新刊発売&オンラインイベントのお知らせ

 ついに私の新刊『当事者は嘘をつく』が発売になりました。

 実はまだ私は、本をこちらに転送してもらっているところで、実物は手に取っていません。なので、「本当に出版されたのだなあ」とのんきなことを思っている間に、たくさんの感想をいただいて恐縮しています。本当にありがとうございます。付き合いの長い仲間たちも、早速本を読んでメッセージをくれて、お互いに生き延びた経験が「過去になったこと」を分かち合ったりしました。当事者、研究者、支援者、そして本が好きな人たちがそれぞれの立場で、私の書いたものを受け取ってくださっていて、すごくありがたいです。

 同時に不思議な感覚ですが、出版された本はもう「私のもの」とは思えないですね。学部生の頃に、芸術学の授業で、芸術作品は「作者のもの」でも「鑑賞者のもの」でもなく、「作者の創作行為」と「鑑賞者の解釈行為」の間に媒体としてあるというような話を聞いた記憶がうっすらあります。そのときに黒板に描かれていた図を思い出したりしていました。もちろん執筆した責任は私にあるのですが、所有物にはならないのが、文章を書くということの面白さだと再認識しています。今後も、いろんな人のところへ私の文章が旅立って欲しいです。

 そして、出版記念のオンラインイベントを開催していただくことになりました!一つ目は栗田隆子さんの主催される、Twitterの「スペース」という機能を使ったイベントです。こちらは、スマートフォンTwitterのアプリを使うことで聴けるようです。参加無料です。

2022年2月8日 21時(日本時間)から 参加費無料

https://twitter.com/i/spaces/1nAKEYqgPwXKL?s=20&t=z-zCbBeK7TQTxQ90IAJTlg

 

 栗田さんとは、「ズレフェミ屋」として文学フリマに細々と出展して一緒に本や冊子を頒布してきた仲です。きっかけは、栗田さんが関西に来られたことでした。いまは栗田さんは関東、私はベルギーで物理的に離れてしまったのですが、オンラインで話す機会があるのは嬉しいなあと思っています。*1栗田さんの出された本は以下で、とってもおすすめです。

 二つ目は代官山Tsutayaさんが企画されるオンライントークのイベントです。カウンセラーの信田さよ子さんとお話しします。信田さんには帯にコメントをいただきました。こちらは、ズームによる有料配信で事前に申し込みが必要です。

2022年2月25日(金) 19時(日本時間)から

参加費 1300円(書籍付きのセットプランは3480円)

https://peatix.com/event/3149551

 

store.tsite.jp

 信田さんとの出会いのきっかけは、たぶん私が信田さんの本を批判含みで取り上げたことだろうと思います。そのとき、私の記事を真っ向から受け止めてくださったので「えらい人*2に喧嘩売ってしもうた」とビビったことを今でも覚えています。次の記事です。*3

font-da.hatenablog.jp

 偶然ですが、この本も筑摩書房から出ています。いまは文庫で手に入るようです。私は信田さんとは、シンポジウムで短い時間、議論したことはあるのですが、正面からお話しするのは初めてです。どうなるのか全くわかりませんが、聞いてる方が面白く聞けるものになればいいなあと思っています。

追記

 栗田さんとのオンライントークの日付が間違っていました。ごめんなさい!!

 

*1:私はこんなにインターネットが好きなのに、自分にとって「家が近い」ことが存外、大切だったんだなあと最近思っています。私の親しい人のほとんどは、関西近辺か水俣かベルギーにいる、もしくはかつて住んでいた人たちです。なので、コロナ以降のオンライン化に心理的についていけてないところがあります。今回のような利便性はよくよく承知してるんですが……

*2:これは関西弁の「えらい人」で「偉人」とはちょっとニュアンスが違います。「飛び抜けた人」というような意味です。

*3:13年も前で、まだ研究者になる道筋も見えていない頃です。今だと「絶対こうは書かない」と思う文章がいくつもあって、読み返すと「うわあ」と思います。たぶん、今書いてるものに対しても、10年後は思うんでしょうが。

修復的正義についてのweb連載が始まりました。

 本日創刊した「Modern Times」というwebメディアで、修復的正義の3回シリーズを書いています。無料ですのでご関心ある方はぜひアクセスしてみてください。最近、話題になっている「キャンセルカルチャー」の話題から始まり、なぜ、暴力や犯罪の加害者の声を聞くことが重要であるのかを、フェルナンド・アラムブルの「祖国」を通して述べています。次回も近々公開予定で、より具体的な修復的正義の実践事例を紹介します。私にとっては初めてのウェブメディアでの記事の執筆になりますが、良いものにしたいと思っています。

www.moderntimes.tv

 裏話としては、プロフィール用の写真を撮らねばならず、悪戦苦闘しました。ちょうどパートナーがこちらにきていたので、撮ってもらったのですが、恥ずかしいし、照れくさいし大変でした。「本を読んでいるところか、考えているところ」という指定があったので、実際にいつもどおりの風景を撮ってもらうと、机に向かう背中と壁しか映ってなくて「これはどうすれば……?」と思いました。何枚か頑張って撮ったのを、いい感じに加工していただいて、研究者っぽく見えるようになっていました。プロの力は素晴らしいです。写真を求められることも増えたので、どこかでちゃんと撮らないといけないなあ、と思っています。

 ところで、「キャンセルカルチャー」については、ネットでも議論が続いているようです。特に大学の非常勤講師の雇用については、私も当事者にあたります。いま、非常勤講師の問題は複雑になっていて、ここ数年、長く続けてこられた方は無期転換で雇用が守られることも増えました。他方、新規参入者は非常勤講師の職を得ることも難しいですし、もともとの契約書に年限が明記されている(実質、雇い止めの予告)ことが多いです。私自身、日本で非常勤講師をしているときには、ちょうど狭間の世代にあたり、無期転換の対象になりませんでした。働いている時は毎年、契約を更新していただけるのかとても不安でした。もちろん、定職への応募も毎年、書類をたくさん出しますが、なかなか通りません。

 こうした不安定な雇用状態を改善していくことは、多くの非常勤講師の切望だと思います。だからといって、学外の常勤講師に嫌がらせをすることが許されるわけはありません。また、それらに対する批判が出るのも当然のことでしょう。私は、重要なのは「キャンセルカルチャー」を批判することではなく、人事プロセスの透明化と民主化であると考えています。もちろん、いまの正規の大学教員になかにはそのために尽力しておられる方がいるのも承知しています。大学運営の実務にあたる上では、単純な業績主義ですまないだろうことも理解しています。また、これらの状況をうんでいるもっとも重要な要因は大学予算の削減(特に人件費削減)でしょう。運営する側にも多大な負担がかかっていることは推察はできるのですが、もう少しでも状況が良くなることを願っています。

 さらに、研究のグローバル化が進む一方で、海外で研究を発展させることが、どんどん難しくなるように思っています。私のように、博士号をとったあとに、学振PDその他奨学金などを利用して在外研究をする場合は、全ての非常勤講師の職を手放して渡航することになりますし、帰国後は完全にゼロからのスタートになります。ですので、もし私が無期転換の対象になっている場合は、渡航をためらったかもしれません。理想は、定職に就いてからサバティカルなどで在外研究にあたることでしょうが、今のジュニア研究者はそんなことは全く期待できません。そういうわけで、今はCovid19の影響で状況が見えにくくなっていますが、在外研究を考えるジュニア研究者は減るかもしれないと思っています。必ずしも海外での研究経験が必要なわけではないですが、自分の研究を発展させたいと思う時、就労状況が原因で大きな葛藤が生まれる現況はあまり良いとは思えずにいます。

 最後にこれらのことを言及することも、私のような定職に就かない研究者にとってはためらうことです。文科省や学会も無記名での調査などを行うようになっています。少しでもこれらの声が届くことを祈っています。

高畑勲「かぐや姫の物語」

 遅まきながら、高畑勲監督の「かぐや姫の物語」を観た。公開された頃に、サバイバーの友人から「あれはDVとか性暴力の話だ」と聞いていたのだけれど、全くその通りだった。

 物語は原作の「かぐや姫」をトレースしている。竹から生まれた姫は、おじいさんとおばあさんに愛されて、野山を駆け回る元気な少女としてすくすくと育っていく。近くの子どもたちと遊び、少年・捨丸に惹かれていく。ところが、おじいさんは「この子を高貴な姫に育てなければならない」という使命感に駆られて、姫を連れて都に引っ越し、教育を受けさせる。姫は野山を恋しがり、おばあさんと庭で草花や虫を育てて心を慰める。ところが、美しい姫の評判は都でも噂になり、求婚者が殺到するようになった。彼女は自分が、ひとりの人間ではなく、珍しい宝物のように陳列され、獲得の競争の賞品になっていることに気づき、ひどく傷つく。意趣返しとして、求婚者たちに無理難題を突きつけると、みんな悪戦苦闘する。その姿を、姫は最初は笑っていたのだが、だんだんとかれらを傷つけ、最後には無理をした一人が死んでしまったことに衝撃を受ける。罪悪感に苦しむ姫。さらに、帝にみそめられて強かんされかける。そのとき、彼女は自分が月の世界からきたことを思い出し、その迎えがくると悟るのだ。おじいさん、おばあさんに月に帰らねばならないことを告げ、美しい音楽を奏でる楽隊に彼女は連れ去られ、この世界の記憶を失ってしまう。

 水彩画で描き出されるアニメーションの世界は美しい。そのなかで、ときおり、姫が差別や暴力に晒され、傷つくために引き攣った表情が大写しになる。特に帝による強かんは、源氏物語の空蝉の章と重なるが、ここではっきりと「性暴力である」ということが画面から伝わってくる。だが、私が一番動揺したのはこれらの出来事が終わったあと、傷つき苦しむ中で、彼女が幻想のような世界に入っていく場面だ。彼女は、大人なった捨丸と再会し、「あなたとならきっと幸せになれた」と語り、縦横無尽にこの世界を飛び回る。二人が結ばれるかのような場面のあと、それらは現実に戻って消えてしまう。このとき彼女が語る捨丸との未来は、幼い少女が夢見るような地に足のつかない稚拙な空想である。観客も「これはきっと現実化しないのだ」と思いながら、彼女の夢のなかの幸せをともに味わうことになる。そして、夢からさめ、月から帰ることになった彼女は「この世界に残りたい」と切実に言い始める。月から逃げ出して、この世界に生まれ落ちてこんなふうに生きてよかった、もっと頑張ればよかったと語るのである。私はそこで泣いてしまった。彼女は都に連れられてきてから、いいことなど何もなかった。この世界を憎んで、恨んで、見切りをつけて月の世界に旅立ってもよかったのだ。

「私がこの世界に抱いたのは幻想でした。やっぱり月の安寧な世界のほうが幸せ」

 そう言ってもよかったはずだ。なのに、彼女はこんなクソみたいな世界なのに、「ここでもっと生きたい」と願い、生まれてきてよかったというのである。さらに、彼女のそんな必死の思いとは関係なく、あっけなく月の世界に連れ去られ、彼女の想いも記憶も消されるのだ。こんな辛辣なラストシーンなのに、無表情な彼女を包み込む音楽はとても優しく、甘美だ。

 高畑監督の作品は、批評的だ。観客は誰にも感情移入できない。実際に観ていても、姫は周りに流され、自分に閉じこもり、人に心を開いて交流することができない。置かれた立場に甘んじて、受け入れているからこそ、このようなラストシーンに至ったとも言える。また、おじいさんは子どもの話を聞かない抑圧的な父親であり、おばあさんは姫を慰めるだけの無力な母親である。さらに、求婚者たちは性差別的な男たちであり、帝はレイピストだ。では、出てくる人たちがみんな悪人かというと、そんなことはない。みんな、私たちの日常生活にいそうな当たり前の人たちだ。でも、誰も目の前の現実を直視せず、そこにある問題に取り組まなかったから、みんなが不幸になった。つまり、この作品では、観客が登場人物に自分を仮託して物語の冒険にのめりこんでカタルシスを味わう、ということができない。

 それでも、高畑監督の作品には「優しさ」がただよう。それは、人間の弱さを肯定するような優しさだ。姫は、周囲に抗えず、力尽きて死んでいく子どもである。その子どもに対するまなざしは優しいし、彼女を潰してしまった社会に対する批判的な視座がある。

 私はいま、宮崎駿のコミック版の「風の谷のナウシカ」を研究で取り上げるために、資料を読んでいるのだが、その一環で「かぐや姫の物語」もみた。二つの作品に出てくる姫は、どちらも「虫愛づる姫」である。人ではない、草花や虫を愛し、自然の中で生きたいと感じる。それが阻まれたとき、二人の取る行動は全く逆である。ナウシカは、人間の行動の過ちに気づき、それを正すために政治的に行動し始める。彼女は世界の変革者となっていくのだ。他方、かぐや姫は、なにひとつ抵抗できず、そのまま潰えてしまう。宮崎駿は、シビアな状況でも立ち上がり、たくましく生き延びて、世界を変えていくという夢を描く。高畑勲は、シビアな状況で立ち上がれず、力なくその場に座り込み、死んでいく子どもたちのいじらしさや痛ましさを描く。面白いのは、この二人が同じスタジオでアニメを製作し、ライバル関係にあったことだ。どちらの監督も子どもたちに向いて作品を創り、この世界で生きていくことを肯定する前向きなメッセージを放つが、そのベクトルは全く異なっていると、私は思う。

水俣病センター相思社の「鬼塚巌記録展」

 水俣病センター相思社が「鬼塚巌記録展」を開催するそうです。水俣で生まれ育った鬼塚さんは、チッソの工員として働き、労働組合にも参加していました。趣味の八ミリで、水俣病患者さんを撮影したフィルムは、全国の労働組合水俣病の状況を伝えるものとして回覧されました。その後、鬼塚さんは水俣の浜辺のカニや小さな生き物たちを記録し、自然との関係を見つめていきます。お知らせによれば、コロナ渦のなかで相思社の職員さんたちは資料整理をはじめ、鬼塚さんの貴重なフィルムもデジタル化したそうです! この展示会は鬼塚さんの作品を見る貴重な機会になります。また、映像イベントはオンラインでの配信があります。私もぜひ参加したいと思っています。

www.soshisha.org

 また、職員の小泉さんがこつこつ展示物のサビ取りをしているそうです。3/5に一緒にサビをとるイベントを行うそうです。水俣はなかなか遠いですが、一緒にサビを落としながら、水俣のお話をお聞きする良いチャンスだと思います。私も日本にいれば参加したかったです。

www.soshisha.org

 ところで、いま、水俣は柑橘の収穫の季節に入っています。相思社のサイト「のさり」から通販ができます。私は伊予柑を家族に送りました。また、もうすぐパール柑の季節が来ます。パール柑は香りが高く、本当に美味しいです。柑橘がお好きな方は、ぜひ定期的にチェックしてください。

nosari.cart.fc2.com

フィールドワークにおける性暴力・セクシュアルハラスメントに関する実態調査アンケート

 インターネット上で「フィールドワークにおける性暴力・セクシュアルハラスメントに関する実態調査アンケート」が実施されています。本調査は共同研究グループ「フィールドワークとハラスメント」によるもので、学生や研究者をはじめとした、国内外で現地調査をおこなう人すべてを対象にしています。英語での表記もあります。また、被害経験のない人の回答も集めたいとのことです。

 私はこの調査は非常に重要だと思いますし、私自身もすぐに回答しました。他方、こうした調査は無記名で回答するだけでも、つらい記憶を思い出すことになります。協力される方は、どうぞ、無理のない範囲で読み進めてください。

safefieldwork.live-on.net

ブコメを非表示にしました。

 このブログのはてなブックマークを非表示にしました。私自身のブックマークもプライベートモードに移し、見れないようになっています。実質的にはブックマークの使用をやめました。ブログは続けるつもりです。

 私は、はてなダイアリ時代から自分の記事にブックマークをたくさんしていただいてきましたし、私自身も毎日のようにブコメを残したりしていました。ブクマのみでお目にかかる人も多く、やめてしまうのは寂しくはありますが、一区切りにします。ブクマは攻撃的なコメントや、誹謗中傷もあり、嫌な思いもしたのですが、私の場合は全部を振り返るとマイナスよりプラスのほうが多かったです。ブコメを通して、私が自分の態度を見直し、主張を修正するきっかけをたくさんいただきました。これまでありがとうございました。

 今後は、これまでの姿勢を変更し、一方的に文章を発信するブログにしたいと思います。このごろはスターをつけていただくことが増え、そちらは楽しみにしています。いつもありがとうございます。

 直接のきっかけは、例の「オープンレター」です。はてなもやはり、その話題で持ちきりのようですし、見るたびに精神状態が悪くなるので距離を置こうと思いました。また、今も私が書いた記事に反応がありますし、揶揄的なコメントがつけられたりすることもありました。誰を責めたいわけでもなく、コップに注がれていった水が溜まりに溜まって溢れてしまったように、「やめよう」と思ったに至ります。これまで何度も炎上してきた私が、なぜ、この件に関してだけひどく落ち込むのかは、大学外の方にはわかりにくいと思います。とにかく、私にとってこの件は受け止めきれない出来事でした。女性が研究者として日本のアカデミアで生きていくことの困難を突きつけられたからです。

 また、これまで個人的に関わったセクハラの問題でも、同じようなことを目にしてきたことがあります。みな、最初は被害者に同情的ですが、だんだんと被害者の行動を咎め始め、そのうち「加害者こそが〈本当の被害者〉なのだ」と言う人が現れます。最初は両手をあげて被害者を支持すると言っていた人たちが、次々と沈む船から逃げるネズミのごとく離脱していきます。「被害者に寄り添う」というのは美しい言葉ですが、最後までそれを完遂する人はほとんどいません。いつも同じことが起きます。みんな、「声をあげてほしい」と被害者に言うのに、いざ、自分に火の粉がかかるとわかれば手のひらを返すのです。わかっていても、それを目にするのはしんどいことです。

 このブログを見ている方の中には、この問題に心を痛める研究者もいると思います。もし、あなたに余力があれば、あなたの学生や知り合いに(この件には触れなくていいので)なにかのかたちで「自分は性差別を看過しないし、加害を正当化しない」と伝えてくださると嬉しいです。私は今、ベルギーにいて、幸い、「日常的に反性差別の態度を表明している人たち」と研究をしています。そのことが、一番私の支えになっています。

 同時に、私の研究はどうしようもなく、日本語と日本の(各地域の)文化と紐づけられています。私は日本で生まれ育ち、思考し、もう中年になってしまいました。それらの基盤は、欧州で研究を進める上でも重要なものです。今後も研究を続けていくならば、私は日本のアカデミアと自分を切り離すことはできないでしょう。

 昨日、27年目の1.17をベルギーで迎えました。そのとき、私の胸に到来したのは、「私はそれでも神戸の地面は好きだな」ということでした。ベルギーには地震はありません。なので、ここの地面は私たちをしっかりと支え、揺らすことはありません。でも、私は神戸の地震を起こした地面より、ベルギーの地面の方がいいかというと、そうとは思いませんでした。神戸には有馬温泉もありますしね。そんなふうに思ったのは、別のオンラインのイベントで、ある人から、津波で家族を亡くしたかたが海を見て、「海を悪くないよね、海は悪くない」と自分に言い聞かせるようにおっしゃったという話を聞いたからかもしれません。その言葉の重みと、自分の思ったことが同じだというつもりはないですが。

 最近は、台湾の作家の呉明益の作品を愛読しています。「複眼人」は人間の環境破壊が主題になっていますが、作中で何度も地震が起きる話でもあります。

 

新刊のデザインが出ました。

 筑摩書房の柴山さんが、私の本の装丁をTwitterで公開しています。

 

 白と赤のインパクトのある装丁で、初めてみた時は「おおっ」となりました。本屋さんで目立ちそうです。

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 まだ、通販サイトでも書影は出ていないのですが、以下から予約はできます。友人たちが「予約したよ!」と連絡をくれて嬉しかったです。知り合いに自分の過去の話を読んでもらうのはちょっと恥ずかしくもありますが、とてもありがたいです。そして、前回の本よりずっと安いのでそれも喜ばれました。どうしても研究書は高くなってしまうのですが、今回は一般書ですし、たくさん刷ってもらうので安くなります。でも、そのぶん、たくさん売らなければならないのでは……? みなさん、よろしくお願いします*1

 Twitterではいろんな方が反応してくださっていて、ありがたいなあと思っています。そのなかのお一人が、本を出されていたので石田月美「ウツ婚!!」を読みました。

 石田さんは、メンタルヘルスの困難を抱えながら、精神医療や自助グループのたすけを借りて回復の道を探します。支援者は障害者手帳を進めますし、生活保護の利用も考えます。そのなかで「婚活をする」と決めて奮闘し、実際に結婚するに至ります。そのプロセスが軽妙な文体で語られています。

 石田さんのキャラクターや葛藤は私とはだいぶん違うところもありますが、支援者が理想とする回復の道を蹴っ飛ばして、自分が決めたけもの道を歩いてきたところは共通しているように思いました。石田さんが婚活を始めたのは27歳ですが、私が大学院に進学したのは28歳です。婚活と研究という違いはありますが、周りの心配はなんのそのでマイウェイを突っ走ったところと、なにかあれば当事者仲間にメールしまくるところにとても共感しました。地元が同じ人、という感じです。

 私は、同世代の生き延びた人たちが、次々と出てきているし、新しい言説が生まれていくといいなあと思っています。同時に、私たちが語れるようになった頃には、もう次の世代が本当は新しい文化を創り出しているのだろうとも想像します。いつも、「みんなに公開されるナラティブ」と「今起きていること」の間には距離があります。それこそが、トラウマというものの本質だとも思いますが。遠く離れた星が、私たちの目には美しく輝いて見えるけど、本当はもう今は爆発してなくなっているようなものです。

*1:もちろん買っていただければ嬉しいですが、いろんな事情がある方もいらっしゃると思いますので、地元の図書館に購入リクエストを出していただくのも大変ありがたいです。これは商業出版では禁句かもしれませんが、当事者に向けて書いた本でもあるので脚注で作者からこっそりとお伝えします。