新刊の予約始まりました。

 新刊の情報が出ました。1月31日発売予定です。Amazonからも予約できるようです。

 『当事者は嘘をつく』という、少しびっくりするようなタイトルになっています。自分の性暴力の被害体験について整理して、初めて他人に見せられる形で書きました*1。私にとっては、性暴力の経験を語ろうとすればするほど、言葉が遠ざかっていくような感覚があります。どうすれば、真実を語れるのかわからない、と思うような困難があります。それを、そのまま描き出そうと格闘した著作です。また、自助グループでの活動を通して性暴力被害者のアイデンティティを持ってから、修復的司法の研究者になるまでの、心理的葛藤も詳しく書いています。帯にはカウンセラーの信田さよ子さんにコメントをいただきました。

「私の話を信じてほしい」哲学研究者の著者は、傷を抱えて生きていくためにテキストと格闘する。自身の被害の経験を丸ごと描いた学術ノンフィクション。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「私の話を信じてほしい」
哲学研究者が、自身の被害経験を丸ごと描く。

 

性被害ほど定型的に語られてきたものはない。かねがねそれでは足りない、届かないという思いを抱いてきた。本書には、当事者と研究者、嘘かほんとうかをめぐって幾層にも考え抜き、苦しみ格闘したプロセスが描かれている。これこそ私が待っていた一冊である。――信田さよ子

 

ジャック・デリダ、ジュディス・ハーマン、田中美津渡辺京二らのテキストを参照しつつ、新しい語りの型を差し出そうとする試み。

当事者は嘘をつく 小松原 織香(著/文) - 筑摩書房 | 版元ドットコム

  まだ、書影は出ていませんが、カバーデザインを見せていただきました。私はあんまりデザインを上手く語る言葉を持たないのですが「フォーマル・ドレスを着せてもらったなあ」というような気持ちでいます。こうしたインターネットの片隅の個人ブログで書いてきた身としては、なんだか改めて着飾った本を出すのは照れくさいところもあり、素敵な装丁にしていただいて誇らしくもあり……私も実物を手に取るのを楽しみにしているところです。

*1:はてなハイクのスタコメなどでカムアウトはしていましたし、そんなに隠すつもりもないので、長く私のブログを読んでる方にはバレバレのような気もしますが。

道頓堀のカニ料理店と修復的司法の試み

修復的司法の研究者のMLで教えてもらったニュースです。大阪・道頓堀のカニ料理のお店のオブジェを壊してしまった若者たちが、社長に陳謝。今は、お店を手伝ったり、新しいオブジェのデザインに協力したりしているそうです。若者たちは、コロナの影響で失業してつらい精神状態のなか、酒に酔ってオブジェを壊したとのこと。器物損壊は許されることではありませんが、その後の被害者・加害者交流の中で新しい関係が生まれてくるのは、まさに修復的司法が目指すところと重なると思います。

news.yahoo.co.jp

近況

 このごろのベルギーは毎日、曇天か雨か氷混じりの雪です。今日は霧です。冬はずっとこの調子だそうで、春がいまから待ち遠しいです。クリスマス休暇に入る人も多く、街はイルミネーションの飾り付けも増えました。ただ、今年はあちこちのクリスマスマーケットは中止になり、寂しいです。私の住んでいるルーヴェンも早々に中止が決まり、友人たちが残念がってくれました。

 ただ、ビザの延長の申請を大学から出してもらったので、順調にいれば来年もベルギーにいることになりそうです。来年はもう少し、コロナの状況が落ち着くことを願います!次々と変異株が出て、先の見通しがたちませんが、来年のクリスマスごろにはもっと気楽に暮らせるようになっていますように……

 楽しみがないぶん研究に打ち込むしかないので、仕事は進みました。ビザ延長についても、業績がしっかりあることと、積極的にチームの仕事に貢献していることで、大学内の研究科の審査はあっさりと通りました。私自身、4月にこちらにきてから、国際学会で3本の報告をしましたし、英語論文2本を新たに書いて投稿し、日本語論文ももうすぐ出版される見込みなので、いい調子だと思います。

 相変わらず英語には苦労していますが、さすがに10ヶ月目なので、こちらに来た直後よりはずいぶんとスムーズにコミュニケーションが取れるようになりました。そうすると、余計に欲が出てきて、自分に対してイライラすることも増えました。最初はその場をやり過ごせれば満足していましたが、今は自分の日本語での言語運用能力とのギャップで、「ああ、もっと話したいことがあるのに!」と叫びたくなります。しかしながら、研究を進めながら、生活を円滑にやろうと思うと英語学習に時間はそんなに割けず、もどかしい気持ちです。他方、研究のアイデアが面白く、アウトプットを増やして自分の力をアピールしていけば、英語が下手でも、短期滞在ならなんとかなるものだなあとは思っています。(それだけに、母語以外で博士号を取る人は心底尊敬します)

 本の出版は大詰めにさしかかっています。編集さんはもちろん、校閲さんやデザイナーさん、コメントをくださる方など、たくさんの方が協力くださるなかで本が出来上がっていくのは、感慨深いです。これから、出版社の営業さんや、取次の仕事の方、本屋の販売員さんなどのご協力もいただくことになります。(商業の)本はひとりの力では出せない、というのは聞いていましたが、実際に自分がそのプロセスに関わることで実感しています。自分が細々と同人誌を出していたので、商業出版社でプロが集まってきてコーディネートしてくださるのは「すごい!!」と素直に思います。それと同時に、同人誌即売会で印刷会社から届いた新刊のダン箱を開けて「できた……」と手に取って一人で感動する瞬間はなににも変えがたいですし、これからもずっと続けていきたいと改めて思っています。どちらの幸せも知ることができるのは、贅沢でありがたいことですね。

アジア環境哲学ネットワークのオンラインシンポジウム参加者募集のお知らせ

 私が共同コーディネーターをつとめるアジア環境哲学ネットワークで、2022年6月17-18日に、オンラインの国際シンポジウムを開催することになりました。テーマは「アジアにおける環境哲学の多様性」です。現在、個別報告の参加者、パネルセッションやワークショップの提案を募集しています。参加は無料です。

 アジアの環境哲学は、それぞれの地域の伝統や文化に深く関わっているため、多様で無限の広がりを持っています。また、言語も異なるため、これまで研究者同士の繋がりを作る場が多いとはいえませんでした。私たちは、今回のシンポジウムを機に、新しい研究ネットワークを構築を促し、相互交流を通して「アジアの環境哲学」を探求することを目指しています。

 英語が第一言語になりますが、私たちはゆっくりとしたやさしい英語を使うことで、ノンネイティブフレンドリーの国際シンポジウムを志しています。また、英語以外の言語での発表を強く希望される方はご相談ください。複数の参加者が、特定言語での発表を希望する場合は、特別なセッションを組むことも検討しています。

 次のような関心をお持ちの方はぜひ、参加をご検討ください。

私たちは「アジアの環境哲学」を語れるのだろうか?
アジアの多様な文脈や伝統の中で、環境哲学はどのように培われ、実践されてきたのだろうか?
環境哲学とその地域の生活様式はどのように関わっているのだろうか?
グローバル化のなかで、アジアの環境哲学はどのような役割を果たすことができるのだろうか?
アジアの環境哲学研究者はどのような強みを持ち、どのような課題に直面しているのだろうか?
アジアにおいて、先住民の知識は環境問題に向けてどのような役割を持つのだろうか?

asiaenviphilo.com

「犯罪」と「正義」について考えるための映画の紹介記事

 KU Leuvenでの研究仲間のAna Pereiraが、European Forum for Restorative Justiceのブログに、映画を通してを書いているので、こちらでも紹介します。

www.euforumrj.org

 Pereiraは、映画を通して、個人としての被害者や加害者について考えることの重要性をこの記事で強調しています。ひとりの人間として、かれら当事者が私たちの身に迫ってきたとき、人々は初めて本当の意味で、犯罪のその後を考えられるのかもしれません。記事の中で紹介されている「告発の行方(The Accused, 1988)」「真実の行方(Primal Fear)」は日本でも公開され、よく知られています。3本目の「The Mustang (2019)」は日本では公開されていませんが、Amazonなどを通してオンラインで購入して視聴できるようです。記事内では、それぞれの映画の見どころなども紹介されています。

www.youtube.com

 私も、映画などのエンターテイメントを通して、犯罪や暴力について考える機会を持つことにはとても関心があります。春にかけては前から計画していた、コミック版「風の谷のナウシカ」を通して環境問題を学ぶ研究を、論文にしていきたいと思っています。私は文章を書く以外にとりたてて良い表現方法を持ちません。でも、私自身はマンガを読むのが大好きだし、伝える側としても、文章を読むのが苦手な人には絵や動画を通してわかりやすく表現したいなあと思っています。最近は日本でも、修復的正義を扱った演劇やアニメの作品も出てきているので、これから楽しみだと思っています。

ロックダウン下のDV被害についての調査研究

 論文「Locked Down with the Perpetrator: The Hidden Impacts of COVID-19 on Domestic and Family Violence in Australia」が公開されました。この論文では、ロックダウン下では、「通常時に社会から疎外されやすい人たち」が支援者と繋がることが困難になり、より危機にさらされることが報告されています。調査では、文化的・言語的に多様な人たち(CALD, Culturally and Linguistically Diverse)、先住民、レズビアン、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダーインターセックスクィア、+(LGBTIQ+)、就学する児童と暮らす女性、すでに暴力的関係にあった人、ロックダウン時に初めて暴力を受けた人の経験に焦点を当てています。非常時には、通常時に弱い立場にあるマイノリティが、より深刻な害を受けやすいことは、想像できることですが、こちらの論文では実際に調査報告しているので参考になると思います。(この調査では、倫理的配慮により、被害者当人ではなく、DV関連の支援機関に問い合わせをしています)

 また、先行研究レビューではパンデミック中のDV被害についての最新研究が数多く紹介されています。そちらの情報収集にもとても役立つことでしょう。以下から無料でダウンロードできます。

www.crimejusticejournal.com

オープンレター「女性差別的な文化を脱するために」について

 オープンレター「女性差別的な文化を脱するために」が話題になっているようです。私も署名しているので、改めて読み返したのですが、問題点がどこにあるのかわからないので困惑しています。オープンレターは以下で公開されています。

sites.google.com

 オープンレターは、日本語圏の言説空間において、性差別を指摘する行為をからかったり揶揄する「遊び」の文化があることを指摘しています。そして、そこから距離を取ることを宣言しています。私はこのオープンレターのきっかけとなった、ある歴史学者による差別行為、さらにそれを多くの研究者が加担したり、見て見ぬふりをしたりしていたことに強い衝撃を受けました。以前から書いていますが、私はほぼ衝動的にそれまで使っていたTwitterのアカウントを消しました。自分もその文化の一翼にいたのだろうし、自分自身もそれに加担しているのかもしれないというのは恐怖でしかなかったからです。ただし、この行為が合理的であったのかどうかは、わかりません。

 私がそれほど衝動的になってしまったのは、その件が、今まで私自身が遊びの対象にされてきた数々の場面を一気に思い出させるものだったからです。私は、大学に入学して以降、性差別に抵抗するたびに、男性の先輩、同級生、ときには教員から嘲笑されました。2000年代前半はフェミニズムの勢いはとても弱くなっており、私に賛同したり味方になったりする人は、ほとんどいませんでした。かれらは、私が動揺しながら性差別を指摘する喋り方を、真似て笑いました。肩をすくめ、目配せしあい、ニヤニヤと笑う、というのもよくありました。いじめの標的になったことがある人は理解しやすいと思うのですが、私は今でも男性が集まって笑っているのを聞くと、「私がネタにされているのだろうか」と不安になることがあります。そして、その場から黙って去ることがあります。当時、私が真剣にかれらに抗議すれば、かれらはこう言いました。

「ネタだよ、ネタ」

 そういう言い回しが、2000年代前半は流行っていました。2ちゃんねるを中心とするネット文化の影響もあったのでしょう。かれらにとって、私の取り乱した姿を見て笑うのは、本気ではなく「遊び」だったのです。多くのいじめがそうであるように。

 その後、大学院進学後に学会で起きたこと。私はそのひとつひとつは、まだ書く力は私にはありません。いくつかの痛みを覚える記憶が私にはあります。

 私は、オープンレターのきっかけになった出来事でも、関わった人たちは同じように思っていたのではないかと、予想しています。ひとりひとりは、とても良い人かもしれない。一対一で話せば、もしかすると「遊び」に関わるのをやめてくれるのかもしれない。その場の雰囲気に流されて、言ってしまったのかもしれない。私だって似たようなことをしているかもしれない。たとえば、口が滑って言いすぎたり、調子に乗って大袈裟に言ってしまったりするかもしれない。だから、かれらだって……と思うと同時、脳裏にはこう浮かびます。

「だから、なんなの?」

 文化的背景がわかったところで、やられた側の痛みが和らぐわけもありません。そして、やっかいなのは、(いじめがそうであるように)ひとつひとつの言動はたいしたことがないのです。その積み重ねられたいくつもの「ちょっとした面白い言い回し」と笑いが堆積していて、標的にされた人間を押しつぶそうとしたとき、誰に責任があるのでしょうか。もちろん、実際に行為の中心になった人物でしょう。でも、その人がいなくても、次の別の人が同じ行為を始めるかもしれない。それを防ぐためには、文化を理解するだけではなく、変えなくてはなりません。

 だからこそ、このオープンレターは私にとって重要だったし、署名しました。署名の責任がどうこう、裁判がどうこういうと言っている人がいるようです。もし、署名者の意図の表明が必要であれば、私はもちろん協力します。それと同時に、ほかの人たちに署名の意図を表明させるよう、圧力をかけるのはやめてほしいと思っています。自分から明かす必要もないと私は思います。私は責任感が強いのでも、勇気があるのでもありません。ただ、こういうことをしても、日本語圏のアカデミズムで何度も笑いのにされてきたので、それが一回増えるだけだという諦めがあります。そして、私より若い人、立場の弱い人には、性別を問わず、そういう諦めを受け入れてほしくはありません。どうか、身を守ってください。私も、有形無形、直接間接問わず、上の世代が守ってきてくれたから、今ここにいると思っています。これは、私の署名の釈明ではなく、脈々と続く反差別の運動への連帯の表明です。

 

追記

 私がこういうことを書くと、以下のようなツイートに私のブログのリンクが貼られていました。火中の栗を拾うとこういうことがたくさん起きます。以下のツイートに対して、一つだけ言っておくのですが、これはポエムではなくアジ文です。私は、詩を書くほど言葉を研ぎ澄ますタイプではありません。

追記2

 以下のようなブックメークメントがついています。

id:Akech_ergo オープンレターのうち一般論として述べられている部分については異論ないけれど、呼びかけ人に呉座氏に攻撃されていた人がおり、冒頭で呉座氏だけを名指ししている点で、氏への反撃を目的とした文章なのだなと思う。

 問題の当事者が、同じようなことが起きないように文化を変えていくことを訴えることはよくあります。たとえば、性暴力被害者が、性暴力のない社会を作るように訴えたり、飲酒運転による殺人の被害者が、飲酒運転を許さない社会を作るように訴えたり、いじめの被害者が、いじめのない学校文化を作るように訴えたりします。それらを、加害者への反撃とみなす人は多くないでしょう。同様に、この件の被害者が、自分に起きた出来事を寛恕するような文化に対して、それを変えていくように訴えることは、当該事件の加害者への反撃とはみなさないのが、妥当な判断だと私は思います。なお、オープンレターの冒頭での、きっかけとなった事件への言及は、すでに公開されている情報であるため、問題はないでしょう。

追記3

 ブックマークコメントがずいぶんと増えているようです。フェミニズム内部での批判については、私は何度か記事を書いていますので、興味がある人はブログ内検索で「フェミニズム」をキーワードに探して見てください。セックスワーカー差別、トランス差別についても書いています。「キモくて金のないおっさん」について書いたことはありませんが、「非モテ」で検索してもらえば、私のスタンスはわかると思います。

 裁判については、オープンレターとの関連は全く不明です。11月25日に第一回公開弁論が開かれ、両者が全面的に争う姿勢のようですので、今後、新しい情報は出てくると思います。おそらく、京都新聞が地元紙なので丁寧に報道すると思います。興味がある人はチェックしてみてはいかがでしょうか。京都新聞は月額980円で全ての記事が読めます。

 私に対して、身を案じて「弁護士に相談した方がいい」とアドバイスしてくれた人がいますが、たぶん、社会運動に参加したことがないのだろうと思います。