977)は難解な詩のような戯曲で、「I was Hamlet (僕はハムレットだった)」というセリフから始まり、もはや単一の主体を維持できない物語の主人公モノローグが続きます。ポストモダンの時代には、「私」という存在をひとまとまりの自我としてはもはや語れないのだ、みたいなことを若い時に演劇関係の人たちと議論していたので、その延長線上に私のエッセイもあるのかもしれない、と後付けですが思いました。

bookandbeer.com

 オンラインメディア・Modern Timesでの連載は、宮崎駿をテーマに続いています。トピック1の「戦争」の第3回目では、「風立ちぬ」を取り上げて論じています。

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 トピック2は「ジェンダー」で、宮崎駿の「ロリコン」の側面とその作品について書いています。こちらも連続3回で、この次には「魔女の宅急便」を取り上げる予定です。

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 研究は、投稿した英語論文の修正などに追われていました。一本は、ゲラが出ましたので近日中に、Palgrave社から出版される共著論文集に掲載される予定です。あと二本は修正原稿をエディターに送ったので返事待ちです。3年間で5本の英語論文を投稿したので、頑張ったほうではないでしょうか。さすがにもう力尽きそうなので、あと半年ほどはインプットに努めたいと思っています。最近は、アートや集団記憶の問題に関心を寄せています。

 国際学会では、European forum for restorative justiceの環境修復的正義のワーキンググループで、共同パネルに参加しました。最初は、英語のオンライン・ミーティングに出席しても、もう座ってるだけで気を失いそうに緊張していましたが、今はすっかり慣れました。まだ英語力に不足はあるものの、中間報告レポートの取りまとめ役を買って出たりして、積極的に参加しています。単純な話ですが、自分にできることが増えていくのは楽しいです。

 また、国際被害者学会では、個人報告として、『当事者は嘘をつく』の出版経験を通して、研究者と当事者のダブルアイデンティティを持つことについて話しました。学術的にはまだ研究するには至っていませんが、同じ立場の人がこっそりカムアウトしてくれたり、「本を買いたい」と言ってくれたり、とても嬉しい反応が多かったです。「英訳を出さないのか」と聞かれることも度々あり、国内だけではなく海外にも響く普遍性のあるテーマなんだなあと感慨深かったです。

 対面学会は、とても楽しかったのですが、案の定、COVID19に感染しました。おそらく、いま、日本でも流行っているBA.5株でしょう。同じ学会に参加した友人たちが一網打尽でした。幸い、ワクチンも3回接種していますし、高熱は出たものの軽症ですんで回復し、今のところ顕著な後遺症はありません。もうベルギーでは、感染しても報告などは必要なく、自宅でパラセタモールを飲んで休むことになっています。マスクも必要ありませんし、手をこまめに消毒する人も減りました。感染は拡大し続けるはずです。そういうわけで、こちらの学会に参加される方も増えていますが、くれぐれもご注意ください。私は9月末にはスペイン・マラガで開催されるヨーロッパ犯罪学会に参加予定です。

*1:たとえば、論文で石牟礼道子の一節を引用した後に、自分の解釈を書き加えている時ほど「ああ、私の文章はゆるいなあ」と思うことはありません。

アジア環境哲学ネットワーク・オンラインシンポジウムのお知らせ

 2022年6月17日・18日に、アジア環境哲学ネットワークの第一回のオンラインシンポジウムが開催されます。第一言語は英語です。無料ですが事前に登録が必要です。

 インドから日本まで十数カ国から20名以上の多様な報告者が登壇します。ワークショップでは、「アジアにおける自然とはなにか」と「アジアにおけるナショナリズムと環境哲学」、今後のプロジェクトの展望について議論します。分科会は「哲学的伝統」「政策」「先住民の知恵」「映画」「文学」でそれぞれの報告者がプレゼンテーションを行います。

 ご関心をお持ちのかたは、以下のリンク先からご登録ください。詳しいプログラムも掲載されています。

asiaenviphilo.com

 英語版は以下です。

asiaenviphilo.com

水俣についてのイベントのお知らせ

 熊本市の新聞博物館では、6月10日まで「写真家が見た水俣」の展示が行われています。プロジェクトの代表は、写真家の芥川仁さんです。貴重な写真を見る機会になっています。

kumanichi.com

 また、6月10日までトークイベントの録画が公開されています。YouTubeで無料で視聴できます。

 www.youtube.com

 さらに、6月11日には水俣・熊本みらい基金による「緒方正人さん・斎藤幸平さんによるオンライン講演&トークショー」がオンラインで開催されます。無料ですが事前に登録が必要です

 

minamata-fund.org

近況

 週刊新潮の書評欄で、中江有里さんが拙著を取り上げてくださっています。ありがとうございます。

www.bookbang.jp

 また、京都新聞にもインタビュー記事が出ました。もとからよく知っている広瀬一隆さんが聞き手だったので、自分としてはいつもより踏み込んだことを話になっていると思います。

 これで取材はひととおり終わりました。なんだか思ったより大変でした。被害体験についていろいろと尋ねられると、過去に引っ張られる感じがします。それに抵抗しようと、やたら前向きに今の仕事を頑張ろうとするので、過去と未来で綱引きをしている状態になりました。いつもより疲れやすくなってしまいました。そのうえ、取材によっては「言ってないこと」が原稿に書いてあると感じることもありました。「かわいそうな被害者が社会を変えるために立ち上がる」というストーリーに押し込められたようで、げんなりしました。私の本は、そういう第三者の態度を批判しているだけに、「せっかく書いたのになにも伝わらなかった」という虚無感がありました。さすがに「ウゲっ」となる体験でした。他方、私は研究者でもあり、インタビューをする側にもなるので「他山の石」にしたいと思っています。

 一部のジャーナリストが「かわいそうな被害者」ばかりを取り上げたがる件は、いまの社会で起きていることにもつながっているとは思います。SWASHからAV新法についての共同声明が出ています。詳しくこの件について書きませんが、以下に尽きると思います。

したがって、障害や性被害経験を有するか否かなど、個々のアイデンティティや経験を就労の際の条件とすることは、人権侵害であり、決して許されません。個々人は自分の人生を自分で選択する権利を有しています。その権利が侵害され被害にあったり差別経験を持ったからといって、その力を、その権利を失ったわけではありません。  私たちはそれぞれの経験を生き抜き、ここに存在しています。 そして、自らの人生を自分で選ぶなかで人生の過程に危険が伴う時には、その危険から身を守るための権利を有しており、それを主張することが正当なことだと確信しています  

swashweb.net

 まずは声を聴くことです。あんなに性暴力被害者に対して「声をあげてほしい」と言うのに、実際に性産業で働いている人たちの声を聴かないという姿勢を示す支援者は、ダブルスタンダードに陥っているのだと思います。10年前に、すでに性産業で働く性暴力被害者に対する調査は実施されました。そのなかでも、当事者の声は多様であり、一つにはまとまりません。

font-da.hatenablog.jp

 聞き心地の良い、自分の価値と一致する声だけを「本当の当事者の声」だとすることに私は抵抗してきたし、これからも一貫してその態度を取ると思います。ときには、私には受け入れ難い話をする当事者もいます。私に対して不当だと思うことを言う当事者もいます。でも、それは「当事者の声」でしかありません。すべての当事者の声を「なかったこと」にしないでほしいと思っています。

**追記

 今気づきましたが、一部のフェミニストの法律家、法学者の人たちも、AV成立を求めて声明を出しています。セックスワークについての考えや、賛同理由は私とは違いますが、結論は一致しているようです。私は性の問題に対する法の力の働きを強めることには慎重な立場ですが、立法では専門家による議論が不可欠ですので、このような動きが出たことはよかったと思っています。

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