あけましておめでとうございます。

 昨年*1は、ありがたいことに、自著の初刷が完売*2しました。現在、出版社でも在庫切れになっています。誤記・誤訳の修正*3が終わり次第、増刷していただけることになっております。ご迷惑をおかけしますが、もうしばらくお待ちください。

 

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

  • 作者:小松原織香
  • 出版社/メーカー: 成文堂
  • 発売日: 2017/11/12
  • メディア: 単行本
 

  現在は、主に「環境問題と修復的正義」の研究を進めています。やっと、まとまった論文を書くことができました。自分なりの修復的正義の探究の方向性を明確にできましたので、本格的な研究のスタートラインに立てたように思います。

〈被害者の情念〉から〈被害者の表現〉へ 水俣病「一株運動」(1970 年)における被害者・加害者対話を検討する

http://www.philosophyoflife.org/jp/seimei201904.pdf

 今後は、「環境問題と修復的正義」の理論研究と実践研究の二本柱で進めていく予定です。海外での研究や英語での成果報告も増やしていきたいと思っています。

 また、京都大学のLaÿna Drozさんと、アジア環境哲学ネットワーク(Network of Asian Environmental Philosophy)を立ち上げて活動しています。

Network of Asian Environmental Philosophy

asiaenviphilo.com

 これまで、日本のアカデミズムの中で「居場所がない」という悩みを抱えていたのですが、思い切って海外に飛び出してみると、似たようなことを研究している人はたくさんいました。「一緒に仕事をしよう」と声をかけられることもあります。私は中学生の時から英語が苦手ですので、英語で仕事をするのはつらいところもあるのですが、フィットする場所がある限りは、これからも英語を勉強して国際交流・発信に尽力したいと思っています。

 それに加えて、私の研究の大きな転換としては、アートやアニミズムの問題に言及し始めたことです。こちらは、英語での成果報告がこれまでメインでしたが、もう少し日本語でも書いていこうと思っています。エコロジー思想の再評価や、石牟礼道子を中心とした文学作品の検討を通して、スピリチュアリティの問題に足を踏み入れています。もともと、私は学部時代は美学及び芸術学専攻で、アートと政治の問題を研究するつもりだったので、原点に帰ってきたと言ってもいいかもしれません。他方、こうした問題についての報告は、国際学会でも関心をもたれやすくなっていますので、「潮目」のようなものが来ているようにも思います。

 また、偶然ですが、これまではてなでよく記事を読んでいた、名取宏さんが「偶然性の問題*4」に言及し、熊代享さんが「スピリチュアルな問題」に言及していました。文脈はそれぞれ違いますし、私がこの問題に付き合ったのも、ライフヒストリーと絡み合っているので、個人的な問題でもあります。それでも、これはひとつの時代の気分でもあるかしれないとは思っています*5

名取宏「何も悪いことをしていなくても人々は病気になる」

何も悪いことをしていなくても人々は病気になる - NATROMのブログ

 

熊代享「拝むものが無くて合理性を拝む迷える子羊」 

拝むものが無くて合理性を拝む迷える子羊 - シロクマの屑籠

 

*1:昨年は祖母が亡くなり、喪中でしたので、新年のご挨拶は控えていました

*2:類書では例のないほどの売れ行きだそうで、感謝の気持ちでいっぱいです。

*3:やってもやっても、終わりません。初刷をご購入いただいたみなさまには、本当に申し訳ない気持ちでいます。正誤表をネット上でアップするつもりです。

*4:「医療行為が確率論でしかない」と宣言することは、偶然性の問題に足を踏み入れることになります。それは、私たちはなんらかの選択をするときに確実性を失い、偶然に「賭ける」ことになるということです。神様を信じている人であれば、「神の采配」に身を委ねることになりますが、無信心者は自己の決定に全ての責任を引き受けることになります。重大な決定(たとえば命に直結する治療をするかどうか)を前にして、神なき時代を生きる人々がどう耐えうるのかという問題が出てきます。「偶然性」はポストモダン思想でよく論じられた課題です。私はこれまでの名取さんの記事を読んだ印象からは、こっちの方向に言及することは意外だったし、びっくりしました。

*5:何の確証もない、単なる私の年末年始の感想です

あけましておめでとうございます。

 昨年*1は、ありがたいことに、自著の初刷が完売*2しました。現在、出版社でも在庫切れになっています。誤記・誤訳の修正*3が終わり次第、増刷していただけることになっております。ご迷惑をおかけしますが、もうしばらくお待ちください。

 

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

  • 作者:小松原織香
  • 出版社/メーカー: 成文堂
  • 発売日: 2017/11/12
  • メディア: 単行本
 

  現在は、主に「環境問題と修復的正義」の研究を進めています。やっと、まとまった論文を書くことができました。自分なりの修復的正義の探究の方向性を明確にできましたので、本格的な研究のスタートラインに立てたように思います。

〈被害者の情念〉から〈被害者の表現〉へ 水俣病「一株運動」(1970 年)における被害者・加害者対話を検討する

http://www.philosophyoflife.org/jp/seimei201904.pdf

 今後は、「環境問題と修復的正義」の理論研究と実践研究の二本柱で進めていく予定です。海外での研究や英語での成果報告も増やしていきたいと思っています。

 また、京都大学のLaÿna Drozさんと、アジア環境哲学ネットワーク(Network of Asian Environmental Philosophy)を立ち上げて活動しています。

Network of Asian Environmental Philosophy

asiaenviphilo.com

 これまで、日本のアカデミズムの中で「居場所がない」という悩みを抱えていたのですが、思い切って海外に飛び出してみると、似たようなことを研究している人はたくさんいました。「一緒に仕事をしよう」と声をかけられることもあります。私は中学生の時から英語が苦手ですので、英語で仕事をするのはつらいところもあるのですが、フィットする場所がある限りは、これからも英語を勉強して国際交流・発信に尽力したいと思っています。

 それに加えて、私の研究の大きな転換としては、アートやアニミズムの問題に言及し始めたことです。こちらは、英語での成果報告がこれまでメインでしたが、もう少し日本語でも書いていこうと思っています。エコロジー思想の再評価や、石牟礼道子を中心とした文学作品の検討を通して、スピリチュアリティの問題に足を踏み入れています。もともと、私は学部時代は美学及び芸術学専攻で、アートと政治の問題を研究するつもりだったので、原点に帰ってきたと言ってもいいかもしれません。他方、こうした問題についての報告は、国際学会でも関心をもたれやすくなっていますので、「潮目」のようなものが来ているようにも思います。

 また、偶然ですが、これまではてなでよく記事を読んでいた、名取宏さんが「偶然性の問題*4」に言及し、熊代享さんが「スピリチュアルな問題」に言及していました。文脈はそれぞれ違いますし、私がこの問題に付き合ったのも、ライフヒストリーと絡み合っているので、個人的な問題でもあります。それでも、これはひとつの時代の気分でもあるかしれないとは思っています(これは単なる私の年末年始の感想です)。

名取宏「何も悪いことをしていなくても人々は病気になる」

何も悪いことをしていなくても人々は病気になる - NATROMのブログ

 

熊代享「拝むものが無くて合理性を拝む迷える子羊」 

拝むものが無くて合理性を拝む迷える子羊 - シロクマの屑籠

 

*1:昨年は祖母が亡くなり、喪中でしたので、新年のご挨拶は控えていました

*2:類書では例のないほどの売れ行きだそうで、感謝の気持ちでいっぱいです。

*3:やってもやっても、終わりません。初刷をご購入いただいたみなさまには、本当に申し訳ない気持ちでいます。正誤表をネット上でアップするつもりです。

*4:「医療行為が確率論でしかない」と宣言することは、偶然性の問題に足を踏み入れることになります。それは、私たちはなんらかの選択をするときに確実性を失い、偶然に「賭ける」ことになるということです。神様を信じている人であれば、「神の采配」に身を委ねることになりますが、無信心者は自己の決定に全ての責任を引き受けることになります。重大な決定(たとえば命に直結する治療をするかどうか)を前にして、神なき時代を生きる人々がどう耐えうるのかという問題が出てきます。「偶然性」はポストモダン思想でよく論じられた課題です。なので、私は名取さんがこっちの方向に言及することは意外だったし、びっくりしました。

大学に行かずにフェミニズムを学ぶ方法

 すっかりインターネットでもフェミニズムがお馴染みになり、「いったいフェミニズムとはなんなのか?」「どうやって勉強すればいいのか?」と聞かれることが増えた。「フェミニストがちゃんと説明しろ」という声もある。そんななかで、大学でジェンダー*1に触れたが、絶望したという経験を書いている人がいる。

八谷リナ「ジェンダーヤクザがジェンダー学に絶望した話」

https://note.mu/rina_hachiya/n/n8ae145f01de5

 

 

 八谷さんは女子大に進学し、ジェンダー学の授業を履修したが、以下のような経験をしたという。

先生は異常な厳しさで私たちを制圧した。誰も意見できなかった。そして「今までのあなたたちの価値観は間違っている」と男女観をぶち壊しにかかった。授業内容は安定の「男は加害者・女は被害者」というものだった。

 そして次のような心境に至った。

私はどんどんミサンドリーに苦しめられた。なんの理由もなく男性嫌いになり、憎しみに二十四時間つきまとわれた。楽しいこともあったけど、常に心に憎悪があった。精神状態は良くなかった。

 以上のように八谷さんはジェンダー学の授業に傷つき、ジェンダー学を恨んでいると言う。これは大変つらい経験だと思う。私は、本来ならばジェンダーについて学ぶことは、新しい性のあり方や価値観に出会い、もっと広い生き方の可能性に気づくことにつながると考えている。ジェンダーに関する授業は、自分の中の「性に関すること」を見つめる時間であって欲しい。だけれど、八谷さんにとってのジェンダー学の授業は逆の、性について苦しみ、生きることがつらくなってしまう経験になっている。

 八谷さんの授業で、具体的に何があったのかは書かれていないので、なぜこんなことが起きたのか私にはわからない*2。また、私は大学の学部*3ジェンダー学の授業を受けたことも、担当したこともない。そういうわけで、私は大学のジェンダー学については、実体験に欠けるところがあるし、そもそもジェンダー学が専門でもない*4

 同時に、私も大学で教壇に立つことがあるが、授業で「フェミニズムを学ぶ」ことは非常に困難だということを強く感じる。第一に、教員と学生の間には権力関係があり、「平場で学ぶ(対等な関係を志向する)」ようなフェミニズムの実践はほぼ不可能であることだ。どんなに配慮をしようとも、「教えるー教えられる」関係である限り、フェミニズムの生き生きとした力は立ち上がってこないと、私は思う。第二に、八谷さんの場合もそうだったように、学生はジェンダーについて学ぶことを強要されることだ。これは仕方のないことでもある。社会の中にあるジェンダー構造について学ぶことは、今後の大学生の教養教育で(世界中で)必須とされていくだろう。しかしながら、フェミニズムを支える性の問題に取り組む情熱は、他人から強要された授業では出てくることが難しい。もちろん、今後もこの二点の問題はありながらも、「どうすればジェンダーの授業を魅力的に活力あるものにできるのか」ということを、大学教員は知恵を絞って考えていくことだろう。それでも、私は大学で「フェミニズムを学ぶ」ことはとても難しいという気持ちは今もある*5

 他方、私は大学ではない場所でジェンダーについて学び始め、フェミニストになった。そこで、「大学に行かずにフェミニズムを学ぶ方法」を紹介しようと思う。

 まず初めに「正しいフェミニズムの学び方」はない。「この本を読めばフェミニズムがわかる」「あの先生の授業を聞けばフェミニズムがわかる」ということはない。また、「あなたは正統なフェミニズムを知らない」というのもナンセンスだ。フェミニズム一人一派と呼ばれ、それぞれが「私のフェミニズム」を語ることで成り立っている。それがどんなに間違っていると他人に言われても、「私のフェミニズム」は誰にも否定されるものではない*6。それが大前提だということはおさえておきたい。

 その上で今回は(1)「本を読むこと/話を聞くこと」(2)「グループを作ること」(3)「社会活動に関わること」の三つの方法を紹介したい。

(1)本を読むこと/話を聞くこと

 一番手軽で簡単なのは、フェミニズムの本を読むことである。近所に図書館や本屋さんがあれば、そこで「ジェンダー」「女性」などの棚を眺めてみよう。役所に男女共同参画かがあれば、そこの資料室を覗いてみてもよい。背表紙のタイトルを見て気になったものがあれば手に取ってみて、パラパラと読んでみよう。面白そうだったら、その本を読んでみる。興味がなければすぐに棚に返して別の本を見よう。フェミニズムにはいろんな論者がいるから、合う/合わないは必ずある。気が合いそうな作者がいれば、とりあえず読んでいくのがいい。

 私が若い時にフェミニズムの世界に入っていくきっかけになったのは、北原みのりの『フェミの嫌われ方』だ。

フェミの嫌われ方

フェミの嫌われ方

 

  今でこそ、私は「フェミニストなんて嫌われてナンボ」と思っているが、20歳前後の私は「フェミニストになってしまったら、周囲に嫌われるんじゃないか」というのが大変不安だった。(今よりずっとフェミニズムの勢いは弱く、大学にはジェンダーの授業もなく、どこにいけばフェミニストに出会えるのかも知らなかった)他方、私はもう女性として生きていくのに息も絶え絶えで、先のことは全く見えず、自分の不甲斐なさを責めてばかりいた。なので、「嫌われてもいいからフェミニストになるなんて、どんな心境なんだろうか? なんでこの人はフェミニストになったんだろう?」と思って北原さんの本を手に取ったのである。

 当時の私と同じように「なぜ私は、こんなにも女性であることが苦しいのだろうか?」という疑問を持つ人は、今もいるだろう。最近出た本ではこのあたりが良いかもしれない。

ぼそぼそ声のフェミニズム

ぼそぼそ声のフェミニズム

 
ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか

ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか

 

  もうすぐ発売のこの本も良さそうだと思う。

エトセトラ VOL.2

エトセトラ VOL.2

 

  そして、私をフェミニズムへと引き摺り込んだのは田中美津『いのちの女たち』である。これは1970年代に活躍した「ウーマンリブ」の活動家である田中のエッセイだ。このブログでも何度も取り上げてきたし、私のフェミニズムの原点にある本だ。

いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論

いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論

 

  ジェンダーの問題でみっともなく取り乱し、冷静でいられず、感情に振り回されてうまく語れず、男性とぶつかって自滅していく自分の姿を、若い頃の私はずっと恥じていた。そういう自分のことをまさに「女」だと思っていた。そして、この本を読むことを通して、私は「女であること」を正面から肯定することができた。そこから私のフェミニズムは始まった。自己を解放し、「男が決めた価値」に合わせることをやめて、自分自身がよいと思う方向へ歩み出そうとした。もちろん、そこからそんな簡単に話はうまく行かないのだが、「このときの私は本当に勇気があったし、頑張ったなあ」と、20年近く経って今の私は思う。

 さて、ここまで来て「男性は何を読めばいいのか」という問題がある。実は田中美津の『いのちの女たち』を私が知ったのは、森岡正博『生命学に何ができるか』の中で紹介されていたのがきっかけである。

生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想

生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想

 

  この本の中で、田中美津の思想はコンパクトにまとめられており、非常に理解しやすくなっている。もしかすると、私が上で書いているような、「女性の強烈な感情」を理解しづらいと思う人も、この本を読めば入っていきやすいかもしれない。

 ところが、森岡さんは一通りリブの思想を解説した上で、自分の行為について次のような疑念を抱く。

  女たちが痛みと呻きの中で蓄積してきたいのちの叫びを、外からさっとやってきてその一番おいしいところだけをかっさらって、自分の学問的業績の一部に都合よく利用しようという、男たちがいままで繰り返してきた詐欺行為と同じではないか。そういう整理をすることで、男の生き方が変わるわけでもなく、もちろん女の生き難さが改善されるわけでもなく、ただ男の学者の地位が上がり、女の叫びがそのために体よく利用されただけに終わるのではないか。男からのこういう接近に一瞬でも希望の光を見て、そのあげくに深い傷を負った女たちは、もう二度とこのような接触には乗るまいと思うだろう。

 私はそれと同じことを、フェミニズム研究という名のもとに、ここでもう一度繰り返そうとしているだけなのではないだろうか。

(232-233頁)

 以上のように、森岡さんは男性が「フェミニズムを理解しやすいものにする」こと自体もまた、女性の搾取になる可能性を指摘する。つまり、自分がやっていることはやはりフェミニズムに反するものではないかと疑うのである。それでも、森岡さんは居直らずにフェミニズム研究を続けていきたいと、一度この文章を結ぶ。

 ところが次の段落では、上の引用箇所は六年前に書いたものであることが明かされる。森岡さんは、六年後の自分がそれを読み返すと偽善にほかならないと思うし、自己嫌悪でいっぱいになると書いている。上の引用箇所は、非常に男性の非常に誠実なフェミニズムへの向き合い方のように読めるが、「実は嘘だった」と筆者自ら告白するのである。地獄のような本である。

 私はこういう思考の過程を男性がどう思うかわからない。もしかするとフェミニズムに関心のある男性にとっては入り口として良い本なのかもしれない。

 ここまで本を中心に紹介してきたが、「読書が苦手な人」もいるかもしれない。その場合は「話を聞く」というのも一つの手だ。お近くの男女共同参画課に行けば、イベント情報が出ているだろう。そこにフェミニストジェンダーに関する研究をしている人の講演会があるかもしれない*7。ただし、こればかりは地域差があって不公平な話になってしまう。ここは申しわけない*8

(2)グループを作ること

 私は本を読んでいる時点では、フェミニズムには関心はあったが「フェミニスト」と名乗ったことはなかった。なぜなら「何をすればフェミニストになれるのか?」がわからなかったからだ。結論から言えば、自分がフェミニストだと思えば、フェミニストではある。しかし、私にとっては「誰かと何かをやってみること」がフェミニストと名乗るきっかけになった。

 私がやっていたのは、小さなフェミニズムの読書会だ。3人から5人程度で1ヶ月に1回集まっていた。多い時でも10人来たことはないと思う。

 読書会はたいていこんなふうに行う。

(1)世話人を決める(メールなどで次回のお知らせを送る)

(2)「読む本」と「読む範囲」を決める。(1冊読んでもいいし、数ページでもいい)

(3)各自で家で決められた範囲を読む

(4)集まってみんなで感想を言い合う

 

 私が読書会で読んで印象に残ったのはカリフィアの本。

パブリック・セックス―挑発するラディカルな性

パブリック・セックス―挑発するラディカルな性

 
セックス・チェンジズ―トランスジェンダーの政治学

セックス・チェンジズ―トランスジェンダーの政治学

 

 カリフィアはポルノやSM、トランスジェンダーなど、ヘテロのシス女性のフェミニストが苦手とするテーマに切り込んでくるので、私にとってとても挑戦的な議論になった。当時の仲間とこれらの本について議論することでフェミニストとしてずいぶんと鍛えられたと思う。参加者はシス女性だけではなく、男性やトランスなどミックスでやっていた。

 私がフェミニズム読書会に参加していたのは10年以上前になる。今も別のテーマの読書会は月に1−2度やっている。読書会が良いのはあまり準備がいらないことである。本を読む時には、自分の気に入った箇所に線を引いたり、付箋をつけたり、疑問を書き込んでおいたりすると良い。そして集まったときには、本を読んでいて思い出した経験、共感、著者への反発などなんでも口に出してみる。

 コツは「知識」や「正しい読み方」にはこだわらないことだ。本の内容を学ぶのではなく、本に書かれたことを材料にして、自分の考えていることを言葉にしていくことを中心にしていくと面白い。特にフェミニズムについて議論するときは、いつも自分の経験を付き合わせて、「私のフェミニズム」を語ることが大事なので、他人に対して心開いていくレッスンだとも思う。

 難しいのは一緒にやる人を見つけることだと思う。3人*9いればできるので、近所の友だちがいれば声をかけてみてスタートできる。私はオンラインの読書会の経験はないが、スカイプでもできるようだ。ただ、私は読書会という目的を持って、定期的に「同じ空間を共有する」という経験も大きかった。今も新しい読書会を立ち上げるときは、近くに住んでいる知り合いに声をかけて数回やってみて、楽しければ続ける、というようなゆるいやり方をしている。(基本的にはネット上は情報を非公開にしている。)

(3)社会活動に関わること

 もっと具体的なフェミニズムの社会活動に参加をするという方法もある。これまで活動経験がない場合、たとえば「傍聴支援」に行くことができる。「傍聴支援」は、裁判所まで行って傍聴席に座るだけなので、知識やスキルがなくても参加しやすい。「この裁判は社会的に注目されているぞ」「いい加減な判決を出すことは許さないぞ」というプレッシャーを裁判所にかけるのである。性差別や性暴力の傍聴支援を呼びかけている弁護団があれば、指定の集合場所に行くとどうすればいいのか教えてもらえる。裁判は少しずつ進むので、書面のやりとりなどの回であれば10分程度で終わる。終わった後には、弁護団から今日はどういう進展があり、これからどうなっていくのかについての解説をしてもらえる。大変地味な支援だが、とても大切な仕事なので、関心のある裁判があればチェックしておくといいと思う。

 ほかには、自分の関心のあるトピックについて活動している団体の「支援会員」になるということもできる。フェミニズムの活動団体は、たいていレター(機関紙)を出しており、会員になると郵送してもらえるところが多い。有名どころは「日本女性学研究会」だろう。以前、私が会員だった頃は、定期的にレターが送られてきて、イベントのお知らせや投稿コーナーがあったと記憶している。関西を中心に講演会などの企画もしているので、アクセスがよければ情報は得やすいと思う。

 私はDVや性暴力、児童虐待などに関心があるので、優先的にこうした団体の支援会員位なっている。性暴力被害者の支援団体の探し方については10年前に記事を書いたことがある。古い情報だが、今も状況はあまり変わらないので、参考になるかもしれない。

font-da.hatenablog.jp

 以上のように、三つの大学に行かずにフェミニズムを学ぶ方法を紹介した。どの方法も何かの形で、フェミニズムフェミニストと出会うことに重きを置いている。フェミニズムを学ぶとは、知識や理論を身に付けることではないと私は思っている。これまでフェミニズムを支えてきた先人たちの歴史に触れ、これからのフェミニズムを担っていく仲間と出会っていくなかで、「私のフェミニズム」を形作ることが、フェミニズムを学ぶことだろう。

 そして、ここまで書いてきたが、私は「フェミニストになる必要はない」とも思っている。私自身、フェミニストになることは楽しいことだけではなかったし、つらいこと、苦い経験もたくさんあった。この社会でフェミニストになることは、得することではなく損することだろう。わざわざその道を選ぶ必要はない。

 フェミニズムの読書会に参加したある人が、過去に仲間を亡くしてきたことを、さらりとメッセージの中に書いてくれたことがある。そのとき私は若かったので、その言葉に動揺し、「いつか仲間を亡くす日も来るのだろうか」と思った。そして、それから私は今に至るまで二人の仲間を喪った。フェミニズムのせいではない。でも、仲間だった。少なくとも私はそう思っていた。

 生きていることが最良だと言うつもりはない。それでも、差別に抵抗しなくて良いし、社会を変えなくてもいいから、とにかく生きることを優先してほしい、とは思っている。

追記(2019/11/4)

 誤字脱字を修正しました。

*1:実はフェミニストの中には「ジェンダー学」派と「女性学」派がいる。詳しく知りたい人は自分で調べてください。

*2:ただ、学生にとっては聞きたくない話であっても、事実として男性から女性に対する差別や暴力の背景にあるジェンダー構造を分析する必要はあるだろう。その結果、男性の暴力性について論じることもあるかもしれない。創造説を信じている学生にも進化論を教える必要はあるだろうし、アウシュヴィッツはなかったという学生にもユダヤ人虐殺について教える必要はあるだろう。もしそれが学生の信念を否定し傷つきの経験になったとしても、それは学問を修める場では避けて通れない道である。

*3:大学院の博士後期課程ではフェミ系のゼミに出ていたが、ジェンダーについての基礎的な知識があることは前提であり、それぞれの研究報告について議論していたので、学部の授業とは雰囲気が違うと思う。

*4:私の専門は「修復的司法/正義」の研究である。ジェンダーの視点は取り入れてはいるが、女性学会にも所属していないし、いわゆるフェミ系の研究者にはカウントされないと思う。

*5:むしろ、私は「フェミニズムそのものではなく、あらゆる学問をジェンダーの視点を取り入れながら教えていく方が良い」と考える立場である。今も「倫理学」の授業でもジェンダーの問題は扱うが、それは「フェミニズム」ではなく性の倫理的問題をジェンダー構造を理解しながら学ぶ場である

*6:もちろん批判はされるし、それに対する応答を迫られることもあるだろう。「否定されないこと」と「批判されないこと」は違う。「私のフェミニズム」は他人から批判されることで変わっていく。そのことによって、より自由で広いフェミニズムの世界が広がっていく。

*7:私も各地の男女共同参画課の企画する講演会でお話しさせてもらうことがある。

*8:本を手に取るにも図書館や本屋もあまりない、ということもある。後述する、グループを作ったり、社会活動に参加したりすることも、圧倒的に都市部の方がやりやすい。本当はジェンダーの問題は常に地域の問題とつながっている

*9:2人でもできるが、3人以上のほうがコミュニケーションが三者関係になってやりやすいとは思う。ちなみに私は誘っても誰もきてくれない「ひとり読書会」を半年くらいやったことがある。読書ははかどったが、ちょっと寂しい。

環境倫理・思想に関する本

 本当なら一冊ずつ紹介したい本だが、とりあえず忘れないように羅列しておく。

いのちへの礼儀 (単行本)

いのちへの礼儀 (単行本)

 
自主講座「 公害原論」の15年 新装版

自主講座「 公害原論」の15年 新装版

 
動物の解放 改訂版

動物の解放 改訂版

 
原発事故後の子ども保養支援

原発事故後の子ども保養支援

 
ルポ 母子避難――消されゆく原発事故被害者 (岩波新書)

ルポ 母子避難――消されゆく原発事故被害者 (岩波新書)

 
原発労働者 (講談社現代新書)

原発労働者 (講談社現代新書)

 

  意外と少なかった。

 

 

 

パロディ問題について

【この記事の末尾に重要な追記があります。そこまで併せてお読みください(2019/7/17)】【さらに末尾に追記をしました(2019/8/4)】

 

 少女漫画雑誌「花とゆめ」14号に掲載された、ある読み切り作品について議論が起きている。この作品は、新人漫画家A氏が編集者B氏の指示により、有名少女漫画家C氏の絵柄に似せて描かれている*1。さらに、この漫画の内容は、ステロタイプ化された少女漫画のパロディになっている。この作品の発表後、「花とゆめ」の編集部には多数の抗議が寄せられた。また、漫画家C氏から、この作品について連絡等はなかったことを示唆する発言がSNS上であった。その結果、「花とゆめ」編集部は漫画家C氏と読者に向けて謝罪を表明した*2

 この問題について、漫画評論ブログ「漫棚通信」で以下のような言及があった。

「誰が誰にあやまるのか:花とゆめ2019年14号」

http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2019/07/post-6af73f.html

 

 「漫棚通信」では、今回問題になった読み切り作品は、少女漫画のパロディであることを指摘している。そして、パロディは重要な表現形式であり、漫画家C氏も寛容になるべきだという旨の発言*3をした上で、以下のように述べる。

現代日本、パロディはきわめて生きにくい時代となっています。いわゆるパクリと混同されることも多い。原著者に対して仁義を切らないと、パロディは存在することも困難です。田中圭一が原著者からどこまで許可を得ているかは知りませんが、本来のパロディは原著者に連絡など不要なのです。

 わたしの世代はパロディを崇高な権利として理解していました。本来パロディは原著および原著者に対する批判であり風刺であり、さらにはそれとは無関係のナンセンスな自己表現、のはずでした。これをわたしたちは筒井康隆長谷邦夫から学んだのです。パロディに対して著作権を行使して反対する行為。これを施行する原著者は、ケツの穴の小さいやつ、と思われていました。わたしは現在もそう思っています。

 以上のように、「漫棚通信」では、パロディの表現の重要性が述べられている。

 それでは、この記事に対して、私の見解を書いておきたい*4。私はある表現を分析する場合に気をつけるのは(1)表現意図(2)掲載媒体(3)表現内容の三つである。

 第一に、表現意図についてだが、「漫棚通信」の記事と同様に、私もこれは少女漫画のパロディとして創作されたと考えている。パロディは古代から続く表現のバリエーションの一つであるのは言うまでもない。「女たちの平和」で有名なギリシャ喜劇の作家・アリストファネスもパロディを取り入れている。また風刺画は政治の権力者に対する鋭い批判として作用する。パロディは権力や保守的な価値観を揶揄や皮肉によって、笑いの対象にすることで批判をする力を持っている。

 それでは、今回問題になった読み切り作品は、何を笑いの対象にしたのだろうか。「漫棚通信」によれば、既存のステロタイプ化された少女漫画である。繰り返し、少女漫画で描かれる図像や展開のパターンをなぞりながら、その表現をずらしたり変形させることで面白おかしく描き出す。こうした表現自体は禁止されるべきではないし、不当ではない。それに対しては私は賛同する。では、何が問題であったのか。

 私が問題にしているのは第二の掲載媒体である。少女漫画のパロディを、少女漫画雑誌に掲載するということは、その読者に対しての批判になる。これが私が今回、「花とゆめ」編集部に違和感を抱く理由である。「花とゆめ」は商業雑誌であり、読者が欲しい作品を提供するはずだ。時には挑戦的な作品によって、編集部から読者に新しい表現をぶつけることもあるだろう。だが、自分たちが大事にしている少女漫画の表現をずらしたり変形させたりしたものを見せられ、揶揄を用いて笑いの対象にされ、批判されれば、そんなことを期待していない読者が怒るのは当然のことだろう。クリームパンと書いてある商品にカレーパンが入っていれば怒るのである。

 たとえば、ある政治権力者の風刺画を発表するのは、官報ではない。体制に対して批判的な新聞である。権力者を批判したい人たちが買う媒体に、批判的な風刺画を掲載するのは合理的である。また、同人誌によるパロディについてどう思うのかと私に聞いてくる人もいたが、「花とゆめ」は同人誌ではない。少年漫画雑誌「サンデー」にスラムダンクの二次創作(パロディ)が掲載されることはない*5。なぜなら、同人誌ではないからだ。通常、編集部は自分たちの発行物の購買層を想定し、そこに受け入られる範囲の内容の作品を掲載するはずである。

 そうであれば、「花とゆめ」編集部は、自分たちの雑誌の購買層は、掲載された読み切りを受け入れると予測していたのだろうか。この作品について、少女漫画の「自虐だ」という人もいた。だが、自虐ネタというのは本人が望んで、自らの行為を笑いに変えていくから力を持つ。今回の作品を描いたA氏は、C氏の絵柄を利用してパロディ作品を描いており、他人をネタにして笑いをとっている。本当に自虐ネタだというのであれば、A氏は少女漫画家として地位を確立し、自らの作品をパロディの対象にすべきだろう。この読み切り作品は自虐ではない。

 加えて、なぜ少女漫画を読む人は自虐ネタで笑いを取らなければならないのだろうか。C氏の作品を子どもの頃から読み、ともに成長してきた読者もいるはずだ。なぜ、それを笑いの対象にしなければならないだろうか。そうしたい人はすれば良い。そうでない人に、他人が求めることではない。自虐ネタなどにせず、心の中でそっと守っておく人もいるだろう*6。C氏のファンが「花とゆめ」編集部に抗議したのはもっともなことだろう。

 なぜ、「花とゆめ」編集部はこのような反応が予想できなかったのだろうか。私は二つの推測をしている。一つ目はミソジニーにより「女性読者は抗議などしない(または相手にしなくて良い)と思い込んでいた」という可能性。二つ目は「編集部内でこの漫画はウケてしまい客観的な判断ができなかった」という可能性である。特に後者については、いわゆる身内ネタでは「メタな笑い」はウケる。その身内ウケをそのまま商業出版物にまで発展させてしまったのではないか。ただ、この二点は全くの憶測であるので、全く違う事情があるかもしれない。なんにせよ、私はこのように少女漫画雑誌に少女漫画のパロディが掲載されたことは不可解であるし、どういう理由があるのか知りたいところである。

 第三に表現の内容についてだが、私は当該の読み切り作品の掲載された号を入手できなかった。そのため詳しく立ちいることができない。だが、「漫棚通信」の中で記述されているのを読み限り、この読み切り作品ではC氏の絵柄に似せられたキャラクターが「「BEM=BUG-EYED MONSTER」たる巨大眼少女」として登場すると書かれている。「漫棚通信」ではC氏の絵柄を「バランスを失するほど眼が大きい少女の絵」と評している。だが、C氏自身は、眼を大きくしたのは子どもの認知能力でも表情を読み取りやすくするためだったと語っている*7。C氏が子どもに対する配慮として大きく眼を描いているの絵柄を選んでいるのに対し、A氏がその絵柄の特徴を掴む時にモンスターと名付けている。両者の漫画に対する姿勢を比較すると、A氏の絵柄の捉え方は非常に浅薄であると言えるだろう。

 当然ではあるが、パロディが力を持つのは、鋭い批判精神が作品に凝縮されている場合に限られる。それに足りる作品だったとは、上の絵柄に関する話では判断できなかった。つまり、A氏の読み切り作品はあまり面白くないから笑えないし、批判されたのはないか。

 極めて優れた作品は、辛辣な揶揄や皮肉を含んでいても、読者を笑わせてしまうエネルギーを持っている。その稀有な作品として、岡田あ〜みんの「ルナティック雑技団」を挙げておきたい。この作品に登場する天湖森夜(てんこもりや*8)は少女漫画に出てくる王子様のようなイケメンの学生で、大人しくていかにも可愛い主人公の女の子と出会う。そこから凄まじい勢いでギャグが展開されていく。この作品が掲載されたのは少女漫画雑誌「りぼん」で、ほかは王道中の王道の少女漫画が並んでおり、完全に浮いていた。岡田は少女漫画のパロディを、少女漫画雑誌に掲載していたとも言える。岡田にもアンケートなどで、作品の酷評は届いていたようだが、熱狂的に支持する読者もいた*9

 第一と第二の話をひっくり返すことになってしまうが、面白ければパロディは様々な批判を吹き飛ばす。その力が今回の読み切りには残念ながらなかった、という結論で良いように私は思う。

新装版 ルナティック雑技団 1 (りぼんマスコットコミックス)

新装版 ルナティック雑技団 1 (りぼんマスコットコミックス)

 

 

追記

 いくつかのブコメへ応答しておく。

id:min222 色々書いてあるけど、これ書いてる人は花ゆめに載ってる漫画読んだことなさそうと思った 

 それは誤った推測なので訂正を求める。この記事を検索すれば、「花とゆめ」に掲載されている「ガラスの仮面」の感想が出てくる。私は少女マンガ全般が好きなので、「花とゆめ」に掲載されている作品もいくつも読んでいる。印象に残っているのは「ツーリング・エクスプレス」「僕の地球を守って」「闇の末裔」「フルーツ・バスケット」など。ただし、雑誌ではなく単行本で読んでいるため、雑誌の売り上げに貢献していないことは認める。

id:greenT 少年漫画ではドラゴンボールのパロディを銀魂でやったりとか普通なので、ここに何の問題があるのかわからなかった。面白くないパロディは攻撃されてよいというスタンスならわかるけど普段の氏のスタンスと合ってる?

 自分で検索してみたら11年前にはもっとはっきりと書いていた。今読むと文章が稚拙で目も当てられない記事だが、リンクを載せておく。だいたいいつも同じことを考えているので、特に変わりはない。

「正しいことと、それがどうでもよくなること」

https://font-da.hatenablog.jp/entry/20080331/1206979753

 私はポリティカル・コレクトネスを揶揄する人々のことは批判するが、ポリティカル・コレクトネスでは解決できない問題があることは認める。ざっくりと感覚的に言うと、表現の問題の9割はポリティカル・コレクトネスで解決するが、残りの1割は解決しないと考えている。

 id:solailo ううむ。ある程度なるほど、と思いながら読んだのだけど、font-daさんが読まずに「たぶん面白くなかったんだろう」と結論するのは残念。読めなかったならコメントを控えるか、読んだ上での感想をのべてほしかったな。 

 おそらく、もうこの作品は出版社が公開停止したため、入手できない。入手できるならば、ご自身で読んで私を批判する記事を書けばいいと思う。

id:ht_s ジャンプのギャグ漫画とか読んだことない人? >少女漫画のパロディを、少女漫画雑誌に掲載するということは、その読者に対しての批判になる 

 「すごいよ‼︎ マサルさん」と「ボボボーボ・ボーボボ」は好きだ。

追記2(2019/7/17)

ブクマコメントで id:motidukisigeru さんから次のようなコメントいただきました。

id:motidukisigeru 「ロマンスとバトル」は恋愛を否定するバトル漫画世界に放り込まれた少女が、依存的ヒロインから脱却し、恋愛の力で世界画を改革する話で、少女漫画への批判どころかフェミニスト的な観点からも面白い話である。読め

 この情報をもとにすれば、十分に批評精神を持ったパロディとして作品が成立している可能性があります。もし入手でき、そのことが確認できれば、私のこの論は撤回し、作品の公開を求める立場となります。同じく読んで「作品がパロディとして優れている」と評価する立場の方からの、私への批判は今後もぜひお待ちしています。

(ブクマコメで「アマゾンから買える」ということを知り、衝撃を受けました。とりあえず注文しましたので、届けば私からも追記を書きます)

追記3(2019/8/4)

 上の追記を書いてから、作品を入手して読んだが、作品の評価も記事の内容も変更の必要はないと、私は考えている。面白くない作品*10については、あまり言及しないようにしているので、今後も触れない。

 また、この作品を「面白い」と評する記事が出ているので、以下にリンクしておく。

種村有菜さんと絵柄が酷似」として白泉社が謝罪した、花とゆめの読切作品『ロマンスとバトル』は面白かった

https://topisyu.hatenablog.com/entry/2019/08/04/132900 

 この記事を書いたid:topisyuさんが最後に挙げている「ここは今から倫理です。」も、私は1巻で読むのをやめてしまったので、漫画の好みが私とは違うのだろうと思う。

 そう考えていると、topisyuさんの記事にブックマークコメントでid:anigokaさんがこんな風に書いていた。

さすがトピッシュ先生どっかの偶蹄目と違ってちゃんと読んでる!

 この「偶蹄目」という言葉を何か私が知らなかったので検索すると、ウィキペディアに、生物の分類であると解説されていた。代表的なのは「カバ、イノシシ、ラクダ、キリン、ヤギ、シカ」である。anigokaさんのという「どっかの偶蹄目」とは、ここに入っている「キリン」、すなわち私(=font-da、アイコンはキリン)のことだろう。

 これは上手いメトニミー(換喩)である。換喩というのは、人・ものの特徴的な部分を取り出して、その言葉で人・ものを指すことである。私はキリンではないし、キリンに似てもいないが、「キリン」という単語は私を類推することができる。それをさらに「キリン」の属する「偶蹄目」という言葉に置き換えることで、「知らない人は何のことかわからないが、知っている人はぴんと来る」ような隠語になっている。

 ここで私はどちらかというと揶揄されているわけだが、この「偶蹄目」という表現のせいで笑ってしまった。「偶蹄目」というのは耳慣れない言葉だし、響きも変わっているからだろうか。理由はなんであれ、こうやって対象にしている相手さえ笑わせてしまうのが、表現の力である。別に面白いからといって、揶揄の攻撃性がなくなるわけでもない。が、この話の流れで笑ってしまったので印象に残った。

 

*1:名前を伏せる必要はないと思うが、編集部の意向に沿ってこの記事では仮名としている。

*2:花とゆめ14号よみきり作品に関するお詫び」

https://www.hakusensha.co.jp/information/55225/

*3:漫棚通信」ではC氏に言及した後に「本作の作品構造、さらにマンガと模写の歴史について考えを及ぼせば、本作のキャラクター造形も許してくれるのではないか。」と書いている。これは、パロディだということを理解するならば、原作者はいかなる表現も寛容すべしという、規範のように読める。

*4:私は研究者ではあるが、漫画については専門的な研究方法・論文の作法を身につけているわけでなく、あくまでもエッセイ等を書く立場にある。

*5:今回、抗議をした少女漫画の読者に対し、偏狭だという声もある。だが、少年漫画雑誌「ジャンプ」に女性読者が増えた時、「女(特に腐女子)のせいで少年漫画が面白くなくなった」とネットで声高に言う人はたくさんいた。また、二次創作(パロディ)作品は原作に対する侵害だとして、女性作家を攻撃した人たちもいた。こういうことは棚に上げているのだろうか。

*6:もちろん、これは他者からの批判にさらされることとは違う。「批判するな」と「自虐したくない」は別の話である。

*7:これについては、インタビュー記事で読んだ記憶があるが見つけることができなかった。代わりにC氏のツイッターでの関連する発言を見つけたのでリンクしておく https://twitter.com/arinacchi/status/306718043243966465

*8:これは関西弁の「てんこ盛りや」(=山盛りだ)からとっている

*9:私は大好きで友だちと回し読みしてゲラゲラと笑った

*10:これは批判すべき作品とは違う。

自著への書評・レビューをいただきました。

 このたび、品川哲彦先生より拙著『性暴力と修復的司法』に書評をいただきました。関西倫理学会編『倫理学研究』第49号(2019年)に掲載されております。

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

 

  品川先生はこれまで、『正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理』で修復的司法とケア倫理の関係について言及されています。まさに専門分野の研究者から書評をいただくことになり、大変嬉しく感謝しております。

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

 

  書評においては、私のコミュニティ概念の扱いの問題点を批判されています。この問題について今すぐにアンサーを出すことは難しいのですが、自分の弱みを明確化していただき本当にありがたく思っています。

 現在、私は環境犯罪と修復的正義の研究に取り組んでいますが、そこでも「誰のどのようなコミュニティを想定するのか?」という、コミュニティ概念の問題に突き当たっています。ここで問題となるのは、動物や植物、海や空などの自然総体をコミュニティメンバーとして認めるのかどうか、です。これについては、論文の執筆を重ねて論考を積み重ねているところです。

 性暴力の問題を考えている時には、私の念頭にあったのは人間だけのコミュニティでした。他方、環境犯罪の問題に取り組みはじめ、人間以外(non-human)を含むコミュニティの可能性を検討していくうちに、自分自身が「コミュニティとは何か」をどう考えているのかは明確になっていくように思います。まだ、分析を始めたばかりですが、この書評でご指摘いただいた問題点について、自分なりの応答を出せるよう、研究を積み重ねていきたいと思っています。

 また、アマゾンレビューに拙著について嬉しい評をいただいていますので、以下で転載いたします。

法廷は「劇場」なのだろうと思います。
裁判官や弁護士、検察官、そして被告などの役割を割り当てられた人々が、審議を進めます。
多くの場合、被害者が加害者と真っ当に話す機会は乏しいのが現状でしょう。

でも犯罪被害者の中には、罰則や賠償だけでなく、加害者との「対話」を望む人たちもいます。そんな人たちにとって、既存の司法は時に役に立ちません。

こうした限界をもつ既存の司法とは異なるアプローチで、被害者と加害者に「対話の場」を提供しようとするのが、修復的司法です。

本書では、犯罪の中でもより繊細な対処が必要となる「性犯罪」に対する修復的司法の可能性を追求しています。

かといっていたずらに「対話」の意義を強調するのではなく、全ての性暴力の被害者が修復的司法に参加する必要がないことや、必ずしも「赦す」契機が訪れなくてもよいことにも注意を促しています。

繊細に論理を展開しながら、「対話の可能性」という希望を描き出しておられます。

安易に希望は述べないけれど、かといって悲観的にもならない。そんな著者の考え方がにじみ出ているように思い、好感が持てました。

性暴力への修復的司法の可能性を考察した力作

 このような評をいただくことが、大変励みになります。書いてくださった方、ありがとうございました。

 

 

恋愛・結婚しないのは「権利の行使」なのか?

 シロクマ(id:p_shirokuma)さんの以下のような記事がネット上で話題になっている。

「恋愛も結婚もしなくなった日本は未曾有の先進国」

https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20190624/1561360692

 

  シロクマさんによれば、日本で男女が結婚・恋愛をしなくなったのは、文化的因習がなくなったためである。「結婚・恋愛しなくてはならない」という規範がなくなった結果、人々は資本主義に則って経済的に不利であるから(=コスパが悪いから)、そのような関係を求めなくなったとシロクマさんは分析する。さらに、シロクマさんは、特に東京の人々にはそのような振る舞いが顕著であり、これは日本社会における模範であるとし、次のように述べる。

自分自身が恋愛可能かどうか、ひいては子育て可能かどうかを、模範的な未婚男女はしっかり考える。経済合理性にもとづいてよく考え、可能なら、恋愛や結婚を選択肢のひとつとみなす。もちろん東京のような都市空間では子育ては難しいから、東京の未婚男女はしばしば結婚を諦めるし、ときには恋愛をしようという気持ちすら起こさない。少子高齢化という視点でみればゆゆしき事態だが、経済合理性の透徹という意味では、きわめて洗練された身振りだ。

 以上のように、シロクマさんは東京の人々が恋愛・結婚しないのは、経済合理性に基づく選択であるとみなすのである。他方、シロクマさんは、「欧米*1」の人々はカップル文化やデート文化といった文化的因習があるから、恋愛・結婚をする、いまだ自由のない社会であると分析する。シロクマさんが考えるのに、恋愛・結婚に向けた「出会い」を求めるとは偶然性に満ちたことであり、予測不能なことであるので、経済合理性を妨げる。そのため、シロクマさんは、現代の日本社会における「出会い」は人々にとってノイズであると考える。そして、以下のように結論づけている。

 資本主義や社会契約や個人主義が徹底して、「出会い」というノイズが減っていくのは、少子高齢化という視点でみればおそらく危機だろう。しかし、資本主義・社会契約・個人主義の進展、civilizationという視点でみれば未曾有の達成であり、社会制度や慣習が人間の生殖本能を制圧した記念碑的状況といえるのではないだろうか。
 資本主義や社会契約や個人主義を司る人々は、この現状を嘆くべきではなく、賛美すべきではないかと私は思う。

  以上のように、シロクマさんは「資本主義や社会契約や個人主義」を支持するのであれば、社会は結婚・恋愛をしない方向に進むというのである。これについて、私から以下の三点について指摘しておきたい。

(1) 「恋愛結婚」こそが近代の「個人主義」の産物である

 近代以前の結婚制度は、「財産の相続」と「共同体秩序の安定」のために設けられていた。ところが、近代になると個人の内面に焦点があたり、「親密性」に基づく家族観が醸成されてくる。その結果、「恋愛結婚」が樹立されていくのである。個人の感情や経験に基づいて、自己の選択として結婚する相手を決める権利が付与されていくのである。日本でも憲法24条において「結婚の自由」が認められており、誰と結婚するのかについて、結婚する当事者の意思が最優先されるのである。

 しかしながら、シロクマさんのいうところの、恋愛・結婚の文化的因習が真に作動している社会においては、結婚は当事者の意思ではなく、親族に決定権が与えられる*2。すなわち、文化的因習によって結婚・恋愛しなければならない社会では、「出会い」は重視されない。むしろ、こうした社会でこそ、「出会い」はノイズである。いく世代か前は(そして現代においても)、「出会い」によって恋に落ちた人々が、文化的因習によって望まない相手と結婚したというエピソードは溢れている。いわゆる「親のための」「イエのための」結婚である。

 したがって、「出会い」に基づく恋愛結婚は、個人主義によって生まれてきた。また、結婚を共同体を維持するための親族関係ではなく、社会契約とみなす思想も近代において現れた。概括すると、近代以降において、恋愛・結婚することは「自由に配偶者を選ぶ」という「権利の行使」になった。文化的因習が撤廃されたからこそ、恋愛結婚が可能になったのである。人間は自由になると恋愛結婚しないのではない。人間は自由になったから恋愛結婚をするようになったのである。この点をシロクマさんは書き落としているように見える。

(2)「合理的判断」と「偶然の忌避」は別の問題である

 合理的判断とは、物事に対して何が正しく、何をすべきかを判断することである。なぜ、近代以降に全ての人々に様々な権利が与えられたのかというと、人間はみな、合理的判断に基づいて権利を行使できるとみなされたからである。女性になかなか権利が与えられなかったのは、女性には理性がなく、権利を与えても合理的判断ができないという差別・偏見が根強かったことに一因もある。また、長らく続く(特に知的・精神)障害者差別も同様である。(1)で述べた恋愛結婚において、その権利を行使する場合にも、合理的判断に基づくことが前提とされている。恋愛結婚ができるのは、その人々が合理的判断に基づいて権利を行使しているとみなされているからである。

 それでは、恋愛結婚をする人は偶然的な「出会い」というノイズに直面しつつ、どうやって合理的判断をくだすのだろうか。それは、人間の常に多面的な思考を同時に行なう能力によってである。確かに「出会い」というのは予測不可能であり、経済合理性とは関係がない。もっと言えば、「恋に落ちる」とは最も不条理なことである。「好きになる相手を選べない」ということは、巷にあふれる恋愛についてのエッセイや創作物で繰り返し描かれてきたことである。では、そうした感情的で理性を超えた事象の前に、理性は屈するのだろうか。そういう場合もあるだろう。だが、人間は自分に起きた事象を突き放して合理的に思考することが可能である。むしろそうであるからこそ、人々の結婚の自由が与えられたことは前段で述べた。人間は不条理な状況においても、合理的判断を下し、結婚を選択するとみなされているのである。

 さらに、この結婚が合理的判断であるというのは、「みなし」でしかない。実際にはとても理性の働かない状況で結婚することを選択する場合もあるだろう。だが、近代法においては、「結婚は合理的判断に基づく社会契約である」ということになっているので、結果としてそうみなされるのである。もし、合理性を追求する立場であっても、「出会い」を忌避せずに、偶然的な状況の中で合理的判断をくだすことは可能である。少なくとも、その行為を合理的であると呼ぶことはできる。したがって、シロクマさんのいう、現代日本の人々が合理性を追求するがゆえに、恋愛・結婚しないというロジックは成り立たないのである。加えて言えば、「欧米」の人々は文化的因習に縛られているから恋愛・結婚するのではなく、「出会い」という偶然を忌避せずに、その状況の中で合理的判断として結婚することを選択している、とも言うこともできるのである*3

(3)権利は保障されて初めて行使される

 (2)で考えてきたことに即して言えば、欧米では合理的判断に基づいて恋愛・結婚がなされているのに、日本ではできないことになる。その際に、比較すべきことは結婚ひいては子育てについての制度だろう。この点については、欧米はひとくくりにできない。シロクマさんが記事の中で言及しているフランスに限って言えば、離婚後の生活再建やシングルによる子育てに対する支援制度が充実している国である*4。また、PACSと呼ばれるパートナーシップ制度が設立され、婚姻と同様の税制上の措置が受けられながらも、離縁後の手続きが婚姻よりも簡単である。フランスではこうした制度上の保障により、恋愛・結婚したあとも、合理的判断に基づいて人生を別の方向へ舵取りできるのである。

 それに対して日本はどうだろうか。日本における子育て支援策は貧弱であり、婚姻していても育児する保護者の負担は課題であることは言うまでもないだろう。ましてや、シングルマザーの貧困率は先進国でも突出して高く、離婚後の生活再建は大きな課題となる。また、子どもがいなくても、女性の労働についての不平等もあり、離婚後の賃労働による収入も著しく低いことが多い。さらに周囲の人々の離婚した当事者への差別・偏見も強く、いまだ「離婚する人=問題がある」とするような価値観も根強い。こうした状況の中で、DVにあっていても離婚できない被害者は少なくない。一度、結婚してしまうと、その後の人生の舵取りは困難である。こうした状況は、(特に女性に対して)間違いなく結婚することへのハードルをあげているだろう。

 日本において、恋愛・結婚をすることを進める人々は、それらのポジティブな側面を強調する。家庭を持つことで責任が芽生え、子どもを持つことで思いもよらない幸福な経験をすると言う。だが、いくらポジティブな側面を強調しても、ネガティブな側面はなくならない。「もし、うまくいかなくなったら」「もし、暴力を振るわれたら」という不安を人々は常に襲うだろう。それに対して、目の前にある危険を無視して飛び込め、と言われても多くの人々は尻込みする。なぜなら、日本ではもしそこで窮地に陥っても「自己責任」だと言われて、支援を得られないからである。そのため、合理的判断はリスクを避けることに重きを置く可能性が高い。他方、フランスのように十分な支援の制度があれば、人々はネガティブな側面への不安をやわらげ、恋愛・結婚へ飛び込むように背中を押すかもしれない。もちろん、それでも恋愛・結婚を望まない人はいるだろう。だが、フランスでは恋愛・結婚は活発になり、日本では消極的になったのだから、保障制度を比べてみる限り、前者の策が良かったと判断するのが妥当だろう。

 以上のように、自由が法に明記され、法的に権利が付与されるだけでは、人間が行動に移すには不足である。人間は、権利に関する十分な保障があって初めて、権利を行使するようになる。翻って見れば、権利を行使しないことは十分な保障がないからだとも言える。すなわち、現代日本の人々が恋愛・結婚しないのは、その権利を行使しているのではなく、恋愛・結婚する権利を行使できない状況にあるとみなせるのである。

 ここまで、恋愛・結婚する(そして少子化を解消する)方向で話を進めてきたが、私自身が実際に少子化の解消を望んでいるわけではない。なぜなら、現代日本の人口は近代国家の政策によって過剰に膨れ上がったと考えているからだ。近代以降、国家は戦争に行く兵士を育てるために、「富国強兵」の一環として人口政策を進めてきた。その政策のもとに日本の人口は増えた。しかしながら、戦争を放棄し、今後も平和な社会を存続させるのが前提であれば、人口が増えるべき理由はない。

 他方、日本の年金制度をはじめとした保障制度は、人口増大を前提として設計されている。いずれこのまま少子化が進めば、その制度はすべて破綻するだろう。そのため、国家は経済的合理性に基づいて、恋愛・結婚することを求めているのである。それは、シロクマさんが言うのとは逆に、人々から偶然性を奪い、管制の婚活サービスで「出会い」を作り、子どもを産むことを進めるような政策として反映される。おそらくこの政策は失敗に終わり、少子化は止まらないだろう。そして、年金制度は破綻するだろう。そうであれば、縮小する人口に合わせた新たな社会保障の制度設計が必要なはずである。現在の政府はそれを先延ばしにし、実効性のない恋愛・結婚を人々に勧める政策を打っている。私自身は、少子化解消よりも、日本の社会の現実を見据えた社会制度の議論が始まることを望んでいる。

*1:この文脈において、欧米というのはカテゴリが大きすぎる。ヨーロッパ・北米における恋愛・結婚に対する価値規範は大きく異なる

*2:なお、自民党改憲案において配偶者の選択の自由の文言を削除している。この改憲案がイエ制度の復活させる可能性があることについて、山口智美さんが繰り返し指摘している。→

https://blogos.com/article/340814/ 

*3:これはあくまでも論理的に言い得るということであり、実態の分析ではない。

*4:その理由は移民流入により「白人」の「フランス人」の割合が減少したことに対する対抗策が取られたことでもあるので、一概に賛美はできない。だが、もちろん「白人」以外も支援制度は利用できることは言うまでもない