近況

 今年のベルギーは、直近の200年で一番雨が多いとも言われるという悪天候続きでした。何度も水害が多発し、夏なのに雨が多く、太陽が恋しい夏でした。そうはいうものの、ベルギー国内の各都市を訪問して、楽しい時間を過ごしました。

 ベルギーはワクチン接種が順調に進んだこともあり、すっかりバカンスムードでした。イタリアやギリシャに遊びに行った人も多かったようです。カフェやレストランもオープンし、街のあちこちで賑やかな歓声が沸いていました。まだまだ、先のことはわからないですが、私もしばらく開放的な気分にひたれたのはよかったです。(日本の現状を聞くと、つらい気持ちにはなりますが……)

 こちらの友人と、ベルギー西部のイーペルにあるフランダース・フィールズ博物館を訪問し、第一次世界大戦についての展示を観覧しました。イーペルは、世界で初めて毒ガス兵器が使用された土地です。多くの兵士たちが亡くなったり、失明したりしました。展示は5年前にリニューアルされ、個人の記憶に焦点を当て、プロの俳優が兵士や周辺地域の住民の手記を読み上げ、証言を伝える動画がいくつも流されていました。

 私は数年前から、ヨーロッパで第一次世界大戦についての博物館や史跡をめぐっています。第一次世界大戦は、100年が経過し、体験者はみな亡くなっています。「当事者」がいなくなったあと、かれらの声をどうやって伝えるべきかのかを学びたいと思っています。

 私は、戦争、犯罪、公害などの被害・加害関係に焦点を当てて研究をしていますが、「時間」というのはとても重要な要素です。深いトラウマを残すような記憶は、時が経てば忘れるものではありません。それと同時に、記憶は個人のなかで形を変えていきます。単純に「和解」や「赦し」に至るわけではありません。個人の中で、「その時の記憶」に加えて、「覚えているとはどういうことか」「忘れていくとはどういうことか」の哲学的な観想が醸成されていくことも少なくないのです。人は生きていくなかで変わっていきます。それに寄り添いながら、どうやって記憶の伝承を続けていくのか。そのことが、今の私の大きな研究テーマでもあります。

 そんなふうに考えていると、アフガニスタンで大きな政変がありました。私は大学院の修士課程では中東についての研究者が多いコースにいたのもあり、9.11以降の20年後の出来事に打ちのめされました。私自身は、2001年の時点で、アフガニスタン空爆には反対の立場でした。当時は議論や活動をする仲間もおらず、一人でチョムスキーの映画を観に行ったりしました。大学院では、当時の政権とタリバンとの対話の試みについても学びました。アフガニスタンで活動されていた中村哲さんの講演を聞きにいき、感銘を受けたこともあります。私は決して、アフガニスタンの問題に真剣に取り組んできたとは言えないのですが、いくつもの出来事の記憶が重なり、ただ苦しい気持ちになりました。これから、タリバン政権の造っていく国が、アフガニスタンに住む人々にとってより良いものであることを祈ります。

 同時に、いま、ヨーロッパにいることに対して、苦しい気持ちにもなります。声高に「女性の権利」や「難民支援」が叫ばれていますが、NATO空爆により、アフガニスタンの街は破壊され、人々の貧困は深刻なものになりました。私自身は、ヨーロッパの滞在で、自由や民主主義、福祉や教育を享受しています。でも、それは私が、日本国籍をもち、この価値観に追随しているから与えられた環境です。ゲーティッドコミュニティのように、線引きされた特権的な社会にいるにすぎません。私はタリバンが素晴らしいと言うつもりはありませんが、空爆から始まった破壊と暴力の20年間を、すべてタリバンの責任に帰することはできないと考えています。何十にも積み重なったアフガニスタンの苦難の歴史と、そこを生き抜いてきた人々の知恵に敬意を払いたいと思っています。

 なんにせよ、私はいつも、一つの感情や論理で、なにごとかを見ることはできないですし、断片的に考えていることを、いずれ統合していきたいです。

 秋以降は、英語論文を2本、書くつもりです。今年も科研費に応募する予定です。二度連続で落ちているので、今度は通したいと思っています。私は学振PDも何度も落ちて、ラストチャンスでようやく採用されました。最終的に通れば、それまで落ちたことはノーカンですから、気にせずどんどん出すことにしています。初めて、学振DCに応募して落ちた時にはショックを受けましたが、そのときに先輩に「落ちることに慣れますから」と言われたことを思い出します。就職にせよ、科研費にせよ、民間予算にせよ、落選通知を貰い続ける人生ですが、めげずに出していこうと思っています。

「行政機能」と「地方自治」と「個人の権利」

 インターネットではときどき、地域の「町内会」が話題になる。日本は現在、少子高齢化が進んでいるので、町内会の役員の担い手も減り、若者は参加に消極的になりつつある。また、高齢者が町内会を占有しているという批判もある。次のツイートのまとめは興味深かった。

togetter.com

 今後、町内会は滅んでいくだろうという発言に対し、自治に頼らず行政がもっとサービスを強化するべきだという意見もあれば、地域の細かな問題は行政だけではフォローしきれないので、町内会をアップデートし、強化して存続させるべきだという意見もあった。

 実は、日本のこうした草の根自治機能は、海外の研究者からは注目を集めているところがある。たとえば、東日本大震災で東北の各地域では消防団が救援にあたった。その後、消防団員の負ったトラウマの問題を考えると簡単に美化はできいないが、地方で防災の役割を自治組織が大きく担っていることは否めない。こうした自治組織は、日本の国外から見ると非常に魅力的に映ることがある。いまや、日本は経済成長の面からは困難に直面しており、国際的な地位が揺らぎつつあるが、古くからありいまや捨て去られそうな、こうした自治組織にこそ古草的な価値が見出されるかもしれない。

 たとえば、私はいま、ベルギーのルーヴェンという中堅都市に住んでいる。ここで私が感じることは、強力な行政のガバナンスである。まず、ビザをとって入国すると、住民登録をしなければならない。これは、コロナ渦ということもあって、メールで書類を送り、インターネットでアポイントメントを取り、指定時間に役所に行くだけなので、ほとんど待ち時間はない。住民登録が終わると、ナショナルナンバーが付与され、全ての住民に電子読み取りのついたカードが渡される。健康保険、銀行、携帯電話など多くの契約にはこのカードが必要になる。逆にいうと、パスポートもビザもサインも普段はほとんど使わない。ワクチン接種も、住民登録に基づいてレターが来て年齢順に順番に接種会場に呼ばれた。2回の接種が終わると、自宅で住民カードを読み取り機にセットすると、10分ほどでスマホのアプリに連携してワクチンパスポートが取得できた。できる限り、行政が効率化と合理化をはかり、一元的なサービスの提供を目指している*1。私からすると、日本の行政よりずっとシンプルで快適なサービスを提供していると感じる。

 他方、いま、ルーヴェンでは「修復的都市(restorative city)」の構想が持ち上がっている。私の同僚たちも参加しているプロジェクトである。修復的都市が主に目指すのは、「行政サービスの連携」と「コミュニティ内の市民連帯の活性化」である。

leuvenrestorativecity.be

 プロジェクトでは、行政サービスが充実しているのに対して、住民の自治機能が弱っていることが問題化される。すなわち、むしろ自治機能を回復することで、行政頼りではないコミュニティ作りが目指されるのである。こうしたプロジェクトに関わる人たちの一部は、日本の自治組織に強い興味を抱いている。私も日本の自治組織の実態の調査の相談や、具体的な質問を受けることがある。

 確かに、日本の自治組織は上手く機能すればとても有用である。たとえば、私の住んでいた京都のある地域の町内会は、あまり活動は活発ではないが暮らしの中では重要になっていたようだ。今の町内会長はこれまで民生委員も務めてきた女性で、住民たちへの目配りや小さなトラブルへの介入が上手だ。私も、なにかあるときには町内会長に相談すれば、うまい具合にほかの住民との調整をしてくれる。町内会があることで、住民同士の個人的な付き合いにそこまで労力をかけなくても、会長と連絡を取ることでコミュニティ内で平和に暮らせるのである。住民同士のトラブルが起きると、警察や行政サービスがすぐに介入してくるヨーロッパの多くの社会よりは穏健に平穏な生活が守られていると言えるだろう。

 ただし、これはあくまでも上手く機能した場合である。第一に、町内会長の人徳や性格に自治組織の動向は大きく左右される。また、個人への負担も大きくなる。これまで、町内会長は名誉職の部分もあったが、今後、次の世代にどうやって引き継ぐのかという課題がある。

 第二に、自治組織はコミュニティの力を強めるが、逆に個人の権利を抑圧することもありえる。たとえば、私の住んでいた地域の町内会では、近所の神社が氏神様になっているため「氏子代」を徴収される。そして、お札が配られる。私は特定の信仰も持たないし、金額も500円程度だったので、深く考えずに払っていた。しかしながら、これは宗教が自治組織と一体化しているということであり、信仰の自由の問題に関わってくる。私の所属していた町内会では、おそらく氏子代を払わなくても大きなトラブルにはならないと思われるが、自治組織が行政サービスと違って政教分離の境目がはっきりしないところは重要な問題である。地元のお祭りにも同じような問題は起きるだろう。こうした宗教の問題を筆頭に、自治組織がコミュニティ内の個人の自由を制約する可能性がある。特にこの2点目の問題については、同僚の研究者に疑問を投げかけてみたところ「非常に重要」として今後も議論を継続することになった。

 以上のような問題を含むため、日本の自治組織は美化したり、称揚したりすることはできないが、実は国外からも注目を集める面白い組織である。私はこうした地域ガバナンスは専門的ではないが、修復的都市のプロジェクトが、修復的正義の観点から構想されていることもあり、今後もこちらにいる間に考えていきたいと思っている。

*1:そのわりに、住民登録には3ヶ月もかかるし、手続きのたびに役所に「まだ書類きてないんですけど」と急かさなければならないので、実務上は微妙な話である。でも理念としては合理化が明確に据えられている。

課金で劣等感を解決した話

 勝間和代さんが、コンプレックス商法について記事を書いている。これは、人々の英会話や身体的特徴の劣等感につけこみ、高額を支払わせるセミナーを批判したものである。勝間さんは記事の中にある動画で、もっと安く1000円くらいから利用できるサービスを何度も何年も使うことで、劣等感を克服することができると主張する。勝間さんの話の面白さは、実際に30万円を支払うことで、短期間で劣等感を払拭できる人が5パーセントくらいは実際にいて、その体験談が真実であるので人々はコンプレックス商法に引きつけられるのだとするところにある。つまり、コンプレックス商法は詐欺ではない。しかし、非常に成功率が低いため、そこに課金するとコスパが悪いと勝間さんは言うのである。

 これは一理あるし、勝間さんの懸念や若い人への忠告はよくわかる。しかしながら、実は私は30万円を払って*1、劣等感を解決してしまったことがある。なんと勝率5パーセントに入ってしまった。せっかくなのでその体験談をメモしておこうと思う。

 私が抱いていた劣等感は、勝間さんが筆頭にあげる英会話に対するものである。なので、高額セミナーに支払った私は情弱扱いされて苦笑いしてしまった。私は、「英語ができない」という自分と10年以上たたかっており、ぼちぼちと勉強を続けてきたが、かんばしくはない。もちろん、自分なりに少しずつ進展はあるのだが、どこまでやっても先は見えない。だいたい、私がいる大学という業界は恐ろしく英語ができる人たちがいる。留学経験者は当たり前で、子どもの頃から英語教育に触れていた人や、帰国子女、ネイティブより英語に詳しい翻訳者など、一般に生活していてあまり出会わない英語レベルに達している人がごろごろいる。そもそも、東大や京大の受験に合格する人たちなので、ものすごく勉強ができる。地方の中堅県立高校で楽しく暮らしていた「そこそこ」の私にはあんまりにも過酷な環境である*2。しかし、卑屈になったところでいいことはないので、「できない、できない」と言いつつ英語の勉強を続け、一人で国際学会に飛び込んで知り合いを作り、英語論文を投稿し、今は海外で研究をしている。私のいいところは、ブツブツ言いつつも、めげないところである。

 それはともかく、私が英会話で劣等感を抱いたのは「発音」である。「発音が下手」だから話すのが恥ずかしかった。不思議なことに、少しずつでも英語が話せるようになればなるほど、恥ずかしくなってしまう。初めて英語を話さねばならなくなったとき、私は恥ずかしいどころではなく、頭が真っ白になり逃げ出したくなりながら、「とにかくここで、言いたいことを伝えなければ」という気持ちでいっぱいだった。向こうの顔もろくに見えてないので、反応がどうこうと考える余裕もなく、「ああ、どうしよう、なんて言うんだっけ、ほら、あれ!」という大混乱で終わった。それが話せるようになってくると、欲が出てくる。文法通り、礼儀正しく、適切な表現で伝えたいと思い始める。同時に、他の人が話すのを聞いていて、わかりやすい発音をしている人を尊敬し、そんなふうに話したいと求めるようになった。なぜなら、私はリスニングも下手なので、できれば相手にわかりやすく発音してほしいと思うし、その逆も必要だと考えたからである。

 誤解しないでほしいのは、ここで私が言っているのは「ネイティブみたいな英語」ではないことだ。私が議論する相手のほとんどはノンネイティブである。そして、私にとって聞き取りやすいのは、ノンネイティブのシンプルな英語である。落ち着いて、明瞭な発音で、ゆっくりでもいいので正確に話せることが目標になっている。

 さて、私の英語はそこから程遠かった。何年も独学でシャドーイングを練習してきたが、録音された自分の英語を聞くと、「これではダメだ」ということはわかるが、何が悪いのかわからない。多くの教本を読み、YouTubeの動画を見て、オンライン英会話の先生に教えを乞うた。しかしながら、「私はなにかができていない」ことだけはわかるが、それがさっぱりわからない。とにかく唾を飛ばすような勢いのある英語か、もぞもぞして聞き取れない英語になってしまう。何回聞いて音を真似しようとしても「わからない」と止まってしまう。それで何年も劣等感を抱きながら英語を勉強してきた。

 そこで出会ったのが、英語のパーソナルトレーニングである。ちなみに、私は紹介料もアフィリエイトももらってないので、これはステマでもダイマでもないので、心配なく体験談として読んでもらって構わない。

englishcompany.jp

 このパーソナルトレーニングでは特別なことはしない。やることは「単語を覚える」ことと「シャドーイング」である。私にとってこのシャドーイングのアドバイスが劇的に自分の発音を変えた。私は初めて英語の「弱形」を理解したのである。それまで私は全ての単語を頑張って等しく発音しようとしていた。しかしながら、英語はリズムで話さなければならないため、音が弱くなったり聞こえなくなったりするところがある。私はそれを意識してシャドーイングの練習をすることで、英語を話すときの感覚が全く変わった。

 ここで、「弱形」と聞いてなにをすればいいのか理解できたり、YouTubeの動画で学習できる人は課金不要である。大変羨ましい。私はいくら概念が理解できても、実際に音を捉えることも、発音を変えることもできなかった。不器用だからである。毎日、シャドーイングを練習して録音してトレーナーに送って、修正してもらうことで、やっと身体的に「弱形」が少しだけ習得できた。自分がなにができていないのかが判明したのである。これは小さいけれど大きな進歩だった。

 ただし、私がそれで満足いく発音を手に入れたかというと、そうではない。相変わらず、私はよく間違えるし、「英語ができない」と思いながら暮らしている。録音した自分の英語を聞くと焦って必死な気持ちだけが伝わってきて、「相変わらず上手くないな」と思う。ただ、前のように絶望感はない。何ができていないのか自分で理解できるので、改善点がわかる。それだけのために高額を支払うことになったが、私の場合はよかった。課題が多いことは、暗中模索に比べればずっとマシだ。課金で劣等感が解決できたと言えるだろう。

 自分の体験から考えると、課金で劣等感を解決するポイントは二つある。一つ目は、自己解決できる問題は潰しておくことである。おそらく英語を勉強し始めたばかりの私であれば、パーソナルトレーニングはあまり有効でなかったと思う。英語の基本は、英単語を覚え、英文法を学び、自力でシャドーイングすることである。私の場合は、ある程度まで自分でそれを底上げした上で、自己解決できない一点に絞ってパーソナルトレーニングに賭けたので上手くいったと思う。

 二つ目は、借金はしないことである。私がパーソナルトレーニングに頼ったのは、学術振興会の特別研究員に採用され、収入を得たからである。身も蓋もないが先立つものがあるかないかで、私の判断は変わった。手持ちの資金がないまま、劣等感の解消を求めて高額セミナーに頼るのは危険だろう。お金がないときにも、勝間さんのいう通り、手頃な価格のたくさんのコンテンツはある。支払いに無理をしないことは大切だと思う。

 最後に、私は勝間さんの動画でピアサポートのサービスを推奨しているのはとても良いと思った。私自身、これまで英語の勉強をやめなかったのは、身近に頑張っている友人が多かったことが大きい。基本は自己解決とピアサポートで、それでも解決しない問題は課金をしてプロの助けを借りるのは一案ではあると思う。

*1:実際はそれ以上なんだけど。

*2:私の出身高校に東大を目指す人はいなかった。でもそれを疑問に思ったこともないし、楽しい高校生活だった。阪神・淡路大震災のあとの被災地のど真ん中にある学校だったのでいろいろと特別な思い出はあるが。

伊丹アイホール存続をめぐる議論

 毎日新聞で、関西の小劇場であるアイホール伊丹市)の用途転換が検討されていることが報道されました。アイホールは、小規模劇団のアート活動に貢献してきただけではなく、一般市民とともに活動するワークショップにも力を入れてきた。こうした幅広い活動は、日本における公共劇場としては突出しており、全国的にも芸術関係者から評価されてきたし、稼働率も高い。他方、検討の理由となっているのは、伊丹市民の利用率が15パーセントと低く、採算が取れていないため、税金で運営資金が補填されていることである。つまり、伊丹市民の税金が、市外の人々の活動へ流れてしまっているということである。これに対して、伊丹市は民間業者からクライミング施設に施設を転用する提案が出たため、検討することになった*1

mainichi.jp

 これは一見、市民中心の施設の用途転換で良い策のように見えるが、慎重に考えなければならない。第一に、現在はクライミングが流行しているので市民の注目を引く転換案に見えるが、長期的にはどうだろうか? 公共施設は、10年後、20年後の伊丹市の未来や、子どもたちへの教育の展望を見据えて運営の良し悪しを考えなければならない。もし、伊丹市が今後、クライミングを市民活動の象徴とし、全国的に評価の高い施設運用とするならば、その案も良いものになるだろう。今後の伊丹市にとて、演劇活動とクライミングのどちらが発展に寄与するのかを正面から議論すれば、どちらの案が採用されても実りがあるものになると思われる。しかしながら、現在出てきている情報は、短期的な資金運用についての議論だけであり、もしクライミングの流行が終わってしまったとすると、その施設にはなんの蓄積も残らない危険がある。そのため、長期的な視野を持って公共空間のあり方を議論する必要がある。

 第二に、すでに全国的に高く評価されているアイホールを潰してしまうことの損失の問題がある。現在、多くの地方自治体は市外・県外からの観光客の誘致に躍起になっている。コロナ渦でそれは途絶しているが、いずれ、自治体内部だけではなく、外部からも魅力的な地域づくりが求められる機運は高まるだろう。そのとき、アイホールの市外利用者の多さは伊丹市にとっても有益になる可能性はある。必ずしも「地元の施設」が「地元に閉じる」必要はないのである。むしろ、ここまで市外者からの利用があることをアドバンテージに変える手を考えることで、伊丹市の長期的な税収増につなげられるかもしれない。そう考えると、現在の問題解決方法は「アイホールの採算性を上げること」であり、用途転換だけが選択肢ではないことがわかる。

 第三に、今回の議論が全国的な公共劇場の運営方針に影響を与える可能性がある。たしかに伊丹市単体で見れば、アイホールの採算性の低さは大きな問題ではあるが、質の高い文化事業を提供してきた点では非常に優れた施設である。文化には金がかかる。そのため、税収が低調になった時に、一番に切り捨てられるのは文化事業になりやすい。そして、残念ながら「文化事業の質」と「収益」は必ずしも比例しない。だからこそ、自治体によって公共の力で文化を支える必要があるが、その根幹がアイホールの用途転換により崩れてしまうかもしれない。

 以上の3点から、アイホールの用途転換には慎重であるべきだと私は考えている。しかしながら、7月後半にニュースが出てから、すでに伊丹市は早ければ9月には報告を出すとしている。これはあまりにも拙速な判断であると思われる。

 この問題については、「アイホールの存続を望む会」が署名活動を始めている。私もすでに署名した。

aisonzoku.com

 他方、署名活動ではおそらくアイホールの用途転換は止められないという指摘も出ている。たとえば、ロームシアター京都管理課の丸山重樹さんは以下のように述べる。

少し前から、リサーチが始まるということは知っていて、どうなるんだろうと思っていたら、署名活動が始まった。
まずは劇場の利用者である演劇関係者から行動を起こす、ということ自体に違和感はないし、行動を起こしてくれた方々には敬意を表したい。しかし、twitterでこの活動が拡散して、タイムラインを埋め尽くせば埋め尽くすほど、不安も生まれてくる。
少なくとも私は、過去数回の選挙で同じような苦い経験をしている。自分や自分のフォロワーの意見とは真逆の結果になる、という経験だ。そしてある時「エコーチェンバー現象」という言葉を知る。そして改めて、SNSの狭さを痛感したのだった。
Facebooktwitterも、基本的にフォロワーは「友だち」であり、似たような考え方を持った人がほとんどだ。わざわざ自分とは真逆の考えを持った人をフォローしている人は少ないだろう。だとすれば、「AI HALLを存続させてほしい」という意見で、タイムラインが埋まることは自明だ。
しかし今回の問題は、特にAI HALLが公共施設であることも踏まえれば、私のような業界関係者以外でかつ伊丹市民がどう思っているのかが大事で、それに該当する人は私のフォロワーにほとんどいないのではないか。だとすれば、このタイムラインの”祭り”に浮かれてはいられないのだ。

(https://www.facebook.com/shigeki.marui33000/posts/4186050161486022 )

 また、京都で演劇活動をするたかま響さんも、以下のように署名だけでは問題は解決しないと述べている。

アイホールの件、存続させる会を設立した方には敬意を評するけど、「署名」だけでは絶対に覆らない。もちろん会の方は署名以外の行動を考えてると思うけども、署名した人たちも、署名だけで満足しないで欲しい。それだけでは何もやってないのと一緒だ
市民ではない人の署名が、何筆集まっても動きはしない。伊丹市民からの声が上がって選挙で落ちるという恐怖がないと。じゃあ、どうすりゃいいのかってのを具体的にはすぐ思いつかないけども
例えば、伊丹市83000世帯全部に「存続に声をあげてください」というチラシをポスティングすれば全然違う。83000撒いたところで、同調し声をあげてくれる市民は100人もいないだろう。けども、「関西の演劇人は83000世帯にポスティングできる動員力がある」と示せたらでかい
市民じゃなくても83000もチラシをまけるだけの組織力、動員力があれば立派な圧力になる。しかし、じゃあ現実的に出来るつったら、もうめちゃくちゃ難しい。1人1時間200枚としても、415時間かかる。費用はどうするのか、ダブらないように采配はどうするのか。クレーム処理は?
しかし現時点で2000人署名してるわけで、もしその4分の1の五百人やれば1日でできるわけでさ。本気でアイホールを存続させたい署名だけじゃなく、それくらいやるつもりの気概を持って欲しい。ネットで吠えても仕方ない、実際の行動あるのみ

(次のTwitterの連続投稿を筆者が見やすいようにつなげて掲載した  https://twitter.com/hibiki_takama/status/1418033210479415296

 上の指摘を受けて、大阪で演劇活動を行う松本謙一郎さんが、「アイホール作戦会議」を開催していた*2

署名も武器の一つとして、しかし署名だけでは「演劇ホールとしての」アイホールを存続させるのは非常に難しい状況だと考えます。

だから、ぜひ、具体的な「作戦会議」がしたい。
署名賛同する以外に出来ることはないのか?
署名にしても、どのような方法で何筆集めて、その数字をどう使うのか?
行政が希望している課題を解決するにはどういう方法が考えられるか?
伊丹市民や議会に訴求するためには何が有効か?

何か行動を起こせないか考えている人はいると思うので、思いつきでもよいのでアイデア出しの機会があれば、一人で考えるよりも建設的なのではないかと思います。

thinkinghand.blogspot.com

 以上のように、新聞報道以降、瞬く間に次々と行動が起きている。これはもう10年以上前から続く、関西の演劇活動をする場の閉鎖の連続に対し、相当の危機感が持って関係者が動いていることを示している。そして、これくらい迅速に対応しようとする人材(それも、いま、あちこちの業界が求めている30代、40代の中堅)が豊富にいる演劇の業界を、もっと自治体も有用に使う余地はあるのではないだろうか。どの地域でも、将来のことを考えるときに、かならず「人材不足」と「資金難」が挙げられるが、いま、切り捨てられようとしている人材にもう一度目を向け、ともに新しいスタートを切る可能性は十分に残っていると私は思う*3

 

*1:詳しくはこちら→ https://www.facebook.com/akoak.takahashi1/posts/1018079978953966

*2:この記事の多くの情報は、松本さんの記事を参考にしている。

*3:これは半分、自分が大学業界に思っていることでもあります

山花郁夫議員による修復的司法再検討の提言

 衆議院山花郁夫議員(立憲民主党)が、国会で修復的司法を再検討する提言をしていたことを知った*1。犯罪被害者基本法を議論していた時代に触れながら、以下のように発言している*2

あの当時は被害者側の視点というのがあらゆる制度の中で欠けているところがあって、刑事訴訟の中でも限定的ですけれども被害者の方が参画できるようになったりとか、あと、法務委員会の所掌じゃないですけれども、犯給法、犯罪被害者給付金支給法等々、そういったものについても議論が盛んでした。また、法務委員会なんかですと修復的司法というのが、当時、司法制度改革とかの議論の中で修復的司法というのが非常に注目されまして、加害者の側と被害者とが向き合って、単に罰するというだけじゃなくて、加害した側にも、更生というか、相手と向き合ってという機会をつくっていくんだというようなことが非常に議論になった、そんな時期ではなかったかと思います。改めて、こうした少年法の世界でも修復的司法みたいな発想というのがもっと取り上げられていいのかなと個人的には思っております。

kokkai.ndl.go.jp

 私が修復的司法について知ったのは2006年の『法律時報』の特集で、そこから勉強し始めたので、その頃の政治的な動向についてコミットメントできなかった*3。私が研究し始めた頃には、すでに日本における修復的司法の制度化は白紙に戻っており、全く見通しが立たなくなっていた。いまも、各国の研究者に日本における修復的司法導入の現状を聞かれることがあるが、「先は見えない」と答えざるを得ない。

www.nippyo.co.jp

 ただ、そのなかで今も山花議員が修復的司法に言及されたことは、私にとっては良いニュースだった。山花議員の指摘の通り、当時は全く被害者支援がなされていない状況であり、それが修復的司法への強い反発を生んだ。また、推進する側も、加害者更生や社会復帰に焦点を当てることが多く、(私個人の感覚としても)被害者を中心にした取り組みとは言えなかったと思う*4。修復的司法の制度化にはあまりにもハードルが多かった。しかしながら、現在の国際的な修復的司法の潮流では被害者を中心とした実践の重要性は、前提として共有されつつある。被害者学(victimology)の立場からの修復的司法の研究も展開されている。

 他方、日本社会においても、時の流れとともに犯罪被害者への見方も変わり、被害者支援の必要性も理解され、(全く十分ではないが)補償金や相談制度もでき始めた。ここから、再び修復的司法を検討する余地はあり得ると私は思う。

 また、山花議員は、性犯罪の重罰化についても慎重な議論を展開している。一筋縄ではないかに話ではあるし、私も刑法の専門家であるので妥当性の有無は詳しくはわからないが、俯瞰的に問題を捉えようとする粘り強い文章に感銘を受けた。

yamahanaikuo.com

 私は性暴力の問題には深く入り込みすぎているところがあり、法改正についてはほぼ何も関与せず、背を向けてきたところがある。それは研究者としてあまり褒められた態度ではないが、なにひとつ議論に貢献できる気がしなかった。それだけに、山花議員が重罰化への疑問を丁寧に整理してこられたのを、大変尊敬する。

 私自身は、法改正ではなく修復的司法の導入を研究する側にまわった。現況でも、性暴力事例については日本で修復的司法を導入するのは困難だろう。あまりにも支援者が足りず、加害者の治療の制度化も進んでいない。しかしながら、ひとつのビジョンとして、「裁判だけが問題を解決するわけではない」「修復的司法というオルタナティブな選択肢がある」ことを示すことは重要だと今も思っている。それは、私たちが二者択一の隘路にはまったときに、もう一度顔を上げて周りを見渡し、広い視野から性暴力について検討するための、灯台のような役割を持っていると考えているからだ。

 私は今は、環境問題へと研究のフィールドを移しているが、もちろん性暴力の問題から関心が離れたことはない。そして、このような議員の発言を見ると、「諦めてはならない」と思う。

*1:次のツイートで知りました。有意義な情報発信に感謝します。https://twitter.com/donsarari/status/1417302797108744198

*2:議事録はこちら→

https://kokkai.ndl.go.jp/minutes/api/v1/detailPDF/img/120405206X01320210414

*3:とはいえ、その前には支援団体にいたので別経路から個人的に断片的な情報は得ていた。

*4:今回の山花議員の発言も、その方向でなされている

水俣の絵はがき

 「水俣病を語り継ぐ会」が、水俣の写真を使った絵はがきを製作されています。現在の水俣の風景があり、そこで生きているものたちの息吹を伝えています。とても美しいです。絵葉書は10枚セットで1000円だそうです。なんと送料は無料!以下のサイトの左のカラムから申し込めます。

kataritugu.jimdofree.com

 

 

藤本タツキ「ルックバック」

 昨日、ジャンププラスで公開された藤本タツキ「ルックバック」が大きな話題を呼んでいる。作品は無料で読めるし、英語版も同時に公開された。(日本国内からは英語版はアクセスできないようだ)

shonenjumpplus.com

 この作品では、藤野と京本という二人の女の子が中心になって描かれている。漫画を描くことが好きな藤野は、不登校の京本が高い画力をもっていることに打ちのめされる。だが、京本は藤野の漫画を誰よりも愛し、彼女を尊敬していた。二人は共同で漫画を描きはじめ、デビューし、作家として成長していく。京本は美大への進学を決意し、二人は別々の道を歩み始める。ところが、ある日、京本は見知らぬ男に殺されてしまう。

 この作品は、明らかに現実に起きたいくつかの殺人事件に着想を得ている。そのひとつが、2019年7月18日に起きた京都アニメーション放火殺人事件であることは間違いないだろう。この事件では、多くのアニメの製作者たちが被害を受けた。ただし、この作品はあくまでも、藤野という一人の女性漫画家が失った、大事な友人であり仲間である京本との深い関係と、喪失を描き出している。そのため、より普遍的な次元での「喪失」を表現しているため、多くの人の心を揺さぶるだろう。

 作品の中で描かれる藤野と京本の関係は独特だ。かれらは、お互いの性格や個人的な事情によって惹かれ合うのではなく、あくまでも「描くこと」への執着で結び付けられている。京本の強烈な背景絵画への執念に、藤野は自分の漫画を描く熱情を掻き立てられた。同時に、京本は藤野の手を取り、漫画という作品を完成させていくプロセスを経ながら、自らの絵を極めていきたいという熱情を得て、それを美大進学へ傾けるようになる。コマのなかでの親密なかれらの姿のそばには、いつも漫画がある。かれらはお互いに「描くこと」によって結び付けられていった。

 京本の死後、衝撃を受けた藤野は「私のせいだ」と思う。藤野は京本の死にはなんの咎もない。だが、突然に暴力的にもたらされた親しい人の死に対して、多くの人は自責感を抱く。そのとき、藤野は想像の力で「別の未来」を構想する。自分が京本と出会わず、彼女を外に連れ出さず、漫画を描かずに空手をしていて、彼女の命を救う、そんな未来だ。しかし、藤野の想像の世界でも、京本はやはり絵を描き、藤野の作品を愛している。そして、「別の未来」から、京本からのメッセージとして、今いる藤野のもとに漫画が届く。それがきっかけで、藤野は京本とはどうしようもなく漫画で結びつけられていることを再確認し、漫画を描く作業へ戻っていく。彼女との繋がりは、「描くこと」によって続いていくかのようだ。

 私はこの作品を初めて読んだあと、すぐに最初のページからもう一度読んだ。ページの隅々までに埋め込まれた、たくさんの情報。そこから立ち上がってくる「たしかに生きていた」かのような、二人の存在。そして、いなくなった京本と、これからも描き続ける藤野の姿に、心を動かされた。凄惨な出来事のあと、それでも生きて描き続ける藤野の姿は、きっと多くの喪失を経験した人たちへの励ましになる。また、たくさんの挫折や苦悩の中で創作を続ける、漫画家や作家への強いメッセージにもなるだろう。

 他方、あっという間にこの作品がネットで拡散され、多くの人が感動しているさまを見ているうちに、私の中にはだんだんと躊躇や不安が湧き上がってきた。個人的なレベルでは私も感動しているが、ネットの特有のカスケードによって、「感動」が流れの早い濁流のようになっていくのを幻視してしまう。

 懸念事項は二つある。一つ目は、加害者の描かれ方である。この作品はあくまでも「被害者の友人」である藤野の視点から描かれている。そのため、加害者についてはほとんど背景の情報なく、突然現れたモンスターのように扱われる。さらに、加害者は特定の病気の症状を持っていることは、読む人が読めばすぐにわかる。そのことによって、当該の病気の偏見が強化される危険は十分にある。また、当該の病気を持つ人から、読むのがつらいという旨の発言があったという話もみかけた。加害者となる人にも、そのひとの歩んできた道があり、困難があり、苦悩がある。この作品はそれを捨象していることで、作者の意図せぬ影響を与えてしまう可能性はある。

 ただし、この作品は読切の短編漫画である。もし、加害者のそのような詳しい背景を書き込めば、途端に作品は膨張し、焦点の定まらないものになるだろう。たとえば、私が先日、紹介した*1フェルナンド・アラムブルの『祖国』は被害者・加害者とその周囲の人々の人生について描き出した素晴らしい文学作品であるが、日本語版は上下巻ある長編小説である。それを購入するだけで6600円もする。なかなか気軽に手が出せる値段ではないし、文字を読むことが得意でない人にとっては、大変な読書になる。「ルックバック」は無料で公開され、絵の力によって多くの人の心を揺さぶる。その力は、やはり今のような読切の短編漫画だからこそ持つものであることは否めない。 

  二つ目の懸念点は、ショッキングな出来事の後、すぐにまた創作活動に戻ることが「良いこと」であるようなメッセージが強く伝わりすぎることである。私自身、殺人事件ではないが、友人を亡くしたことがある。そのあと、私はしばらく論文が書けなくなった。その経験があるからこそ、私はこの作品に強く心を動かされたところがある。だが、書けない渦中で読むと、つらかったかもしれない。そのときの私は、この作品が「正解を示している」ように受け取ることが想像できるからだ。

 この2点の懸念があることは、「ルックバック」という作品をなんら毀損しない。アートは正解を示すものではないし、全ての人に受け入れられることを目指すべきでもない。ただし受容者が、全てを無批判に受け取る必要もない。だから丁寧に考えていく場は必要なのだろう。つまり、この作品は批評に耐えうるし、「議論の素材」となることに値するということである。私はこの作品は、一人の心の中にしまって大切にされる宝物になり得ると同時に、多くの人と話すきっかけとなる素材になり得ると思う。

 ただし、私はそのような議論はネット上では難しいと感じる。クローズドで、個人的な経験や感情的な動揺も含めながら、作品についてゆっくりと掘り下げていくような、そんな静かでパーソナルなやりとりができる場*2が必要だろう。それはコロナ禍の現状では難しいが。

*1:近況 - キリンが逆立ちしたピアス(ブログ版)

*2:私は京都アニメーション放火殺人事件について、大学の非常勤講師をしているなかで、授業中に学生と話し合ったことがある。でも、それは1年近く少人数で毎週、戦争やテロ、暴力について対面での議論を重ね、学生の側からの提題だったから可能だった。あのときの、被害と加害についての静かで心に食い込むような議論は、私の心にしまってあるが、誰かが意図したりデザインしてもたらされる瞬間ではないと思う。たまに、そういうことは起きる、それだけだ。