恋愛・結婚しないのは「権利の行使」なのか?

 シロクマ(id:p_shirokuma)さんの以下のような記事がネット上で話題になっている。

「恋愛も結婚もしなくなった日本は未曾有の先進国」

https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20190624/1561360692

 

  シロクマさんによれば、日本で男女が結婚・恋愛をしなくなったのは、文化的因習がなくなったためである。「結婚・恋愛しなくてはならない」という規範がなくなった結果、人々は資本主義に則って経済的に不利であるから(=コスパが悪いから)、そのような関係を求めなくなったとシロクマさんは分析する。さらに、シロクマさんは、特に東京の人々にはそのような振る舞いが顕著であり、これは日本社会における模範であるとし、次のように述べる。

自分自身が恋愛可能かどうか、ひいては子育て可能かどうかを、模範的な未婚男女はしっかり考える。経済合理性にもとづいてよく考え、可能なら、恋愛や結婚を選択肢のひとつとみなす。もちろん東京のような都市空間では子育ては難しいから、東京の未婚男女はしばしば結婚を諦めるし、ときには恋愛をしようという気持ちすら起こさない。少子高齢化という視点でみればゆゆしき事態だが、経済合理性の透徹という意味では、きわめて洗練された身振りだ。

 以上のように、シロクマさんは東京の人々が恋愛・結婚しないのは、経済合理性に基づく選択であるとみなすのである。他方、シロクマさんは、「欧米*1」の人々はカップル文化やデート文化といった文化的因習があるから、恋愛・結婚をする、いまだ自由のない社会であると分析する。シロクマさんが考えるのに、恋愛・結婚に向けた「出会い」を求めるとは偶然性に満ちたことであり、予測不能なことであるので、経済合理性を妨げる。そのため、シロクマさんは、現代の日本社会における「出会い」は人々にとってノイズであると考える。そして、以下のように結論づけている。

 資本主義や社会契約や個人主義が徹底して、「出会い」というノイズが減っていくのは、少子高齢化という視点でみればおそらく危機だろう。しかし、資本主義・社会契約・個人主義の進展、civilizationという視点でみれば未曾有の達成であり、社会制度や慣習が人間の生殖本能を制圧した記念碑的状況といえるのではないだろうか。
 資本主義や社会契約や個人主義を司る人々は、この現状を嘆くべきではなく、賛美すべきではないかと私は思う。

  以上のように、シロクマさんは「資本主義や社会契約や個人主義」を支持するのであれば、社会は結婚・恋愛をしない方向に進むというのである。これについて、私から以下の三点について指摘しておきたい。

(1) 「恋愛結婚」こそが近代の「個人主義」の産物である

 近代以前の結婚制度は、「財産の相続」と「共同体秩序の安定」のために設けられていた。ところが、近代になると個人の内面に焦点があたり、「親密性」に基づく家族観が醸成されてくる。その結果、「恋愛結婚」が樹立されていくのである。個人の感情や経験に基づいて、自己の選択として結婚する相手を決める権利が付与されていくのである。日本でも憲法24条において「結婚の自由」が認められており、誰と結婚するのかについて、結婚する当事者の意思が最優先されるのである。

 しかしながら、シロクマさんのいうところの、恋愛・結婚の文化的因習が真に作動している社会においては、結婚は当事者の意思ではなく、親族に決定権が与えられる*2。すなわち、文化的因習によって結婚・恋愛しなければならない社会では、「出会い」は重視されない。むしろ、こうした社会でこそ、「出会い」はノイズである。いく世代か前は(そして現代においても)、「出会い」によって恋に落ちた人々が、文化的因習によって望まない相手と結婚したというエピソードは溢れている。いわゆる「親のための」「イエのための」結婚である。

 したがって、「出会い」に基づく恋愛結婚は、個人主義によって生まれてきた。また、結婚を共同体を維持するための親族関係ではなく、社会契約とみなす思想も近代において現れた。概括すると、近代以降において、恋愛・結婚することは「自由に配偶者を選ぶ」という「権利の行使」になった。文化的因習が撤廃されたからこそ、恋愛結婚が可能になったのである。人間は自由になると恋愛結婚しないのではない。人間は自由になったから恋愛結婚をするようになったのである。この点をシロクマさんは書き落としているように見える。

(2)「合理的判断」と「偶然の忌避」は別の問題である

 合理的判断とは、物事に対して何が正しく、何をすべきかを判断することである。なぜ、近代以降に全ての人々に様々な権利が与えられたのかというと、人間はみな、合理的判断に基づいて権利を行使できるとみなされたからである。女性になかなか権利が与えられなかったのは、女性には理性がなく、権利を与えても合理的判断ができないという差別・偏見が根強かったことに一因もある。また、長らく続く(特に知的・精神)障害者差別も同様である。(1)で述べた恋愛結婚において、その権利を行使する場合にも、合理的判断に基づくことが前提とされている。恋愛結婚ができるのは、その人々が合理的判断に基づいて権利を行使しているとみなされているからである。

 それでは、恋愛結婚をする人は偶然的な「出会い」というノイズに直面しつつ、どうやって合理的判断をくだすのだろうか。それは、人間の常に多面的な思考を同時に行なう能力によってである。確かに「出会い」というのは予測不可能であり、経済合理性とは関係がない。もっと言えば、「恋に落ちる」とは最も不条理なことである。「好きになる相手を選べない」ということは、巷にあふれる恋愛についてのエッセイや創作物で繰り返し描かれてきたことである。では、そうした感情的で理性を超えた事象の前に、理性は屈するのだろうか。そういう場合もあるだろう。だが、人間は自分に起きた事象を突き放して合理的に思考することが可能である。むしろそうであるからこそ、人々の結婚の自由が与えられたことは前段で述べた。人間は不条理な状況においても、合理的判断を下し、結婚を選択するとみなされているのである。

 さらに、この結婚が合理的判断であるというのは、「みなし」でしかない。実際にはとても理性の働かない状況で結婚することを選択する場合もあるだろう。だが、近代法においては、「結婚は合理的判断に基づく社会契約である」ということになっているので、結果としてそうみなされるのである。もし、合理性を追求する立場であっても、「出会い」を忌避せずに、偶然的な状況の中で合理的判断をくだすことは可能である。少なくとも、その行為を合理的であると呼ぶことはできる。したがって、シロクマさんのいう、現代日本の人々が合理性を追求するがゆえに、恋愛・結婚しないというロジックは成り立たないのである。加えて言えば、「欧米」の人々は文化的因習に縛られているから恋愛・結婚するのではなく、「出会い」という偶然を忌避せずに、その状況の中で合理的判断として結婚することを選択している、とも言うこともできるのである*3

(3)権利は保障されて初めて行使される

 (2)で考えてきたことに即して言えば、欧米では合理的判断に基づいて恋愛・結婚がなされているのに、日本ではできないことになる。その際に、比較すべきことは結婚ひいては子育てについての制度だろう。この点については、欧米はひとくくりにできない。シロクマさんが記事の中で言及しているフランスに限って言えば、離婚後の生活再建やシングルによる子育てに対する支援制度が充実している国である*4。また、PACSと呼ばれるパートナーシップ制度が設立され、婚姻と同様の税制上の措置が受けられながらも、離縁後の手続きが婚姻よりも簡単である。フランスではこうした制度上の保障により、恋愛・結婚したあとも、合理的判断に基づいて人生を別の方向へ舵取りできるのである。

 それに対して日本はどうだろうか。日本における子育て支援策は貧弱であり、婚姻していても育児する保護者の負担は課題であることは言うまでもないだろう。ましてや、シングルマザーの貧困率は先進国でも突出して高く、離婚後の生活再建は大きな課題となる。また、子どもがいなくても、女性の労働についての不平等もあり、離婚後の賃労働による収入も著しく低いことが多い。さらに周囲の人々の離婚した当事者への差別・偏見も強く、いまだ「離婚する人=問題がある」とするような価値観も根強い。こうした状況の中で、DVにあっていても離婚できない被害者は少なくない。一度、結婚してしまうと、その後の人生の舵取りは困難である。こうした状況は、(特に女性に対して)間違いなく結婚することへのハードルをあげているだろう。

 日本において、恋愛・結婚をすることを進める人々は、それらのポジティブな側面を強調する。家庭を持つことで責任が芽生え、子どもを持つことで思いもよらない幸福な経験をすると言う。だが、いくらポジティブな側面を強調しても、ネガティブな側面はなくならない。「もし、うまくいかなくなったら」「もし、暴力を振るわれたら」という不安を人々は常に襲うだろう。それに対して、目の前にある危険を無視して飛び込め、と言われても多くの人々は尻込みする。なぜなら、日本ではもしそこで窮地に陥っても「自己責任」だと言われて、支援を得られないからである。そのため、合理的判断はリスクを避けることに重きを置く可能性が高い。他方、フランスのように十分な支援の制度があれば、人々はネガティブな側面への不安をやわらげ、恋愛・結婚へ飛び込むように背中を押すかもしれない。もちろん、それでも恋愛・結婚を望まない人はいるだろう。だが、フランスでは恋愛・結婚は活発になり、日本では消極的になったのだから、保障制度を比べてみる限り、前者の策が良かったと判断するのが妥当だろう。

 以上のように、自由が法に明記され、法的に権利が付与されるだけでは、人間が行動に移すには不足である。人間は、権利に関する十分な保障があって初めて、権利を行使するようになる。翻って見れば、権利を行使しないことは十分な保障がないからだとも言える。すなわち、現代日本の人々が恋愛・結婚しないのは、その権利を行使しているのではなく、恋愛・結婚する権利を行使できない状況にあるとみなせるのである。

 ここまで、恋愛・結婚する(そして少子化を解消する)方向で話を進めてきたが、私自身が実際に少子化の解消を望んでいるわけではない。なぜなら、現代日本の人口は近代国家の政策によって過剰に膨れ上がったと考えているからだ。近代以降、国家は戦争に行く兵士を育てるために、「富国強兵」の一環として人口政策を進めてきた。その政策のもとに日本の人口は増えた。しかしながら、戦争を放棄し、今後も平和な社会を存続させるのが前提であれば、人口が増えるべき理由はない。

 他方、日本の年金制度をはじめとした保障制度は、人口増大を前提として設計されている。いずれこのまま少子化が進めば、その制度はすべて破綻するだろう。そのため、国家は経済的合理性に基づいて、恋愛・結婚することを求めているのである。それは、シロクマさんが言うのとは逆に、人々から偶然性を奪い、管制の婚活サービスで「出会い」を作り、子どもを産むことを進めるような政策として反映される。おそらくこの政策は失敗に終わり、少子化は止まらないだろう。そして、年金制度は破綻するだろう。そうであれば、縮小する人口に合わせた新たな社会保障の制度設計が必要なはずである。現在の政府はそれを先延ばしにし、実効性のない恋愛・結婚を人々に勧める政策を打っている。私自身は、少子化解消よりも、日本の社会の現実を見据えた社会制度の議論が始まることを望んでいる。

*1:この文脈において、欧米というのはカテゴリが大きすぎる。ヨーロッパ・北米における恋愛・結婚に対する価値規範は大きく異なる

*2:なお、自民党改憲案において配偶者の選択の自由の文言を削除している。この改憲案がイエ制度の復活させる可能性があることについて、山口智美さんが繰り返し指摘している。→

https://blogos.com/article/340814/ 

*3:これはあくまでも論理的に言い得るということであり、実態の分析ではない。

*4:その理由は移民流入により「白人」の「フランス人」の割合が減少したことに対する対抗策が取られたことでもあるので、一概に賛美はできない。だが、もちろん「白人」以外も支援制度は利用できることは言うまでもない

「男」に「男」は救えるか?

 ここのところ、はてなの匿名ダイアリーで、(シスヘテロの)男性と男性の関係についての、男性の書き手による記事が次々と公開されて、ブックマークを集めている。

 これまでネット上では「弱者男性」を名乗る人たちが、(経済力のある)女性は(経済力のない)「弱者男性」と結婚して扶養することにより救うべきだという主張をすることがあった*1。それに対して女性から、男性は女性に救いを求めるのではなく、男性に救いを求めるべきだという指摘が寄せられることはよくある。

 今回、次々と公開される記事は、男性と男性が人間的に(または情緒的に)繋がることによって、男性が救われることについての困難が言語化されている。

男同士が遊ぶことに楽しさがないわけじゃない。
ただ安心して弱さを見せ合い、ベッタリともたれ合うことはできない。
いわばスポーツや対戦ゲームみたいなもんで、調子のいい時、面白いとき、人生が恵まれている時にお互いのいいところを出し合うぶんには男同士が楽しいが、具合が悪くて辛くて悲しくて貧しくてグズグズな時にそのグズグズを男同士で絡ませ合うのは気持ち悪くて大体の人には無理だ。
「シスヘテロ男は(男も?)男が嫌いだから、女にしか救えない」( https://anond.hatelabo.jp/20190617221819 )

ていうか男は怖いから女に救ってもらうしかない。女叩きをしていた奴らも、男から冷遇されなかったわけじゃないはずだ。男同士の関係が築けていたなら、多分女なんてどうでもよくなる。でも男に刃向かうのは怖いから、女を叩くしかないんだよ。女叩いてる時間、そのコミュニティだけは同性の強い肉体を持つ仲間がいるんだ。男は怖いが男を怖いと言ってはいけない気がしていた。

「おっさんはおっさんが大嫌いだし弱い男はもっと嫌い」( 

https://anond.hatelabo.jp/20190618201336 )

 

 これらの記事に対して、男性同士で繋がっていくことで救われるストーリーを描きたいという、青年誌の男性漫画家の記事が寄せられた。

女性漫画家の描く『生きづらい人の生き方漫画』みたいなものばかりという事に気付いた。
この『生きづらい人の生き方漫画』というのは大体アラサーから中年期の女性が
地味な実生活での生きづらさを感じながら身近な別の生きづらさを抱えている人との交流で
なんとなく納得して生きていく事にする、という感じの流れが多いと思う。
恋愛の描写よりは生きづらさとの折り合いという所に重点が置かれているものが多く
そこに共感できるので読んでいてどこかせつなく心地いい。刺さる場面も多い。
地味だけどみんなそれぞれ色々な事情があるという当たり前の事が描かれていて
これがぼくには女性はこうして生き方を模索しているのだなという風に見えるのだ。
実にうらやましい。
男にはこうした何者でもない人が前向きに生き方の模索をするという文化が無い気がしている。

「男の生き方」( https://anond.hatelabo.jp/20190620231440 )

 

 上の漫画家の記事は、女性の漫画家は、女性の生きづらさが「身近な別の生きづらさを抱えている人との交流」によって救われるストーリーを描いており、(おそらく主たる読者層である)女性に受け入れられていることを指摘している。それに続いて、記事は男性向けの漫画雑誌では編集者からこのような企画は拒絶されることが多いことを述べている。

 この記事で挙げられている作品はほとんど私も読んでいるが、世代や文化の違う女性たちが出会うことで、自分の価値観を相対化していくなかで、自分の人生を見つめ直して肯定するようなストーリーをたどる。(もちろん、その道筋はまっすぐではない。)こうした作品で、読者は登場人物の行動に過去の自分を重ねたり、共感して感情を揺さぶられたりするなかで、「女性」が「女性」との繋がりに救われるプロセスを再体験することができる。 

メタモルフォーゼの縁側(1) (単行本コミックス)

メタモルフォーゼの縁側(1) (単行本コミックス)

 
凪のお暇(1)(A.L.C・DX)

凪のお暇(1)(A.L.C・DX)

 

  もちろん、すべての人がこうした作品で救われるわけではないだろうが、この記事を書いた漫画家が言うように、男性版のこうした「同性の繋がり」に救われる作品があれば、一部の(孤独を感じている)男性は人との繋がりで生きていくことへの希望を見出せるのではないだろうか。

 男性の「同性の繋がり」の重要性は、実は全く異なる分野のカナダのフェミニストのノンフィクション作品『BOYS 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』の中でも指摘されている。この本は2019年3月に日本語訳が出版されたところで、ツイッター上では話題になっており、私も早速購入して読んだ。

ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか

ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか

 

 この本の筆者であるギーザは、レズビアンでありフェミニストである。ギーザは、女性のパートナーとともに養子である「男の子」を育てることになり、「男子」の問題に直面した経験からこの本を書いた。どうすれば男子がのびのびとしたマスキュリティに(男性性)を獲得し、暴力を振るわずに、社会の中で女性とともに生きていけるのかを模索した本である。

 この本では、ニューヨーク大学の心理学者であるナイオビ・ウェイの著作が詳しく紹介されている。その該当箇所を引用しよう。

 この10年のあいだに、若い男性たちの境遇や「男の子の危機」について懸念する内容の本や記事はたくさん書かれているが、彼らの心理的健康や社会的健康について分析したものはほとんどない。しかし、ウェイの描き出す少年たちは一貫して感情的サポートと愛情の必要性を訴えている。14歳のカイはこう語る。「友達は必要だよ。友達がいないと、落ち込んで、幸せじゃなくなるし、自殺したくなると思う」。親友のどんなところが好きかを聞かれたベンジャミンはこのように答えている。「ほとんど全部。親切なところや、全部だよ。周りの人を大切にするし、それはぼくも同じなんだ」。

 男の子は女の子よりもコミュニケーション力が低く、弱さを見せたり親密な関係を築いたりすることが苦手だという考えが定着しているが、男の子も同じくらいそれらの能力をもっていることを、ウェイは明らかにしている。「男の子には、とても豊かな感情がありますが、どういうわけかそれは見過ごされています」と、ウェイは私に語る。(111ページ)

 

 以上でギーザがウェイの紹介の中で述べているように、男子は思春期に非常に親密な「同性の繋がり」を持ち得る。この後のギーザの記述を読むと、ウェイの分析によれば男子は「秘密を共有すること」で絆を深めていく。その理由は「スポーツやビデオゲームのような「男の子らしい」共通の興味のためではなく、共有している感情的領域(112ページ)」のためだという。男子が声変わりをはじめとした身体の変化の戸惑いを無防備に話せるのは同性に対してだけなのである。ところが、思春期の後半になると男子は「同性の繋がり」ではなく、女性との恋愛関係に意識が向かう。なぜなら、真に親密になるべきは男性同士ではなく、女性であると教わるからだと、ギーザのウェイの研究の紹介では述べられている。

 ここで示唆されていることは、思春期後半の男子は「男らしさ」を求めて、親密な「同性の繋がり」を絶ってしまうことだ。弱さや共感力は「男らしさ」から遠ざかるため、ないことにされてしまう。しかしながら、男子は生まれつき、男子が情緒的な繊細さや共感力がないわけではない。女性が社会に適応するなかで女らしくなるように、男子も教育や文化的背景によって男らしくなっていく。ギーザはこの本の中で、いかに男子が「男らしさ」を身につけていくのかを明らかにしている。

 それと同時に、ギーザがこの本で取り上げるのは、男子のための数々の教育プログラムである。その多くは、男子がリラックスして自分の弱さや感情を打ち明ける体験をすることに重きが置かれている。ふざけたり茶化したりせず、性の問題に向き合うようなプログラムも含まれている。そして、男子同士の友情が育まれ、「同性の繋がり」の中で弱さや葛藤を打ち明け、その秘密を共有する中で、男子は「男らしさ」から解放されていくという青写真が示されている。

 

 さて、偶然だが、男性の「同性の繋がり」の重要性に正面から向き合うアニメ作品が日本で放送されていた。「さらざんまい」である。(脚注で大きくネタバレしているので閲覧注意)

幾原邦彦「さらざんまい」

http://sarazanmai.com

 

 

 この作品は3人の14歳の少年を中心に進んでいく。かれらはそれぞれに、「人との繋がり」に葛藤を抱え、「うまく繋がれない」という気持ちを抱いている。少年たちは、カッパの国の王子けっぴによって、カッパにされてしまう。この作品ではカッパとは「生きていて、死んでいる」、つまり、あの世とこの世の境目に住んでいる生き物である。少年たちは、現世で中学生として生活しながら、時折、欲望に取り憑かれた敵・カパゾンビを倒すことで、カッパの皿を集め、自分の願いを実現することを目指す。

 この作品の肝となるのは、カッパがカパゾンビを倒すときには、「さらざんまい」という技(?)を使うことである。この技を使うと、カッパ同士の秘密がバレてしまうことになる。3人の少年たちは誰にも知られたくないと思っていた秘密を、無理やり共有させられる中で、深い絆を得ていく。その中で、自分の「人との繋がり」の課題に直面し、お互いに親密になりながら、思春期を乗り越えて自己のアイデンティティを獲得し、カッパから人間に戻って現実世界*2に帰着するのである*3。「さらざんまい」は一見、衒学的な言葉の飛び交う不思議な幻想世界の話に見せながら、実質的には少年たちの青春ストーリーであり、素朴な成長譚である。

 この作品は、先に紹介したギーザの著作で言われている、男子の「同性の繋がり」を取り戻し、その価値を再認識している面がある。少年たちは弱さや葛藤を晒し、秘密を共有することで親密さを深めていく。そのことによって、救われるのである。この点で「さらざんまい」は「男」が「男」を救う作品なのである。

 男子の友情を描いた作品はこれまでもたくさんあるが、多くは「スポーツ」や「バトル」の中で協力しあってライバルや敵を倒すことに焦点が当てられる。「目標」が設定され、それに向かってストーリーは展開するのである。他方。「さらざんまい」はひたすら少年たちの「繋がり」に対する葛藤が描かれる*4。そして、最後に達成されるのは「勝利」や「成功」ではなく、「同性の繋がり」である。こんなふうに正面から「同性の繋がり」の問題に向き合った作品*5はあまりないように思われる。ストレートに男子に対して「同性の繋がり」の重要性を説き、未来へ向かって生きるエールを送る作品で、カタルシスを得る男性もいるのではないだろうか。

 もちろん、この作品は「大人の男性(おっさん)」はほとんど登場しない。おっさんが登場するとすれば、欲望に取り憑かれてカパゾンビになってしまった人々であり、誰とも繋がれずに外部に放り出されてしまった存在かのようである。ここに直接的なおっさんへの救いはないだろう。他方、この作品は「これからおっさんになる人々」(=若い男子)の救いにはなるかもしれない。私には、この作品が男性(幾原監督)の過去の自分への手紙のようにも見えた。同性で繋がることを諦めてしまった少年、同性愛関係を忌避しようとした青年、そしておのれの未熟さで絶望を受け止めきれなかった成年男性、こういった「人との繋がり」で失敗したさまざまな経験を折り重ねるようにして、作品のなかに多彩なキャラクターが登場する。その中で最後まで「欲望を手放すな」「繋がることを諦めない」と登場人物に叫ばせ続けたのは、自分のためではなく、これからを生きる少年たちのためではないか*6。これも一つの「同性の繋がり」のあり方だろう。次の世代はもっと男子の「同性の繋がり」は親密になり、当たり前に「男」が「男」を救う時代が来るかもしれない。その願いを託した作品として観ることもできるように思う。(ただし、私の見ている限り、視聴者の大多数は女性である。)これは「男」に「男」は救えるか?という問題の、一つのアンサーだろう。

 

追記(2019/6/25)

 誤字脱字等の文章上のミスを修正しました。

 

*1:わかりやすい例としては2006年の赤木智弘「『バックラッシュ!』を非難する」( http://journalism.jp/t-akagi/2006/07/post_136.html )

*2:印象的だったのは、最終回のエンディングで少年の一人が少年刑務所に服役する場面が描かれたことだ。彼は坊主に頭を刈られ、刑務作業を行っている。彼は14歳であるので少年法の範疇であるが、おそらく殺人を犯しているため検察官に逆送致され、懲役刑ということになったのだろう。矯正教育がアニメの中で描かれること自体が少ないが、そのあと出所し、友人とともに生きていく「再出発」のストーリーになっているのは初めて見た。荒唐無稽な話でもあるので、彼の殺人については触れなくてもアニメ作品では許容されたように思うが、しっかりと「罪を償う」ことと「それでも未来へ向かって生きる」ことが物語に含まれたのは意外だ。(個人的には犯罪の問題を研究してきたので、こういうふうに描かれたことは嬉しかった)

*3:昨夜の最終回はツイッターなどで、3人は自殺しているのではないかという説が流れている。その時に、3人が飛び込んだのは「三途の川」であり、けっぴが「この河を渡れ、もう戻れないのだから」というセリフは「死」を意味するのだと解釈されている。だが、この作品の枠組みは精神分析に依っており、ここで使われる「河を渡る」という比喩は、「快楽原則の彼岸と此岸」のことだろう、と私は思う。「快楽原則の彼岸」とは神経症の患者が苦痛に満ちた行為(たとえば自傷行為)を強迫的に繰り返すことである。患者は無意識に自ら悲劇的な体験を反復することで自己を保っている。これを「さらざんまい」の結末と重ねれば、少年たちが、「人との繋がり」から逃避して自らを苦痛に追い込む「快楽原則の彼岸」から、河を渡って向こう岸の「快楽原則の此岸(欲望の成就)」を目指すというメタファーだととれる。繰り返し出てくる「欲望を手放すな」というセリフとも一致する。

*4:カパゾンビやカワウソ帝国ら、「敵」らしきものも登場するが、最後にはこれらは全て「概念」であり、自己が生み出すものだと明かされている。つまり、「敵」は外部に存在せず、自分の中にある既成概念がカワウソの姿をとって現れ、自己自身を追い詰めていたのである。これについては、一番わかりやすいのはレオとマブの関係である。レオは、カワウソによってマブは人形に変えられている(「俺の欲しい言葉をくれるマブじゃない」=愛されていない)。また、マブは「愛する」と言うとカワウソの仕掛けた仕組みで死んでしまう(愛してはいけない)。このときのカワウソは、おそらく「ホモフォビア」である。両者の自己内で生み出された概念(=ホモフォビア)によって、二人は引き割かれてしまった、と解釈できる。加えて、思春期前半の少年である3人に対して、レオとマブは思春期後半を過ぎ、大人になった青年である。ギーザの著作を参照すれば、この2人の関係はすでに「男らしさ」の枠からはみ出し、男性にとって忌避すべきもの(=同性愛)となっている。その意味で、このアニメで男性の「同性の繋がり」を描く際に、郷愁に満ちた3人の「少年たちの友情」だけではなく、「同性愛」の関係にあるレオとマブの青年たちが必要だったのだろうと推察する。

*5:かつて庵野秀明監督は、テレビ版の「新世紀エヴァンゲリオン」で、主人公と少年たちの「同性の繋がり」を描きかけた。しかしながら、この作品で主人公が救済を望むのは、同世代の女子や年上の女性、さらには亡くなった母親の幻像である。加えて、この作品は一向に現実に帰着することができない。悲劇的な展開の反復の迷路にさまよいこみ、何度、映画版が作られても決着はつかないように見える。

*6:最後に、3人よりさらに年少の春河が「僕は選ぶよ」と未来に向かって生きていくことを宣言するのも象徴的である。精神分析ではその人が自分で「選択すること」に重きが置かれる。なぜなら、「自分で選ぶ」ことは、自由を獲得し、責任を負うことの宣言であるからだ。これは与えられた自らの環境や悲運に屈服するのではなく、自己により人生を切り開く行為だからである。春河は一稀から離れたくない一心ですがりついた結果、事故にあって歩けなくなってしまった。そのことで、最もそばにいたいと思っていた一稀の心が離れてしまい、深く傷ついていた。しかし、その一稀を自分のそばに縛ることをやめ、自らの繋がり方を手放すことで、もう一度、一稀が自分のそばに帰ってきてくれることを信じ、もっと親密な繋がりを得たのである。この作品の隠れた主人公は春河であり、3人の繋がりが確固たるものになって以降は、彼こそが物語の中心となることを予兆させている。

フェミニストとしてトランス差別・排除に反対します。

 フェミニストとしてトランス差別・排除に反対します。それについて以下で述べます。

 ここでいう「トランス」とは、「性別を越境する」ことを指します。私たちの社会では、性別は「男性」と「女性」に分けられています。近年は「性同一性障害(GID)」という言葉もよく知られるようになり、「男性に産まれたが、女性として生きたい人」「女性として産まれたが、男性として生きたい人」の存在が可視化されました。そのような人たちに対して、(まだ多くの課題が残っているものの)性別移行手術や戸籍変更も認められることが増えました。こうした人たちは、「男性」と「女性」の性別を越境します。

 性別の越境の仕方はそれだけではありません。たとえば、服装だけを変える「異性装」によって性別を越境する人もいます。また、アイデンティティについても、何度も「男性」と「女性」の間で性別を行ったり来たりする人もいます。「男性」と「女性」という二分の間で揺れ続ける人もいます。そもそも、「男性」と「女性」の区切り自体に疑問を持ち、性別を「選ばない」というかたちをアイデンティティとする人もいます。これだけではなく、多種多様な性別の越境の有りようがあります。

 こうした、性別を越境する人たちに対して、歴史的にフェミニストは差別を繰り返してきました。フェミニストの基盤は「この社会で、女性であるということについて考える」ことにあります。多くの女性フェミニストは「私は女である」という経験から、社会の中にある性差別や抑圧に抵抗する言葉を紡ぎ出してきました。そのため、女性フェミニストにとって「女とは誰のことか」が大きな問題になります。そして、歴史的にフェミニストは、「性別を越境して女性になった人」、つまりトランスを運動から排除してきました。たとえば、「女性だけのフェミニスト団体」からトランスを排除しました。「女性だけの音楽祭」を企画した時にトランスを参加させませんでした*1。女性としてフェミニズムに参加するトランスにとって、このような差別や排除は不当です。そして、こうした差別や排除は、相手を傷つける行為です。私はフェミニストとして、トランス差別・排除に反対します。

 ところが、いま、Twitterでは多くのフェミニストが、トランス差別・排除の言説を拡散しています。そのときに掲げられるのは「女性の安全」です。女性限定のスペースを守り、男性のいない場所で女性がのびのびと暮らせる権利が欲しいという主張もあります。そのときに持ち出されるのが「性暴力」の問題です。一部のフェミニストは、トランスの中で男性生殖器(ペニス)を持つ人々は女性を性暴力の被害に遇わせる可能性があるため、特定の場所で共に過ごすことは危険であると主張しました。

 これらの主張は正当ではありません。私が一番大事だと思うのは、性暴力はペニスによって引き起こされるわけではないことです。ペニスを使わない性暴力はたくさんあります。指や器具を使ったり、生殖器以外を侵害したりすることで行われる性暴力は頻発しています。そして、それらの性暴力はペニスを使うものより、小さな被害だとは言えません。また、これらの性暴力は「男性から女性」にのみ行われるものではありません。「女性から男性」に対する性暴力や同性間の性暴力もあります。トランスの人たちも性暴力の被害に遭います。「大人の女性から子ども」への性暴力もあります。女性は性暴力の加害者になります。ペニスがない人たちだけで集まっても、性暴力は起きます。なぜなら、性暴力を引き起こすのはペニスではなく、加虐心や支配欲などの「暴力をふるいたい」という欲望だからです。

 しかしながら、これまで多くの性暴力被害者のためのグループは「女性限定」でした。なぜなら、性暴力被害者の証言を自分の性的欲望を満たすために聞こうと考えて、グループの情報を得ようとする人たちが一定数いるからです。かれらの多くは真摯に性暴力被害者に心を寄せるふりをしながら、相手から生々しい被害の様子を聞き出し、それをこっそりと自慰行為のネタにします。また、こうした話を利用してポルノ作品を創る人もいます。人間の欲望は果てしないのでそうした人びとが存在することは否定はできませんが、多くの被害者は自分の経験を性的に利用されることで深く傷つきます。そして、そうした行為を行う人たちの多くが男性です。そのため、性暴力被害者のためのグループは「女性限定」になりやすいのです。

 他方、こうしたグループから男性被害者やトランスの被害者は排除されることになります。性暴力被害を受けた後も、支援につながることができないのです。また、フェミニストや女性の支援者の性暴力に関する声明や見解についても、「女性中心主義」であるため、常に女性ではない被害者は周辺化されます。私はこの性暴力問題の「女性中心主義」を10年以上、批判してきました。私の立場としては、性暴力被害者の当事者団体については「女性限定」であることは安全管理の問題上、仕方ないと考えるところはあります。しかしながら、啓発活動や支援者向け講座の中での「女性中心主義」について明示的に批判してきました*2。ましてや、公開上のインターネットの言説はいうまでもありません。性暴力の問題が「男性から女性」に限定されることも、ペニスによって性暴力が引き起こされるかのように主張することも誤りであると、ここではっきりと批判します。

 ところが、現在のTwitterではフェミニストによって、ペニスのあるトランスは性暴力の加害をする可能性があるので危険だといわんばかりの言説が飛び交っています。こうした発言をする人びとを「ツイフェミ」と呼ぶことがあります。これはツイッターフェミニストの略で、従来のフェミニズム運動への参加経験や、研究者としての経歴がなく、Twitterだけで活動していることを揶揄的に表現した言葉です。しかしながら、ツイフェミであることと、ほかのフェミニストであることに大きな差はありません。私は今でこそ研究者であり大学で非常勤講師をしていますが、2007年にこのブログでフェミニストを名乗り始めた時には、学籍もありませんでした。また、草の根のフェミニズム活動には関わりましたが、その話は一切書きませんでした。ですので、インターネット上のフェミニストのプロトタイプだと言って良いと思います。当時、ネットでフェミニストを名乗ることは、罵詈雑言を受け、嫌がらせをされることを意味しました。ほとんどフェミニストは存在しませんでした。その中でフェミニストを名乗った理由は「汚名を引き受けよう」と思ったからです。私にとって、ブログでフェミニストであると名乗ることは、「私は女である」という経験を徹底的に掘り下げるという宣言でした。おそらくツイフェミと呼ばれる人たちの中にも、同じような動機でインターネット上で活動している人はたくさんいると思います。ですから、私はツイフェミと変わらない立場であると自認しています。

 私は、「私は女である」ことの経験からたくさんの感情を引き出されます。積年に降り積もった怒りも悲しみもあり、取り乱すこともよくあります。冷静ではいられないし、他者に対し拒絶的にもなります。過去に由来する感情を抑えられず、不条理な言動をとったこともあります。私はそのことを否定するつもりはありません。ネガティブな感情は、社会の中にある性差別や抑圧に抵抗するエネルギーになるからです。フェミニストであるということは、周囲から浮き、批判を浴び、時には白い目で見られることです。それに耐えて社会を変えようとすることができるのは、心に煮凝った暗い情念が自分を支えてくれるからです。私はルサンチマンを隠したいとは思いません。

 それと同時に、私はこの暗い情念から解放されたいと思っています。これまで生きてきた経験に根ざした感情を昇華したいと考えています。特に誤りや無知が引き起こすネガティブな感情は本来はなくて良いものです。たとえば、私の心の内側にもペニスへの恐怖やトランスへの無理解がべったりと貼り付いています。それらは私には必要がないものです。私はこうした自分の一部分を変えていきたいと考えています。

 フェミニストのパトリック・カリフィアはトランスについて議論する中で、「わたしたちは男性以上ではないにせよ、少なくとも男性と同じ程度には変わらなければならない*3」と述べています。このように言うカリフィアは、過去にレズビアン分離主義に与しており、トランスを排除した経験を持っています。しかしながら、自らのセクシュアリティを探求する中で、トランス差別に対する考えを変えてきました。その上で次のように言います。

 偏見を解きほぐすのは生涯にわたるプロセスである。最近、わたしは非常にためになる経験をした。私の長年の知己である女性が、トランスジェンダーであるとわかったのだ。そのことに気づかず、何年も知り合いだったのである。この発見はわたしには少し痛かった。というのも、わたしの「ゲイダー(*)」と同様に「トランス・レーダー」もうまく働いていると思いたかったからだ。彼女には騙すつもりはなく、わたしがもう知っていると思っていたのである。トランスセクシュアリティについて多くのことを学んできたから、これがそう大きな違いであるとは思わなかった。しかしわたしは、気がつくと彼女のことをまったく違った風に見ていた。突如として、彼女の手が大きすぎるように見えてきた。鼻にも何か奇妙なところがあるし、それに彼女には喉仏がなかったかだろうか?*4 声も女性にしては低すぎないか?それにいつも男性のような親分肌ではないか? それに何たることか、前腕にはかなりの毛が生えていた。

ゲイダー ゲイがゲイを見つけ出す第六感のこと。「ゲイ」+「レーダー」というユーモア溢れる俗語。

 これは楽しい種類の騒ぎではなかったが、こんな風に考えている自分に気がついた時、思わず笑い出してしまった。トランスフォビアを取り除くのは非常に難しい。トランスジェンダーではないわたしたちが、トランスセクシュアルについて正確な判断を下すことは至難の業だ。わたしたちは、私たちが互いに見るときのようには、彼/彼女を見ないからだ。彼らを評価するのには別の基準を使う。そしてこの基準には、彼らの染色体上の性が依然として彼らの自分の表し方に影響している証拠を見つけ出そうとする方向にバイアスがかかっている。(カリフィア、217-218頁)

 上のようなカリフィアの経験談は、トランスでない人間がいかに既成概念にとらわれているのかを描き出しています。「トランス女性とシス女性は違うよね」と、トランスでない女性が言い合っている、その感覚の裏側には、「違いを見つけ出そう」とすることへの隠れた動機があります。あるカテゴリーと別のカテゴリーの間の差異を素早く見つけ出せるのは、差別心のなせるわざです。トランスでない女性たちも、男性たちが同じように「男と女は違うよね」と言い出す場面を何度も経験しているはずです。男性が性差別から解放されることが難しいように、トランスでない人がトランス差別から解放されることは難しいことです。それでも、私はできる限り解放されたいですし、自分の差別心を正当化したいとも思いません。ペニスを恐れ、トランスの人たちを排除して、偽りの「セーフスペース」を持ちたい、とは思わないのです。

 私たちは社会を変えることができます。そして、私自身のことも変えることができます。それが、フェミニズムの希望ではないでしょうか。

(引用は以下のパトリック・カリフィア『セックス・チェンジズ トランスジェンダー政治学からしています。) 

セックス・チェンジズ―トランスジェンダーの政治学

セックス・チェンジズ―トランスジェンダーの政治学

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:米国の事例です。参考としては以下。カリフィア、370-374頁。(以下、引用は翻訳版より)

*2:フェミニストの支援者から嫌な顔をされたことは何度もあります。私はフェミニズムの王道から外れています。

*3:カリフィア、180頁。

*4:翻訳版ママ

日大アメフト部悪質タックル事件について

 2018年5月に起きた日大アメフト部悪質タックル事件について、警視庁が前監督と元コーチの嫌疑はないものと判断した。

警視庁「選手が前監督らの指導を誤認」日大悪質タックル

警視庁「選手が前監督らの指導を誤認」日大悪質タックル:朝日新聞デジタル

 この件について、江川紹子さんが丁寧な解説記事を書いている。

 悪質タックル「嫌疑なし」は「理不尽」にあらず

悪質タックル「嫌疑なし」は「理不尽」にあらず(江川紹子) - 個人 - Yahoo!ニュース

 しかしながら、江川さんは警察が客観証拠を見つけられなかったとしても、証人の証言が嘘だったとは言えないと補足する。日大側がこの事件について調査した第三者委員会の最終報告書も、「第三者委員会報告書格付け委員会」は低評価をつけている。そのため、第三者委員会の調査は不足している可能性がある。他方、江川さんは、その調査の補足は警察がするものではないとこの記事の中で指摘している。

 その上で江川さんは、「この事件は警察で捜査すべきであったのか」という点についても疑問を呈している。江川さんは以下のように書く。

そもそも、今回のケースは、本来、警察に持ち込むのがふさわしい事案だったのかも疑問だ。
 被害者サイドが警察に被害届を提出したのは、日大の対応に対する不信感からだった。日大側の初期対応がもっと違っていれば、刑事事件として扱われることもなかったのではないか。日大の危機管理のまずさとメディアの異様なまでの盛り上がりが、事態を必要以上に大きくしたように思う。

https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20190206-00113885/?fbclid=IwAR1GjPiF3X2z7xXIvdEkblR3u-erbiiPh4uaFTzOiEhPqvxiA-Sj_7wjCrA

 

 以上のように、江川さんのこの記事の焦点は「刑事罰を問うことの是非」に当てられている。江川さんは、刑事罰だけが当事者の責任追及になるわけではないとし、両人は「2人は指導者としての責任を問われ、その職を解かれたばかりか、関東学連から「永久追放」に当たる除名処分を受けている(同上記事)」ことをもって、社会的な制裁を受けていることを強調している。ここまでが江川さんの記事の主張である。

 江川さんの記事を読む限り、私もこの警察の判断は妥当であると考える。国家権力の抑制の点から、警察権力の拡大は極力避けなければならない。また、冤罪を防ぐためにも警察の客観証拠の重視は不可欠である。さらに、マスメディアの報道やネットの言論は、処罰感情を煽るものも多かった。

 この事件は、スポーツの中での暴力の問題、スポーツチームの指導者の問題、大学組織の問題等が絡み合っている。それもあり、人びとの関心を集めたが、必ずしも刑事司法による解決が「最善策」だとは言えないだろう。なぜなら、刑事司法はあくまでも「個人」の責任を追及し、処罰を行うことを目的としているからである。他方、この事件の問題は組織内の「人間関係」が鍵を握っている。すなわち、コミュニティの問題なのである。

 しかしながら、この事件が警察が「嫌疑なし」と判断したとしても、すべて解決したとは思えない人が多いのではないだろうか。江川さんは両人が社会的制裁を受けていることを強調しているが、被害者への謝罪・補償が十分だと考える状況には見えにくい。また、両人が日大アメフト部に関わることがなくなったとしても、残された部員が背負っていくものは小さくない。まだ事件は終わっていない。

 こうした状況は、この事件に限ったものではない。多くのコミュニティで起きる事件(いじめ、ハラスメント、暴力事件等)は、刑事司法での解決は難しい。たとえば、学校でのいじめを刑事罰の対象にしようとする主張も、インターネットではよく見かける。しかしながら、多くの場合は客観証拠を集めることが難しい。刑事罰の対象にならないことは、その事件が小さいことを意味しない。多くの人びとを傷つける深刻な事件であっても、刑事司法の介入が難しいことはよくあるのである。

 こうした場合に、ひとつの選択肢としてあげられるのが、修復的司法(restorative justice)だろう。修復的司法は1970年代から欧米諸国を中心に広まった紛争解決のアプローチである。修復的司法の特徴は、コミュニティの人間関係を中心に扱うことである。「罰を与える」ことが目的ではなく、加害者が被害者に対して心からの謝罪と補償を行い、その事件に関わった人たちが共同でどのように対処していくのかを話し合う。

 修復的司法でよく誤解されるのは、従来の生徒指導のように、教師が生徒のトラブルに対し、加害者に「謝りなさい」と命じ、被害者がそれをゆるすことを強いられるのではないか、ということだ。しかしながら、実際の修復的司法では、訓練を受けた調停役(ファシリテーター)が十分に当事者の聞き取りを行い、再び暴力が起きないように安全を守る。その上で、調停役は話し合いにできるだけ介入しないようにしながら立会い、どのような結末になるのかを見守る。これまで修復的司法は実証研究が多数行われており、調停役が丁寧にコーディネートすれば、被害者の満足度の高い実践になることがわかっている。

 修復的司法は、刑事罰の対象にならない事件も扱うことができる。また、事件が起きた後の人間関係について、当事者で話し合うこともできる。コミュニティ内で事件が起きた場合、自分たちでは人間関係を整理することができなくなっていることが多い。お互いの疑心暗鬼、長年にわたる恨み、組織外に話せない秘密の山積等が重なっているのである。そこに外部の調停役(ファシリテーター)が入ることで、人間関係が変わることがある。その結果としてコミュニティの解体、離縁が起きることもある。それもまた、修復的司法の結果の一つである。要するに、凝り固まった関係を解きほぐし、別の関係に変えることが修復的司法の目的なのである。

 修復的司法については、私は以下の書籍で詳しく述べた。本書は性暴力の事例を中心に扱っているが、前半は修復的司法一般についても紹介している。具体的にどのような実践があるのかも、紹介している。もちろん、修復的司法は当事者が望んだ場合にのみ実施されるため、「この事件には修復的司法を適用すべきだ」とは言えない。しかしながら、コミュニティで起きる事件に対し、このような選択肢が用意されることは、より多くの人たちの問題解決につながるように思う。

 

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

 

 

 

 

 

 

 

 

西尾学術奨励賞の受賞と授賞式

 拙著『性暴力と修復的司法』がジェンダー法学会の西尾学術奨励賞を受賞いたしました。

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

 西尾学術奨励賞は以下になります。

「西尾学術奨励賞」は、ジェンダーと法に関して優れた研究を行った若手研究者・実務家に対して与えるものです。ジェンダーと法分野の若手研究者・実務家の研究を奨励促進する目的で行っている取り組みで、2004年に始まりました。
http://jagl.jp/?page_id=337

 まさか学会賞をいただけるとは夢にも思っておりませんでしたので、自宅で受賞のお知らせをいただいたときには、「わたし?」ととっさに一人で呟いてしまいました。研究者としてはまだ経験が浅く、至らない点も多いため、賞をいただくことは恐縮ではありますが、私にとっての初めての著書を評価していただいたことを大変嬉しく感謝しております。同時に、賞の重みで身が引き締まる思いでいます。受賞を励みにして、今後の研究者人生でいっそうの努力を重ねていきたいです。本当にありがとうございました。
 12月2日に、ジェンダー法学会第16回学術大会の中で、授賞式が行われます。私も出席する予定です。

「2018年第16回学術大会の概要」
http://jagl.jp/?page_id=729

江口聡氏から自著へご指摘をいただきました。

 京都女子大学教授の江口聡氏が、自著で引用しました英語論文等の誤訳について、以下のご指摘くださっています。ここに挙げられている英語文献を日本で読んでいるのは、現時点ではおそらく私と江口さんだけです。大変な労力の元に、拙著にご指摘いただいていることに感謝いたします。

『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(1)
https://yonosuke.net/eguchi/archives/9864

 拙著は以下です。

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

 私は大学院の修士課程・博士課程で一貫して「性暴力分野における修復的司法」を専門に研究してきました。周りにほかに同じ分野の研究者はいませんでした。ひとりで一から資料を読むところからはじめました。研究して数年の間は、関連する資料がどこにあるのかもよくわかりませんでした。ヨーロッパにフィールドワークに行き、同分野の研究者から直接、教えてもらって、資料をかき集めて読みました*1
 本来ならば、私の本で「性暴力分野における修復的司法」の問題を論じ尽くすことができるのが理想ではあるのですが、残念ながらいくつも誤訳が残ってしまい大変申し訳なく思います。しかしながら、この本をたたき台にして、今後、「性暴力分野における修復的司法」の研究が進むことを心より願っています。
 いただいたご指摘については、今後、第二版等で修正する機会があれば、反映させたいと思います。江口さん、ありがとうございました。

*1:私が研究をまとめることができたのは、イギリス、アメリカ、オーストラリア、ドイツ、ベルギー、アイルランドデンマーク、その他、たくさんの国の研究者が本当に親切に関連する文献を教えてくれて、私に論文を書くように励ましてくださったからです。惜しみなくご協力くださった、みなさんのご尽力抜きには決してこの本は書けませんでした。お名前は挙げられませんが、本当に感謝しています。

性暴力・DV被害の実態調査の記事の追記

 先日、公開した性暴力・DV被害の実態調査について書いた記事が、予想以上にアクセスを集めてしまいました。該当記事は以下です。

「日本社会における「女性に対する暴力」は少ないのか?」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20181028/1540696942

 私の記事はこの統計調査は国際比較をするにはまだデータが不十分であり、確定的なことは言えないため、調査者の結論のうちの「女性に対する暴力被害は、EUと比較すると、少ない。暴力の形態に限らず,EUのほぼ半分である」の部分には同意しないと書いています。
 これが、以下のブログ記事で紹介されてネットで話題になりました。こちらの記事内では私の論が批判されています。両者を読み比べてどちらの論が妥当であるのかの判断は、読んだ方にお任せしようと思います。特に私から言うことはありません。

「日本では女性への暴力は少ないと言う調査結果に困惑するフェミニスト
http://www.anlyznews.com/2018/10/blog-post_29.html

 それはともかく、京都女子大学教授の江口聡氏のブログ記事でも、同じ調査が紹介されました。

EUの女性に対する暴力の調査はすすんでるなー」
https://yonosuke.net/eguchi/archives/9705

 こちらの記事では統計調査の詳細が丁寧に紹介されています。私自身、セミナーでこの話も聞いたのですが、取り急いで自分の論だけを書いたので飛ばしてしまいました。こうして補足記事が出るのはとてもありがたいです。
 さて、EUの調査についてですが、江口さんは「すすんでる」と書いていますが、私はそうは思っていません。私はこの調査は、一面では役に立ちますが、別の一面では誤解や偏見を強化します。なぜなら、統計調査は常に目的を持って設計されるからです。以下の点には留意が必要です。

(1)「女性に対する暴力(Violence against Women)」という語が使われていること

 先の記事にも書きましたが、この調査では「女性に対する暴力」として、調査対象者を女性に限定しています。しかしながら、性暴力やDV などの被害を受けるのは女性だけではありません。性自認が女性でない人たちもいます。また、「女性に対する暴力」という言葉で想定されやすい加害者は「男性」であることが多いため、「同性間の暴力」や「女性の加害者」の問題を見落とす危険があります。
 この調査は2012年にEUで始まっていますが、その時点で上のような指摘はすでにされていました。英語圏では「女性に対する暴力(Violence against Women)」という言葉は、「ジェンダー化された暴力(Gendered Violence)」に置き換えられることが増えています。この語は、ジェンダー構造を背景として起きている暴力一般を指し、男性が被害者であっても、こうした暴力を訴える困難の背景にはジェンダー構造があるというような含意を持ちます。しかし、このEUの調査はいまだに「女性に対する暴力」という語を用いています。
 その点から、私は次のことを類推します。すなわち、この調査はフェミニストが中心となり、「女性」に焦点を当てているということです。さらにこの調査はEU内の国の被害実態の比較をしています。そのことにより、EU内では発展途上国のほうがDVや性暴力に苦しむ女性が多く、「支援・教育が必要である」という結論が導き出されます。この調査をもとに、おそらく女性に対する「支援・教育」のための予算が増えます。(それを担うのはおそらくフェミニストでしょう)これについて、私は裏付けを持っていません。しかし、ざっとこう推測してフェミニズムのバイアスのかかった調査だとみなしています*1
 私は性暴力やDVの問題については、こうしたフェミニスト・アプローチによる「支援・教育」には懐疑的です。こうした暴力は常に社会構造の中で起きます。貧困や民族差別と切り離して考えることはできません。先進国と発展途上国の、EU内の経済格差はいまだに大きく残っているわけですが、その影響は性暴力やDVの問題に及んでいます。また、性暴力やDVは、それぞれの地域の社会や文化と絡み合って起きています。一概に発展途上国は性暴力やDVが多いという視線を、先進国側が向けること自体が、暴力的に働くことがあります。
 当然ながら、「女性に対する暴力」の調査を行い、女性に対する「支援・教育」に対する予算を増やしていくことは、必要があるから行われており、私も異論はありません。そのためにはエビデンスが必要です。EUはそのための資金を提供しているので、とても良いことです。しかしながら、国家間の格差の解消や、文化の多様性の尊重の問題については後退せざるを得ません。何度も書きますが、私は統計調査は必要だと考えています。他方、こうした調査を「進んでいる」とは表現しません。

(2)統計調査では母数が重要であること

 (1)のような留意点はあるものの、EUが「進んでいる」とすれば、このような大規模調査を行うことができることでしょう。EUの調査は、EU加盟国の全土で行われています。こうした調査が行えるというのは、それだけ統計調査の重要性と、DVや性暴力についての深刻さが認知されているということです。このことについて、EUが「進んでいる」ということについては同意します。
 EUに対して、日本で行われた今回の調査は、関西地域にとどまり、調査サンプルの母数は2448人です。有効回答率が30.3パーセントであり、有効回答票は741件です。非常に限定された調査であり、日本のごく一部の地域でしか実施されていません。その理由は予算の不足であるため、私は今回の調査の限界であったと認識しています。しかしながら、どうしても関西地域のみの母数741件の調査と、EU全土で行われた調査を比較するのは難しいものがあります。
 たとえば、この調査でもっとも顕著な結果であるのは、「パートナーから受けた最も深刻な暴力を通報した女性は0%(53人中0人)である」という点でしょう。EU全体の調査では14パーセントが通報しているのに比べると、衝撃的な値だと言って良いと思います。日本ではパートナーの暴力が起きた場合、「誰も警察に通報していない」ということです。これは日本の「女性に対する暴力」の被害者が通報できないという困難を示しています。しかしながら、その回答数は「53人」です。統計調査は数が多ければ良いというわけではないですが、100に満たない回答数というのは、かなり厳しいものがあります。
 2017年度の内閣府調査*2によれば、日本で配偶者からの暴力*3を「警察に連絡・相談した」という女性の被害者は2.8パーセントいます。もちろん高い数値ではありませんし、EUの調査と(本来は直接的には比較できませんが)比べても大変低い値です。しかしながら、ゼロではありません。内閣府調査は全国で行われ、母数は5000人で、有効回答率は67.5パーセントであり、回答者は3376人(うち女性1807人)です。「配偶者からの暴力の相談先」を聞かれて回答したのは、650人(うち女性427人)です。調査方法は違うことを差し引いても、母数を増やせばさすがに通報率0パーセントということはなくなります。
 どちらの調査でも、日本では「パートナーから受けた暴力」を警察に通報する女性はきわめて少ないという傾向は見て取れます。他方、今回の津島さんたちの調査が小規模なものにとどまり、有効回答数が十分ではないことも言えます。そもそも、EU内の国家比較のためのデータを、EU全体との比較にできるのかどうかも疑問です*4。これらを踏まえると、あえて私がEUの調査が進んでいる点というと、統計調査に予算をしっかりつけるところです。

(3)調査方法は一長一短であること

 先ほど紹介した江口さんの記事では、内閣府調査は質問紙形式であり、質問項目も不備があると指摘されています。私はそれも同意するところで、こうした繊細な暴力の調査は訓練を受けた調査員が丁寧に聞き取りをしたほうが良いでしょう。その点で、津島さんたちの調査は非常に優れたものです。
 しかしながら、こうした丁寧な調査はお金もかかりますし、調査者も多大な労力を費やすことになります。そのため、調査地域も限定されますし、継続調査が難しいという問題が出てきます。性暴力やDVの統計調査は、実数の多寡を推測すること以上に、経年変化を見ることに大きな意義があります。経年的に見ても、同程度の回答数が続けばある程度の確度のある調査だとみなせるでしょう。回答数に変化があればその理由の分析が必要になります。
 私も内閣府調査には改善の余地はあると思います*5が、「日本全国の調査であり、回答数がある程度は確保されているところ」「経年変化を見ることができるところ」は非常に大事です。それに、男性の被害の調査も始まっており、これ以降も改善が望めます。
 調査は常に人的資源とお金の問題がつきまとうので、完璧なものを目指すことは意味がないとは思います。他方、単純に「こちらが進んでいる」「こちらは遅れている」と言えるほど、単純でもありません。私自身は、現段階では、内閣府調査も、回答数が十分にあるという点では有用だと考えています。(もちろん、津島さんたちの調査にもっとお金がついて、大規模に行われればそれが一番良いと思いますが、現実的判断としては難しいでしょう)

(4)調査結果の解釈には恣意性が常につきまとうこと

 最後に、今回の統計調査について「被害女性の回答の割合が高い国は、被害実数が多いのではなく、支援・教育が行き届いているために、調査でも被害について話しやすいのだろう」という解釈について、賛否が分かれたようです。私は前の記事で詳しく述べましたが、この解釈を支持しています。津島さんもセミナーで、EU内の国家比較の場合には、この解釈に同意していました。だからこそ、私は「なぜ、日本だけにこの解釈を適用しないのか」という疑問を持ちました。その点で言えば、私も津島さんも「被害女性の回答の割合が高い国は、被害実数が多いのではなく、支援・教育が行き届いているために、調査でも被害について話しやすいのだろう」という解釈は、EU内の国家比較については共有しているわけです。
 江口さんは、この解釈自体に不同意なようです。EU内の比較において、イギリスやフランス、ドイツなどの先進国のほうが、ブルガリアポーランドなどの発展途上国とみなされる国よりも、DVや性暴力の被害の割合は高く出ています。そのことから考えて、前者の方が性暴力やDVの実数が多く、支援や教育の対策も不十分であると考えているのでしょうか。もちろん、そう解釈することも可能だと思います。そうなると、私はもちろん、津島さんとも解釈を違えることになります。
 江口さんは、これだけ細かい質問項目で、丁寧に聞き取りをすれば、被害者自身が暴力に気づかないことはないと考えているようです。しかしながら、私は十分にあり得ると思います。実際に、当事者に関わっていると、本人が自分の身に起きていることを、すっぽりと忘れていることはよくあります。またいくら丁寧に質問されても「否認」することがあるのも推測できます。たとえば、セラピーでは、暴力の記憶が5年、10年かけて浮かび上がってくることがあります。なぜなら、自分の身に受けた暴力を言葉にするというのは、それだけエネルギーが必要で大変なことだからです。質問者が、共感的な調査者であっても変わりません。
 では、どうすればこのような調査の回答を促すことができるのでしょうか。それは、いくら調査設計で、面接の仕方を工夫していても限界があります。日常の中で、身近な人からの暴力に敏感になり、そのことが話せるような土壌を作っている必要があります。これは気の長い話で、一朝一夕でできることではありません。それでも調査方法を洗練させるだけではどうにもいかない部分があります*6。裏返して言えば、その丁寧な土壌づくりの成否が、逆転した結果を生むと考えるので、「被害女性の回答の割合が高い国は、被害実数が多いのではなく、支援・教育が行き届いているために、調査でも被害について話しやすいのだろう」という解釈に至ります。そのプロセスに実証データはありませんから、恣意的なものとなります。その点では、私も津島さんも、調査結果の恣意的な解釈を採用しているということです。
 以上の点は、非常に瑣末で、津島さんたちが行った統計調査の意義に比べれば小さな指摘にすぎません。私自身、統計調査については非常に素晴らしいと思っています。ただし、雑なことを言わずに、丁寧にものごとを言っていくことも大切だと思っています。批判的視座を持ちつつ、今後の調査に期待したいです。

*1:念のために書いておきますが、私はフェミニストではありますが、性暴力やDVについては微妙な立場です。王道をいくフェミニストではないので、フェミニスト中心の支援や教育には不満を持っています。(海外の研究会では私はフェミニストを名乗ることはありません。なぜなら、英語圏の主流のフェミニストの主張にはほぼ沿わないからです。王道のフェミニズムでは、私のやっている性暴力事例における修復的司法は禁忌です)それから、ここでは調査にバイアスがかかっていると書いていますが、行政組織の統計調査はなんらかの政策立案を前提に行われることが多く、それ自体は不正でもなんでもありません。戦略の一つです。

*2:http://www.gender.go.jp/policy/no_violence/e-vaw/chousa/pdf/h29danjokan-4.pdf

*3:この調査の最大の問題点は、親密な関係における暴力を、配偶者間に絞っているところです。

*4:私はこの統計調査であれば単純に、EUの国家比較の中に「関西地域」がどを埋め込むほうが適切だと思います。その「関西地域」のデータは、EU内の発展途上国と近接することがより鮮明にわかるでしょう

*5:そもそも「暴力」についての調査だと明示しているのは、大きな問題でしょう。加えて私も江口さんと同様に「なにを暴力だと思いますか」という設問は、被害者のバイアスを強める可能性があり問題だと思います。

*6:私のこのような提言は、これまでネットでは冷笑的に扱われてきました。ところが、当事者に話すと「それだ」と同意されることがよくあります。もちろん、すべての当事者がこうした気の長い話を支持するわけではないとは、思います。それでも「被害者のために」という名目で調査方法が洗練されていくのは、変な話だと思いつも感じています。