話さなくていい、声を上げなくていい

 大学や専門学校で講師を務めるようになり、授業では次の2点を伝えるようになった。

「話さなくていい」「嘘をついてもいい」

 私が教えている学生のほとんどは、20歳前後で若い。かれらの多くは、こちらが思っているよりも素朴で純粋で、「嘘をつきたくない」「誠実でありたい」と真剣に考えている。かれら自身の自己像がどうであれ、講師の立場にある私は、いつもかれらのその「若さ」としか言えないものに触れることになる。

 私は授業でセンシティブな話題に触れることが多い。病気、障害、自殺、貧困、民族差別、性差別。そして「性的なこと」を扱うこともある。私は行政や民間で、性暴力やDVの講演の経験は重ねているが、大人はある程度、こうした話題になると心を閉じる。言葉を選んで話しているつもりだが、「聞きたくない」「話したくない」という態度を取る人もいる。部屋を出ていく人もいる。それらは私にとってありがたいフィードバックになり、自己の講演を修正する材料になる。ところが、学生は刺激の強い話題であるほど、目を見開いて沈黙して、こちらの話に聞きいる。普段、寝ているような学生が急に体を乗り出して聞き始めることもある。これはありがたいことではあるが、とても危険だ。

 大人が話を聞くことを避けようとするのは、自分の身を守るための防衛本能だ。「傷つきたくない」という咄嗟の判断である。ところが、学生は身を守るより先に、自分の心を全開にして受け止めようとしてしまう。それは美徳ではあるが、結果として、こちらの想定を超えて話した内容を重く受け止める可能性もある。もしかすると、意図せず深く傷つけてしまうかもしれない。だからと言って、センシティブな話題を避けることもおかしい。差別や暴力の話、内面に関わる話を避けることは倫理的に問題がある。

 そこで、私は大惨事を避けるために「話さなくていい」「嘘をついていい」と伝えている。問題が自分の心に突き刺さり、受け止めきれないときに、そのまま言葉にしてしまうことは、トラウマを晒すことである。たとえば、心理相談等の閉じられた空間でなら、比較的、安全に話すことはできるだろう。だが、教室という集団の中で、トラウマを晒した場合、周囲からの二次加害が起きることもある。もちろん、「話したくて、話した」という場合は、私は講師として二次加害を防止するために動くし、できる限り、ひどいことにならないように尽力するつもりである。だが、「話さなくてはいけない」「本当のことを言わなくてはならない」という義務感に突き動かされ、望まぬ形で話してしまうことを恐れている。

 そもそも、私はずっとネットで「声を上げさせない」運動をしている。特に「泣き寝入り」という言葉を使わないように求めてきた。過去には、産経新聞の記事に対してこのような批判を書いた*1

正義漢ヅラをして、被害者を追い詰める人たち

https://font-da.hatenablog.jp/entry/20130818/1376831679

 もちろん、「問題を告発したい人が声を上げることができる」ような社会を目指すことはとても良いことだ。また、それを支援する必要もある。同時に、当事者が身を守るために「声を上げない」ことを選ぶことができることも重要だ。当事者が被害経験を話すことも、トラウマを晒すことになり、非常に負担は大きい。それは周囲が気軽に「やってほしい」というようなことではない。

 当事者が「声を上げる」ことは社会を変える大きな力になるだろう。だが、社会を変えるよりも、自分の身を守ることを優先することは、何も悪いことではない。声を上げない選択をすることは、当事者の権利である。「声を上げる」ことで、「声を上げない人」の負担を減らすことができるかもしれない。だけれど、本来は「声を上げなければならない」状況自体が不当であり、「声を上げる人」が苦しむことは、「声を上げない人」の責任ではない*2。望まぬ形で「声を上げる」ことにならないように、周囲は配慮する必要がある。

 私は、「話すこと」や「声を上げる」ことに対しては、慎重であるにこしたことはないと考えている*3。また、「私が話す」や「私が声を上げる」ことと、他人に対して「話してほしい」「声を上げてほしい」と言うことは違う。その一線は引いておきたい。

*1:なお、産経新聞のその後の連載は(私の批判とは関係ないと思うが)軌道修正されている。→ https://font-da.hatenablog.jp/entry/20130822/1377145158

*2:もちろん、もし「声を上げない人」が「声を上げる人」を攻撃するのであれば、「声を上げない人」の責任でもあるだろう。そして、「声を上げない人」にとって、「声を上げる人」の存在がプレッシャーとなり、攻撃してしまうことはままある。だが、それはまた別の話である。

*3:私もまた、「話さないこと」や「声を上げないこと」はたくさんある。それは自分を身を守るスキルであるし、そうできるようになって良かったと思っている。かつて、私自身が、何もかも話さなければならないと信じていた。

「小さな組織」を作る

 私の良さは少人数の組織の方が発揮される。理由は明白で、私は個別・具体的な人間関係のなかで、思想的な議論を深めていくのが得意だからだ。個人的な経験を掘り下げて、そこから得られる強烈な「確信」のようなものを、少人数の関係の中で分かち合い、言葉にしていき、「それがなんであるのか」を探求する。そういう場作りには長けている。

 他方、大人数の組織に入ると私は元気がなくなる。まず、誰かが何かを思いつくと、それに対する反論が先に出てしまうので、「新しい発想」を潰すことになってしまう。また、「みんなでやろう」と誰かが言えば、「やりたくない理由」をいくつも思いつく。つまり、「頑張ろうとしている人」の意を削ぐ能力が発揮される。

 私が大人数の組織にいて良いことがあるとすれば、その中で孤立しがちだったり、悩んでいたりする人が、「私だけではない」と思えることである。だが、私自身は「またうまくやれない」という疎外感を深めるので、大人数の組織にとどまることは難しい。(私は諦めが早いので、そういう組織からは黙って気配を消して、いなくなることが多い)

 私としては、大人数の組織に適応しようとするよりは、少人数の組織のなかで力を発揮したいと考えている。しかしながら、少人数の組織は、なかなか目に見える成果が上げられない。また、大人数の組織の「下部組織」として扱われることもある。しかし、「小さな組織」には、それ独自の良さがあるはずだ。

 小さな組織は無名であり、新規参入者が少ないため、濃密な人間関係が凝縮されていき、時にはトラブルの原因となる。現代では、オープンであることが良しとされ、透明性が重視されるため、このような組織は時代には逆行している。しかしながら、私たちの根幹に関わるような話は、「開かれた場」では難しいのではないか。「家族」や「友人」のように特定の情愛の結びつきを求めるのではなく、「団体」や「ネットワーク」のように公共に還元する成果を求めるのでもなく、あるトピックを手がかりに、コミュニケーションそのものだけが求めるような組織のあり方がある。それには、それの良さがある。

 この地味な良さをどうやって自分の言葉にしていけるのか。そういうのが、私の一つの課題だと思っている。(そして、こういう話は社会運動や社会思想の中で繰り返し行われてきているので、普遍的な問題なのだろうとも思う)

ネット上のフェミニズムについて

 思わぬ形で炎上してしまったので、何度かこれまで書いてきたネット上のフェミニズムについて、アップデート版をメモがわりに書いておく。

 

私はネット上のフェミニズムを切り離さない。

 ネット上で一部のフェミニストが「ツイフェミ」「ネットフェミ」「ミサンドリスト」などと呼ばれて批判されている。私はかれらとほとんど思想的に接点はなく、主張も重なるところはない。だが、かれらがフェミニストを名乗る限り*1、自分と切り離すつもりはない。かれらもまた、私と同じフェミニストである。

 そのことは、私がかれらを批判しないことを意味しない。私はトランスフォビア、セックスワーカー差別に反対するし、表現規制には慎重な態度を取る。必要な場合は、かれらを批判する。ただし、私の批判はフェミニストとして、フェミニストに向けて行うものである。私は、被差別の当事者以外が、フェミニストの肩書を引き受けずに、フェミニズム批判する場合、それに同調しない。なぜなら、フェミニストとして社会を変えていく意欲のない者の「批判のための批判」には私は関心がない。私は「フェミニズムをよくする」ためではなく、「被差別者の告発に連帯する」ために、フェミニズムを批判する。

 以上についてはこれまでも何度か書いた。下に例を挙げておく。

フェミニストとしてトランス差別・排除に反対します」

https://font-da.hatenablog.jp/entry/2019/02/08/124056

「ネトフェミだったら何なの?」

https://font-da.hatenablog.jp/entry/20150323/1427073197

私はネット以外でのフェミニズムの活動を重視する

 上の批判を行ったとしても 、私と立場の違うフェミニストはおそらく、考えを変えることはないだろう。人間の思想信条は生活や人生に根ざしたものが多い。ネットで批判されたくらいで変わるような思想信条は、逆にあまりにも脆弱である。また、「他人を変えようとする」ことより「自分を変えようとする」努力の方がずっと有益だと私は考えている。

 フェミニストとして日々を暮らすことは、異なる価値観を持つ人と出会い続けることである。ネット上でどれほどフェミニストが増えたように見えたとしても、社会ではいまだ少数派である。もしかすると、性暴力やDV、セクハラについての考え方は10年前に比べれば変わってきているかもしれない。そのことは肌身で感じている。それでも、いざ何か起きたときに、フェミニストとして立ち上がろうと決意する人は多くない。

 私自身は、これまで何度も書いてきたように、フェミニストになることを他人に勧めたことはない。なぜならば、これまで自分がフェミニストであると名乗り、性差別や暴力の問題に取り組むたびに、周囲との軋轢に苦しんできたからだ。私は私の、生活と人生の文脈の上でフェミニストを名乗っているが、他人が同じ苦しみをすべきだとは思わない。それぞれができる形で性の問題に取り組めば十分である。

 そうした日々の暮らしの中で、できる限りの性差別や暴力への抵抗を続けていくことが、フェミニストの活動の本筋である。それはとても難しいことで、私も十分に実行できていると思えたことはない。それでも、たとえば私であれば、学会内の性差別的な構造を指摘したり、性差別や暴力で悩む同僚や後輩を(非常に小さな力ではあるが)支えたりするかたちで、フェミニストとして末端ながら活動していきたいと考えている。このことのほうが、ネットで何か言うよりも、フェミニストとして生きる上で重要だろう。

 私はネットでものを言うことにより、フェミニストとしての自己の一部を確立してきた。しかし、私の思想信条の大半は、ネットの言説ではなく、具体的な人々との関わりのなかで培われている。私はヴァーチャル空間ではなく、現実世界でフェミニストであることに、重きを置くべきだと考えている。

 現実世界で、フェミニズムを学び、活動につなげていく方法について書いた記事を以下に挙げておく。

「大学に行かずにフェミニズムを学ぶ方法」

https://font-da.hatenablog.jp/entry/2019/11/01/202311

 私はネットの「フェミニズム」「反フェミニズム」の変化を肯定する

 ネット上でフェミニズムは毀誉褒貶の激しい領域で、常に論争の的になってきた。私がネットを始めた頃にも、「フェミナチ監視掲示板」があり、フェミニストを危険視する人たちがいた。フェミニストは理性を持たず感情的なので、フェミニストが力を持ってしまえば、社会が危機に晒されると考える人たちである。今も似たような危機感を抱く人たちはいるだろう。「あのような危険人物たちを野放しにしてはいけない」という言説は私もよく目にする。

 当時と今の違いは、「フェミニズムに関心を持つ人」の総数である。近年はメディアや出版業界でフェミニズムが流行っており、有名人も言及するようになっている。フェミニズムは「売れるコンテンツ」になっているのである。そのことはメリットもデメリットもあるが、結果として、多くの人たちがフェミニズムに関心を持つようになっている。

 十年前にフェミニズムに関心を持つ人たちは、支持派にしろ反対派にしろ、性の問題に思い入れがあることが多かった。反対派であっても、自分の人生や生活でトラウマティックな経験や、強烈な想いを抱えた人が、熱意を持ってフェミニストを批判した。どちらにしろ、自己の問題とフェミニズムが緊密につながっていたのである。

 しかしながら、フェミニズムがよく知られた問題になると、もっと気軽にフェミニズムを支持したり反対したりする人たちが出てくる。フェミニストにならなくても、強い思い入れがなくても、フェミニズムに物申すのである。それは一般的に言うと良いことである。十年前は、性差別や暴力に無関心な人たちが多かった。それが今は、どんな形であれ、「なにか言いたい」気分が広がっている。社会を変えるためには、多くの人たちの目に触れる形で問題を議論の俎上に上げなければならない。

 ただし、この場合、フェミニズムの支持派も反対派も、主張の色合いは変わるだろう。正直に言えば、私は十年前の濃密なフェミニズムの議論の方が、苛烈ではあっても刺激的で、魅入られる部分があった。もちろん、私も二十代であり、若かったのもあると思う。今のフェミニズムの議論は「自己の葛藤」よりも「何が正しいか」「どちらがより良いか」という議論が中心であり、私はあまり惹かれない。また、性についての自己吐露的な言明であっても、もうその型が出来上がってしまったように感じることもある。これは私が歳をとって感受性が鈍ったことが原因でもあるだろう。

 なんにせよ、フェミニズムは変わった部分もあれば、変わらなかった部分もある。私は変化した部分は肯定的に捉えてよいと考えている。時代に応じて社会運動は変わっていく。私は「私が何をするのか」が重要であり、流れの中で泳いでいくだけだと思っている。

 

*1:名乗ってない人をフェミニストと呼ぶのはおかしいし、やめるべきだ。

あけましておめでとうございます。

 昨年*1は、ありがたいことに、自著の初刷が完売*2しました。現在、出版社でも在庫切れになっています。誤記・誤訳の修正*3が終わり次第、増刷していただけることになっております。ご迷惑をおかけしますが、もうしばらくお待ちください。

 

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

  • 作者:小松原織香
  • 出版社/メーカー: 成文堂
  • 発売日: 2017/11/12
  • メディア: 単行本
 

  現在は、主に「環境問題と修復的正義」の研究を進めています。やっと、まとまった論文を書くことができました。自分なりの修復的正義の探究の方向性を明確にできましたので、本格的な研究のスタートラインに立てたように思います。

〈被害者の情念〉から〈被害者の表現〉へ 水俣病「一株運動」(1970 年)における被害者・加害者対話を検討する

http://www.philosophyoflife.org/jp/seimei201904.pdf

 今後は、「環境問題と修復的正義」の理論研究と実践研究の二本柱で進めていく予定です。海外での研究や英語での成果報告も増やしていきたいと思っています。

 また、京都大学のLaÿna Drozさんと、アジア環境哲学ネットワーク(Network of Asian Environmental Philosophy)を立ち上げて活動しています。

Network of Asian Environmental Philosophy

asiaenviphilo.com

 これまで、日本のアカデミズムの中で「居場所がない」という悩みを抱えていたのですが、思い切って海外に飛び出してみると、似たようなことを研究している人はたくさんいました。「一緒に仕事をしよう」と声をかけられることもあります。私は中学生の時から英語が苦手ですので、英語で仕事をするのはつらいところもあるのですが、フィットする場所がある限りは、これからも英語を勉強して国際交流・発信に尽力したいと思っています。

 それに加えて、私の研究の大きな転換としては、アートやアニミズムの問題に言及し始めたことです。こちらは、英語での成果報告がこれまでメインでしたが、もう少し日本語でも書いていこうと思っています。エコロジー思想の再評価や、石牟礼道子を中心とした文学作品の検討を通して、スピリチュアリティの問題に足を踏み入れています。もともと、私は学部時代は美学及び芸術学専攻で、アートと政治の問題を研究するつもりだったので、原点に帰ってきたと言ってもいいかもしれません。他方、こうした問題についての報告は、国際学会でも関心をもたれやすくなっていますので、「潮目」のようなものが来ているようにも思います。

 また、偶然ですが、これまではてなでよく記事を読んでいた、名取宏さんが「偶然性の問題*4」に言及し、熊代享さんが「スピリチュアルな問題」に言及していました。文脈はそれぞれ違いますし、私がこの問題に付き合ったのも、ライフヒストリーと絡み合っているので、個人的な問題でもあります。それでも、これはひとつの時代の気分でもあるかしれないとは思っています*5

名取宏「何も悪いことをしていなくても人々は病気になる」

何も悪いことをしていなくても人々は病気になる - NATROMのブログ

 

熊代享「拝むものが無くて合理性を拝む迷える子羊」 

拝むものが無くて合理性を拝む迷える子羊 - シロクマの屑籠

 

*1:昨年は祖母が亡くなり、喪中でしたので、新年のご挨拶は控えていました

*2:類書では例のないほどの売れ行きだそうで、感謝の気持ちでいっぱいです。

*3:やってもやっても、終わりません。初刷をご購入いただいたみなさまには、本当に申し訳ない気持ちでいます。正誤表をネット上でアップするつもりです。

*4:「医療行為が確率論でしかない」と宣言することは、偶然性の問題に足を踏み入れることになります。それは、私たちはなんらかの選択をするときに確実性を失い、偶然に「賭ける」ことになるということです。神様を信じている人であれば、「神の采配」に身を委ねることになりますが、無信心者は自己の決定に全ての責任を引き受けることになります。重大な決定(たとえば命に直結する治療をするかどうか)を前にして、神なき時代を生きる人々がどう耐えうるのかという問題が出てきます。「偶然性」はポストモダン思想でよく論じられた課題です。私はこれまでの名取さんの記事を読んだ印象からは、こっちの方向に言及することは意外だったし、びっくりしました。

*5:何の確証もない、単なる私の年末年始の感想です

あけましておめでとうございます。

 昨年*1は、ありがたいことに、自著の初刷が完売*2しました。現在、出版社でも在庫切れになっています。誤記・誤訳の修正*3が終わり次第、増刷していただけることになっております。ご迷惑をおかけしますが、もうしばらくお待ちください。

 

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

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  • 作者:小松原織香
  • 出版社/メーカー: 成文堂
  • 発売日: 2017/11/12
  • メディア: 単行本
 

  現在は、主に「環境問題と修復的正義」の研究を進めています。やっと、まとまった論文を書くことができました。自分なりの修復的正義の探究の方向性を明確にできましたので、本格的な研究のスタートラインに立てたように思います。

〈被害者の情念〉から〈被害者の表現〉へ 水俣病「一株運動」(1970 年)における被害者・加害者対話を検討する

http://www.philosophyoflife.org/jp/seimei201904.pdf

 今後は、「環境問題と修復的正義」の理論研究と実践研究の二本柱で進めていく予定です。海外での研究や英語での成果報告も増やしていきたいと思っています。

 また、京都大学のLaÿna Drozさんと、アジア環境哲学ネットワーク(Network of Asian Environmental Philosophy)を立ち上げて活動しています。

Network of Asian Environmental Philosophy

asiaenviphilo.com

 これまで、日本のアカデミズムの中で「居場所がない」という悩みを抱えていたのですが、思い切って海外に飛び出してみると、似たようなことを研究している人はたくさんいました。「一緒に仕事をしよう」と声をかけられることもあります。私は中学生の時から英語が苦手ですので、英語で仕事をするのはつらいところもあるのですが、フィットする場所がある限りは、これからも英語を勉強して国際交流・発信に尽力したいと思っています。

 それに加えて、私の研究の大きな転換としては、アートやアニミズムの問題に言及し始めたことです。こちらは、英語での成果報告がこれまでメインでしたが、もう少し日本語でも書いていこうと思っています。エコロジー思想の再評価や、石牟礼道子を中心とした文学作品の検討を通して、スピリチュアリティの問題に足を踏み入れています。もともと、私は学部時代は美学及び芸術学専攻で、アートと政治の問題を研究するつもりだったので、原点に帰ってきたと言ってもいいかもしれません。他方、こうした問題についての報告は、国際学会でも関心をもたれやすくなっていますので、「潮目」のようなものが来ているようにも思います。

 また、偶然ですが、これまではてなでよく記事を読んでいた、名取宏さんが「偶然性の問題*4」に言及し、熊代享さんが「スピリチュアルな問題」に言及していました。文脈はそれぞれ違いますし、私がこの問題に付き合ったのも、ライフヒストリーと絡み合っているので、個人的な問題でもあります。それでも、これはひとつの時代の気分でもあるかしれないとは思っています(これは単なる私の年末年始の感想です)。

名取宏「何も悪いことをしていなくても人々は病気になる」

何も悪いことをしていなくても人々は病気になる - NATROMのブログ

 

熊代享「拝むものが無くて合理性を拝む迷える子羊」 

拝むものが無くて合理性を拝む迷える子羊 - シロクマの屑籠

 

*1:昨年は祖母が亡くなり、喪中でしたので、新年のご挨拶は控えていました

*2:類書では例のないほどの売れ行きだそうで、感謝の気持ちでいっぱいです。

*3:やってもやっても、終わりません。初刷をご購入いただいたみなさまには、本当に申し訳ない気持ちでいます。正誤表をネット上でアップするつもりです。

*4:「医療行為が確率論でしかない」と宣言することは、偶然性の問題に足を踏み入れることになります。それは、私たちはなんらかの選択をするときに確実性を失い、偶然に「賭ける」ことになるということです。神様を信じている人であれば、「神の采配」に身を委ねることになりますが、無信心者は自己の決定に全ての責任を引き受けることになります。重大な決定(たとえば命に直結する治療をするかどうか)を前にして、神なき時代を生きる人々がどう耐えうるのかという問題が出てきます。「偶然性」はポストモダン思想でよく論じられた課題です。なので、私は名取さんがこっちの方向に言及することは意外だったし、びっくりしました。

大学に行かずにフェミニズムを学ぶ方法

 すっかりインターネットでもフェミニズムがお馴染みになり、「いったいフェミニズムとはなんなのか?」「どうやって勉強すればいいのか?」と聞かれることが増えた。「フェミニストがちゃんと説明しろ」という声もある。そんななかで、大学でジェンダー*1に触れたが、絶望したという経験を書いている人がいる。

八谷リナ「ジェンダーヤクザがジェンダー学に絶望した話」

https://note.mu/rina_hachiya/n/n8ae145f01de5

 

 

 八谷さんは女子大に進学し、ジェンダー学の授業を履修したが、以下のような経験をしたという。

先生は異常な厳しさで私たちを制圧した。誰も意見できなかった。そして「今までのあなたたちの価値観は間違っている」と男女観をぶち壊しにかかった。授業内容は安定の「男は加害者・女は被害者」というものだった。

 そして次のような心境に至った。

私はどんどんミサンドリーに苦しめられた。なんの理由もなく男性嫌いになり、憎しみに二十四時間つきまとわれた。楽しいこともあったけど、常に心に憎悪があった。精神状態は良くなかった。

 以上のように八谷さんはジェンダー学の授業に傷つき、ジェンダー学を恨んでいると言う。これは大変つらい経験だと思う。私は、本来ならばジェンダーについて学ぶことは、新しい性のあり方や価値観に出会い、もっと広い生き方の可能性に気づくことにつながると考えている。ジェンダーに関する授業は、自分の中の「性に関すること」を見つめる時間であって欲しい。だけれど、八谷さんにとってのジェンダー学の授業は逆の、性について苦しみ、生きることがつらくなってしまう経験になっている。

 八谷さんの授業で、具体的に何があったのかは書かれていないので、なぜこんなことが起きたのか私にはわからない*2。また、私は大学の学部*3ジェンダー学の授業を受けたことも、担当したこともない。そういうわけで、私は大学のジェンダー学については、実体験に欠けるところがあるし、そもそもジェンダー学が専門でもない*4

 同時に、私も大学で教壇に立つことがあるが、授業で「フェミニズムを学ぶ」ことは非常に困難だということを強く感じる。第一に、教員と学生の間には権力関係があり、「平場で学ぶ(対等な関係を志向する)」ようなフェミニズムの実践はほぼ不可能であることだ。どんなに配慮をしようとも、「教えるー教えられる」関係である限り、フェミニズムの生き生きとした力は立ち上がってこないと、私は思う。第二に、八谷さんの場合もそうだったように、学生はジェンダーについて学ぶことを強要されることだ。これは仕方のないことでもある。社会の中にあるジェンダー構造について学ぶことは、今後の大学生の教養教育で(世界中で)必須とされていくだろう。しかしながら、フェミニズムを支える性の問題に取り組む情熱は、他人から強要された授業では出てくることが難しい。もちろん、今後もこの二点の問題はありながらも、「どうすればジェンダーの授業を魅力的に活力あるものにできるのか」ということを、大学教員は知恵を絞って考えていくことだろう。それでも、私は大学で「フェミニズムを学ぶ」ことはとても難しいという気持ちは今もある*5

 他方、私は大学ではない場所でジェンダーについて学び始め、フェミニストになった。そこで、「大学に行かずにフェミニズムを学ぶ方法」を紹介しようと思う。

 まず初めに「正しいフェミニズムの学び方」はない。「この本を読めばフェミニズムがわかる」「あの先生の授業を聞けばフェミニズムがわかる」ということはない。また、「あなたは正統なフェミニズムを知らない」というのもナンセンスだ。フェミニズム一人一派と呼ばれ、それぞれが「私のフェミニズム」を語ることで成り立っている。それがどんなに間違っていると他人に言われても、「私のフェミニズム」は誰にも否定されるものではない*6。それが大前提だということはおさえておきたい。

 その上で今回は(1)「本を読むこと/話を聞くこと」(2)「グループを作ること」(3)「社会活動に関わること」の三つの方法を紹介したい。

(1)本を読むこと/話を聞くこと

 一番手軽で簡単なのは、フェミニズムの本を読むことである。近所に図書館や本屋さんがあれば、そこで「ジェンダー」「女性」などの棚を眺めてみよう。役所に男女共同参画かがあれば、そこの資料室を覗いてみてもよい。背表紙のタイトルを見て気になったものがあれば手に取ってみて、パラパラと読んでみよう。面白そうだったら、その本を読んでみる。興味がなければすぐに棚に返して別の本を見よう。フェミニズムにはいろんな論者がいるから、合う/合わないは必ずある。気が合いそうな作者がいれば、とりあえず読んでいくのがいい。

 私が若い時にフェミニズムの世界に入っていくきっかけになったのは、北原みのりの『フェミの嫌われ方』だ。

フェミの嫌われ方

フェミの嫌われ方

 

  今でこそ、私は「フェミニストなんて嫌われてナンボ」と思っているが、20歳前後の私は「フェミニストになってしまったら、周囲に嫌われるんじゃないか」というのが大変不安だった。(今よりずっとフェミニズムの勢いは弱く、大学にはジェンダーの授業もなく、どこにいけばフェミニストに出会えるのかも知らなかった)他方、私はもう女性として生きていくのに息も絶え絶えで、先のことは全く見えず、自分の不甲斐なさを責めてばかりいた。なので、「嫌われてもいいからフェミニストになるなんて、どんな心境なんだろうか? なんでこの人はフェミニストになったんだろう?」と思って北原さんの本を手に取ったのである。

 当時の私と同じように「なぜ私は、こんなにも女性であることが苦しいのだろうか?」という疑問を持つ人は、今もいるだろう。最近出た本ではこのあたりが良いかもしれない。

ぼそぼそ声のフェミニズム

ぼそぼそ声のフェミニズム

 
ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか

ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか

 

  もうすぐ発売のこの本も良さそうだと思う。

エトセトラ VOL.2

エトセトラ VOL.2

 

  そして、私をフェミニズムへと引き摺り込んだのは田中美津『いのちの女たち』である。これは1970年代に活躍した「ウーマンリブ」の活動家である田中のエッセイだ。このブログでも何度も取り上げてきたし、私のフェミニズムの原点にある本だ。

いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論

いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論

 

  ジェンダーの問題でみっともなく取り乱し、冷静でいられず、感情に振り回されてうまく語れず、男性とぶつかって自滅していく自分の姿を、若い頃の私はずっと恥じていた。そういう自分のことをまさに「女」だと思っていた。そして、この本を読むことを通して、私は「女であること」を正面から肯定することができた。そこから私のフェミニズムは始まった。自己を解放し、「男が決めた価値」に合わせることをやめて、自分自身がよいと思う方向へ歩み出そうとした。もちろん、そこからそんな簡単に話はうまく行かないのだが、「このときの私は本当に勇気があったし、頑張ったなあ」と、20年近く経って今の私は思う。

 さて、ここまで来て「男性は何を読めばいいのか」という問題がある。実は田中美津の『いのちの女たち』を私が知ったのは、森岡正博『生命学に何ができるか』の中で紹介されていたのがきっかけである。

生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想

生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想

 

  この本の中で、田中美津の思想はコンパクトにまとめられており、非常に理解しやすくなっている。もしかすると、私が上で書いているような、「女性の強烈な感情」を理解しづらいと思う人も、この本を読めば入っていきやすいかもしれない。

 ところが、森岡さんは一通りリブの思想を解説した上で、自分の行為について次のような疑念を抱く。

  女たちが痛みと呻きの中で蓄積してきたいのちの叫びを、外からさっとやってきてその一番おいしいところだけをかっさらって、自分の学問的業績の一部に都合よく利用しようという、男たちがいままで繰り返してきた詐欺行為と同じではないか。そういう整理をすることで、男の生き方が変わるわけでもなく、もちろん女の生き難さが改善されるわけでもなく、ただ男の学者の地位が上がり、女の叫びがそのために体よく利用されただけに終わるのではないか。男からのこういう接近に一瞬でも希望の光を見て、そのあげくに深い傷を負った女たちは、もう二度とこのような接触には乗るまいと思うだろう。

 私はそれと同じことを、フェミニズム研究という名のもとに、ここでもう一度繰り返そうとしているだけなのではないだろうか。

(232-233頁)

 以上のように、森岡さんは男性が「フェミニズムを理解しやすいものにする」こと自体もまた、女性の搾取になる可能性を指摘する。つまり、自分がやっていることはやはりフェミニズムに反するものではないかと疑うのである。それでも、森岡さんは居直らずにフェミニズム研究を続けていきたいと、一度この文章を結ぶ。

 ところが次の段落では、上の引用箇所は六年前に書いたものであることが明かされる。森岡さんは、六年後の自分がそれを読み返すと偽善にほかならないと思うし、自己嫌悪でいっぱいになると書いている。上の引用箇所は、非常に男性の非常に誠実なフェミニズムへの向き合い方のように読めるが、「実は嘘だった」と筆者自ら告白するのである。地獄のような本である。

 私はこういう思考の過程を男性がどう思うかわからない。もしかするとフェミニズムに関心のある男性にとっては入り口として良い本なのかもしれない。

 ここまで本を中心に紹介してきたが、「読書が苦手な人」もいるかもしれない。その場合は「話を聞く」というのも一つの手だ。お近くの男女共同参画課に行けば、イベント情報が出ているだろう。そこにフェミニストジェンダーに関する研究をしている人の講演会があるかもしれない*7。ただし、こればかりは地域差があって不公平な話になってしまう。ここは申しわけない*8

(2)グループを作ること

 私は本を読んでいる時点では、フェミニズムには関心はあったが「フェミニスト」と名乗ったことはなかった。なぜなら「何をすればフェミニストになれるのか?」がわからなかったからだ。結論から言えば、自分がフェミニストだと思えば、フェミニストではある。しかし、私にとっては「誰かと何かをやってみること」がフェミニストと名乗るきっかけになった。

 私がやっていたのは、小さなフェミニズムの読書会だ。3人から5人程度で1ヶ月に1回集まっていた。多い時でも10人来たことはないと思う。

 読書会はたいていこんなふうに行う。

(1)世話人を決める(メールなどで次回のお知らせを送る)

(2)「読む本」と「読む範囲」を決める。(1冊読んでもいいし、数ページでもいい)

(3)各自で家で決められた範囲を読む

(4)集まってみんなで感想を言い合う

 

 私が読書会で読んで印象に残ったのはカリフィアの本。

パブリック・セックス―挑発するラディカルな性

パブリック・セックス―挑発するラディカルな性

 
セックス・チェンジズ―トランスジェンダーの政治学

セックス・チェンジズ―トランスジェンダーの政治学

 

 カリフィアはポルノやSM、トランスジェンダーなど、ヘテロのシス女性のフェミニストが苦手とするテーマに切り込んでくるので、私にとってとても挑戦的な議論になった。当時の仲間とこれらの本について議論することでフェミニストとしてずいぶんと鍛えられたと思う。参加者はシス女性だけではなく、男性やトランスなどミックスでやっていた。

 私がフェミニズム読書会に参加していたのは10年以上前になる。今も別のテーマの読書会は月に1−2度やっている。読書会が良いのはあまり準備がいらないことである。本を読む時には、自分の気に入った箇所に線を引いたり、付箋をつけたり、疑問を書き込んでおいたりすると良い。そして集まったときには、本を読んでいて思い出した経験、共感、著者への反発などなんでも口に出してみる。

 コツは「知識」や「正しい読み方」にはこだわらないことだ。本の内容を学ぶのではなく、本に書かれたことを材料にして、自分の考えていることを言葉にしていくことを中心にしていくと面白い。特にフェミニズムについて議論するときは、いつも自分の経験を付き合わせて、「私のフェミニズム」を語ることが大事なので、他人に対して心開いていくレッスンだとも思う。

 難しいのは一緒にやる人を見つけることだと思う。3人*9いればできるので、近所の友だちがいれば声をかけてみてスタートできる。私はオンラインの読書会の経験はないが、スカイプでもできるようだ。ただ、私は読書会という目的を持って、定期的に「同じ空間を共有する」という経験も大きかった。今も新しい読書会を立ち上げるときは、近くに住んでいる知り合いに声をかけて数回やってみて、楽しければ続ける、というようなゆるいやり方をしている。(基本的にはネット上は情報を非公開にしている。)

(3)社会活動に関わること

 もっと具体的なフェミニズムの社会活動に参加をするという方法もある。これまで活動経験がない場合、たとえば「傍聴支援」に行くことができる。「傍聴支援」は、裁判所まで行って傍聴席に座るだけなので、知識やスキルがなくても参加しやすい。「この裁判は社会的に注目されているぞ」「いい加減な判決を出すことは許さないぞ」というプレッシャーを裁判所にかけるのである。性差別や性暴力の傍聴支援を呼びかけている弁護団があれば、指定の集合場所に行くとどうすればいいのか教えてもらえる。裁判は少しずつ進むので、書面のやりとりなどの回であれば10分程度で終わる。終わった後には、弁護団から今日はどういう進展があり、これからどうなっていくのかについての解説をしてもらえる。大変地味な支援だが、とても大切な仕事なので、関心のある裁判があればチェックしておくといいと思う。

 ほかには、自分の関心のあるトピックについて活動している団体の「支援会員」になるということもできる。フェミニズムの活動団体は、たいていレター(機関紙)を出しており、会員になると郵送してもらえるところが多い。有名どころは「日本女性学研究会」だろう。以前、私が会員だった頃は、定期的にレターが送られてきて、イベントのお知らせや投稿コーナーがあったと記憶している。関西を中心に講演会などの企画もしているので、アクセスがよければ情報は得やすいと思う。

 私はDVや性暴力、児童虐待などに関心があるので、優先的にこうした団体の支援会員位なっている。性暴力被害者の支援団体の探し方については10年前に記事を書いたことがある。古い情報だが、今も状況はあまり変わらないので、参考になるかもしれない。

font-da.hatenablog.jp

 以上のように、三つの大学に行かずにフェミニズムを学ぶ方法を紹介した。どの方法も何かの形で、フェミニズムフェミニストと出会うことに重きを置いている。フェミニズムを学ぶとは、知識や理論を身に付けることではないと私は思っている。これまでフェミニズムを支えてきた先人たちの歴史に触れ、これからのフェミニズムを担っていく仲間と出会っていくなかで、「私のフェミニズム」を形作ることが、フェミニズムを学ぶことだろう。

 そして、ここまで書いてきたが、私は「フェミニストになる必要はない」とも思っている。私自身、フェミニストになることは楽しいことだけではなかったし、つらいこと、苦い経験もたくさんあった。この社会でフェミニストになることは、得することではなく損することだろう。わざわざその道を選ぶ必要はない。

 フェミニズムの読書会に参加したある人が、過去に仲間を亡くしてきたことを、さらりとメッセージの中に書いてくれたことがある。そのとき私は若かったので、その言葉に動揺し、「いつか仲間を亡くす日も来るのだろうか」と思った。そして、それから私は今に至るまで二人の仲間を喪った。フェミニズムのせいではない。でも、仲間だった。少なくとも私はそう思っていた。

 生きていることが最良だと言うつもりはない。それでも、差別に抵抗しなくて良いし、社会を変えなくてもいいから、とにかく生きることを優先してほしい、とは思っている。

追記(2019/11/4)

 誤字脱字を修正しました。

*1:実はフェミニストの中には「ジェンダー学」派と「女性学」派がいる。詳しく知りたい人は自分で調べてください。

*2:ただ、学生にとっては聞きたくない話であっても、事実として男性から女性に対する差別や暴力の背景にあるジェンダー構造を分析する必要はあるだろう。その結果、男性の暴力性について論じることもあるかもしれない。創造説を信じている学生にも進化論を教える必要はあるだろうし、アウシュヴィッツはなかったという学生にもユダヤ人虐殺について教える必要はあるだろう。もしそれが学生の信念を否定し傷つきの経験になったとしても、それは学問を修める場では避けて通れない道である。

*3:大学院の博士後期課程ではフェミ系のゼミに出ていたが、ジェンダーについての基礎的な知識があることは前提であり、それぞれの研究報告について議論していたので、学部の授業とは雰囲気が違うと思う。

*4:私の専門は「修復的司法/正義」の研究である。ジェンダーの視点は取り入れてはいるが、女性学会にも所属していないし、いわゆるフェミ系の研究者にはカウントされないと思う。

*5:むしろ、私は「フェミニズムそのものではなく、あらゆる学問をジェンダーの視点を取り入れながら教えていく方が良い」と考える立場である。今も「倫理学」の授業でもジェンダーの問題は扱うが、それは「フェミニズム」ではなく性の倫理的問題をジェンダー構造を理解しながら学ぶ場である

*6:もちろん批判はされるし、それに対する応答を迫られることもあるだろう。「否定されないこと」と「批判されないこと」は違う。「私のフェミニズム」は他人から批判されることで変わっていく。そのことによって、より自由で広いフェミニズムの世界が広がっていく。

*7:私も各地の男女共同参画課の企画する講演会でお話しさせてもらうことがある。

*8:本を手に取るにも図書館や本屋もあまりない、ということもある。後述する、グループを作ったり、社会活動に参加したりすることも、圧倒的に都市部の方がやりやすい。本当はジェンダーの問題は常に地域の問題とつながっている

*9:2人でもできるが、3人以上のほうがコミュニケーションが三者関係になってやりやすいとは思う。ちなみに私は誘っても誰もきてくれない「ひとり読書会」を半年くらいやったことがある。読書ははかどったが、ちょっと寂しい。

環境倫理・思想に関する本

 本当なら一冊ずつ紹介したい本だが、とりあえず忘れないように羅列しておく。

いのちへの礼儀 (単行本)

いのちへの礼儀 (単行本)

 
自主講座「 公害原論」の15年 新装版

自主講座「 公害原論」の15年 新装版

 
動物の解放 改訂版

動物の解放 改訂版

 
原発事故後の子ども保養支援

原発事故後の子ども保養支援

 
ルポ 母子避難――消されゆく原発事故被害者 (岩波新書)

ルポ 母子避難――消されゆく原発事故被害者 (岩波新書)

 
原発労働者 (講談社現代新書)

原発労働者 (講談社現代新書)

 

  意外と少なかった。