西尾学術奨励賞の受賞と授賞式

 拙著『性暴力と修復的司法』がジェンダー法学会の西尾学術奨励賞を受賞いたしました。

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

 西尾学術奨励賞は以下になります。

「西尾学術奨励賞」は、ジェンダーと法に関して優れた研究を行った若手研究者・実務家に対して与えるものです。ジェンダーと法分野の若手研究者・実務家の研究を奨励促進する目的で行っている取り組みで、2004年に始まりました。
http://jagl.jp/?page_id=337

 まさか学会賞をいただけるとは夢にも思っておりませんでしたので、自宅で受賞のお知らせをいただいたときには、「わたし?」ととっさに一人で呟いてしまいました。研究者としてはまだ経験が浅く、至らない点も多いため、賞をいただくことは恐縮ではありますが、私にとっての初めての著書を評価していただいたことを大変嬉しく感謝しております。同時に、賞の重みで身が引き締まる思いでいます。受賞を励みにして、今後の研究者人生でいっそうの努力を重ねていきたいです。本当にありがとうございました。
 12月2日に、ジェンダー法学会第16回学術大会の中で、授賞式が行われます。私も出席する予定です。

「2018年第16回学術大会の概要」
http://jagl.jp/?page_id=729

江口聡氏から自著へご指摘をいただきました。

 京都女子大学教授の江口聡氏が、自著で引用しました英語論文等の誤訳について、以下のご指摘くださっています。ここに挙げられている英語文献を日本で読んでいるのは、現時点ではおそらく私と江口さんだけです。大変な労力の元に、拙著にご指摘いただいていることに感謝いたします。

『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(1)
https://yonosuke.net/eguchi/archives/9864

 拙著は以下です。

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

 私は大学院の修士課程・博士課程で一貫して「性暴力分野における修復的司法」を専門に研究してきました。周りにほかに同じ分野の研究者はいませんでした。ひとりで一から資料を読むところからはじめました。研究して数年の間は、関連する資料がどこにあるのかもよくわかりませんでした。ヨーロッパにフィールドワークに行き、同分野の研究者から直接、教えてもらって、資料をかき集めて読みました*1
 本来ならば、私の本で「性暴力分野における修復的司法」の問題を論じ尽くすことができるのが理想ではあるのですが、残念ながらいくつも誤訳が残ってしまい大変申し訳なく思います。しかしながら、この本をたたき台にして、今後、「性暴力分野における修復的司法」の研究が進むことを心より願っています。
 いただいたご指摘については、今後、第二版等で修正する機会があれば、反映させたいと思います。江口さん、ありがとうございました。

*1:私が研究をまとめることができたのは、イギリス、アメリカ、オーストラリア、ドイツ、ベルギー、アイルランドデンマーク、その他、たくさんの国の研究者が本当に親切に関連する文献を教えてくれて、私に論文を書くように励ましてくださったからです。惜しみなくご協力くださった、みなさんのご尽力抜きには決してこの本は書けませんでした。お名前は挙げられませんが、本当に感謝しています。

性暴力・DV被害の実態調査の記事の追記

 先日、公開した性暴力・DV被害の実態調査について書いた記事が、予想以上にアクセスを集めてしまいました。該当記事は以下です。

「日本社会における「女性に対する暴力」は少ないのか?」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20181028/1540696942

 私の記事はこの統計調査は国際比較をするにはまだデータが不十分であり、確定的なことは言えないため、調査者の結論のうちの「女性に対する暴力被害は、EUと比較すると、少ない。暴力の形態に限らず,EUのほぼ半分である」の部分には同意しないと書いています。
 これが、以下のブログ記事で紹介されてネットで話題になりました。こちらの記事内では私の論が批判されています。両者を読み比べてどちらの論が妥当であるのかの判断は、読んだ方にお任せしようと思います。特に私から言うことはありません。

「日本では女性への暴力は少ないと言う調査結果に困惑するフェミニスト
http://www.anlyznews.com/2018/10/blog-post_29.html

 それはともかく、京都女子大学教授の江口聡氏のブログ記事でも、同じ調査が紹介されました。

EUの女性に対する暴力の調査はすすんでるなー」
https://yonosuke.net/eguchi/archives/9705

 こちらの記事では統計調査の詳細が丁寧に紹介されています。私自身、セミナーでこの話も聞いたのですが、取り急いで自分の論だけを書いたので飛ばしてしまいました。こうして補足記事が出るのはとてもありがたいです。
 さて、EUの調査についてですが、江口さんは「すすんでる」と書いていますが、私はそうは思っていません。私はこの調査は、一面では役に立ちますが、別の一面では誤解や偏見を強化します。なぜなら、統計調査は常に目的を持って設計されるからです。以下の点には留意が必要です。

(1)「女性に対する暴力(Violence against Women)」という語が使われていること

 先の記事にも書きましたが、この調査では「女性に対する暴力」として、調査対象者を女性に限定しています。しかしながら、性暴力やDV などの被害を受けるのは女性だけではありません。性自認が女性でない人たちもいます。また、「女性に対する暴力」という言葉で想定されやすい加害者は「男性」であることが多いため、「同性間の暴力」や「女性の加害者」の問題を見落とす危険があります。
 この調査は2012年にEUで始まっていますが、その時点で上のような指摘はすでにされていました。英語圏では「女性に対する暴力(Violence against Women)」という言葉は、「ジェンダー化された暴力(Gendered Violence)」に置き換えられることが増えています。この語は、ジェンダー構造を背景として起きている暴力一般を指し、男性が被害者であっても、こうした暴力を訴える困難の背景にはジェンダー構造があるというような含意を持ちます。しかし、このEUの調査はいまだに「女性に対する暴力」という語を用いています。
 その点から、私は次のことを類推します。すなわち、この調査はフェミニストが中心となり、「女性」に焦点を当てているということです。さらにこの調査はEU内の国の被害実態の比較をしています。そのことにより、EU内では発展途上国のほうがDVや性暴力に苦しむ女性が多く、「支援・教育が必要である」という結論が導き出されます。この調査をもとに、おそらく女性に対する「支援・教育」のための予算が増えます。(それを担うのはおそらくフェミニストでしょう)これについて、私は裏付けを持っていません。しかし、ざっとこう推測してフェミニズムのバイアスのかかった調査だとみなしています*1
 私は性暴力やDVの問題については、こうしたフェミニスト・アプローチによる「支援・教育」には懐疑的です。こうした暴力は常に社会構造の中で起きます。貧困や民族差別と切り離して考えることはできません。先進国と発展途上国の、EU内の経済格差はいまだに大きく残っているわけですが、その影響は性暴力やDVの問題に及んでいます。また、性暴力やDVは、それぞれの地域の社会や文化と絡み合って起きています。一概に発展途上国は性暴力やDVが多いという視線を、先進国側が向けること自体が、暴力的に働くことがあります。
 当然ながら、「女性に対する暴力」の調査を行い、女性に対する「支援・教育」に対する予算を増やしていくことは、必要があるから行われており、私も異論はありません。そのためにはエビデンスが必要です。EUはそのための資金を提供しているので、とても良いことです。しかしながら、国家間の格差の解消や、文化の多様性の尊重の問題については後退せざるを得ません。何度も書きますが、私は統計調査は必要だと考えています。他方、こうした調査を「進んでいる」とは表現しません。

(2)統計調査では母数が重要であること

 (1)のような留意点はあるものの、EUが「進んでいる」とすれば、このような大規模調査を行うことができることでしょう。EUの調査は、EU加盟国の全土で行われています。こうした調査が行えるというのは、それだけ統計調査の重要性と、DVや性暴力についての深刻さが認知されているということです。このことについて、EUが「進んでいる」ということについては同意します。
 EUに対して、日本で行われた今回の調査は、関西地域にとどまり、調査サンプルの母数は2448人です。有効回答率が30.3パーセントであり、有効回答票は741件です。非常に限定された調査であり、日本のごく一部の地域でしか実施されていません。その理由は予算の不足であるため、私は今回の調査の限界であったと認識しています。しかしながら、どうしても関西地域のみの母数741件の調査と、EU全土で行われた調査を比較するのは難しいものがあります。
 たとえば、この調査でもっとも顕著な結果であるのは、「パートナーから受けた最も深刻な暴力を通報した女性は0%(53人中0人)である」という点でしょう。EU全体の調査では14パーセントが通報しているのに比べると、衝撃的な値だと言って良いと思います。日本ではパートナーの暴力が起きた場合、「誰も警察に通報していない」ということです。これは日本の「女性に対する暴力」の被害者が通報できないという困難を示しています。しかしながら、その回答数は「53人」です。統計調査は数が多ければ良いというわけではないですが、100に満たない回答数というのは、かなり厳しいものがあります。
 2017年度の内閣府調査*2によれば、日本で配偶者からの暴力*3を「警察に連絡・相談した」という女性の被害者は2.8パーセントいます。もちろん高い数値ではありませんし、EUの調査と(本来は直接的には比較できませんが)比べても大変低い値です。しかしながら、ゼロではありません。内閣府調査は全国で行われ、母数は5000人で、有効回答率は67.5パーセントであり、回答者は3376人(うち女性1807人)です。「配偶者からの暴力の相談先」を聞かれて回答したのは、650人(うち女性427人)です。調査方法は違うことを差し引いても、母数を増やせばさすがに通報率0パーセントということはなくなります。
 どちらの調査でも、日本では「パートナーから受けた暴力」を警察に通報する女性はきわめて少ないという傾向は見て取れます。他方、今回の津島さんたちの調査が小規模なものにとどまり、有効回答数が十分ではないことも言えます。そもそも、EU内の国家比較のためのデータを、EU全体との比較にできるのかどうかも疑問です*4。これらを踏まえると、あえて私がEUの調査が進んでいる点というと、統計調査に予算をしっかりつけるところです。

(3)調査方法は一長一短であること

 先ほど紹介した江口さんの記事では、内閣府調査は質問紙形式であり、質問項目も不備があると指摘されています。私はそれも同意するところで、こうした繊細な暴力の調査は訓練を受けた調査員が丁寧に聞き取りをしたほうが良いでしょう。その点で、津島さんたちの調査は非常に優れたものです。
 しかしながら、こうした丁寧な調査はお金もかかりますし、調査者も多大な労力を費やすことになります。そのため、調査地域も限定されますし、継続調査が難しいという問題が出てきます。性暴力やDVの統計調査は、実数の多寡を推測すること以上に、経年変化を見ることに大きな意義があります。経年的に見ても、同程度の回答数が続けばある程度の確度のある調査だとみなせるでしょう。回答数に変化があればその理由の分析が必要になります。
 私も内閣府調査には改善の余地はあると思います*5が、「日本全国の調査であり、回答数がある程度は確保されているところ」「経年変化を見ることができるところ」は非常に大事です。それに、男性の被害の調査も始まっており、これ以降も改善が望めます。
 調査は常に人的資源とお金の問題がつきまとうので、完璧なものを目指すことは意味がないとは思います。他方、単純に「こちらが進んでいる」「こちらは遅れている」と言えるほど、単純でもありません。私自身は、現段階では、内閣府調査も、回答数が十分にあるという点では有用だと考えています。(もちろん、津島さんたちの調査にもっとお金がついて、大規模に行われればそれが一番良いと思いますが、現実的判断としては難しいでしょう)

(4)調査結果の解釈には恣意性が常につきまとうこと

 最後に、今回の統計調査について「被害女性の回答の割合が高い国は、被害実数が多いのではなく、支援・教育が行き届いているために、調査でも被害について話しやすいのだろう」という解釈について、賛否が分かれたようです。私は前の記事で詳しく述べましたが、この解釈を支持しています。津島さんもセミナーで、EU内の国家比較の場合には、この解釈に同意していました。だからこそ、私は「なぜ、日本だけにこの解釈を適用しないのか」という疑問を持ちました。その点で言えば、私も津島さんも「被害女性の回答の割合が高い国は、被害実数が多いのではなく、支援・教育が行き届いているために、調査でも被害について話しやすいのだろう」という解釈は、EU内の国家比較については共有しているわけです。
 江口さんは、この解釈自体に不同意なようです。EU内の比較において、イギリスやフランス、ドイツなどの先進国のほうが、ブルガリアポーランドなどの発展途上国とみなされる国よりも、DVや性暴力の被害の割合は高く出ています。そのことから考えて、前者の方が性暴力やDVの実数が多く、支援や教育の対策も不十分であると考えているのでしょうか。もちろん、そう解釈することも可能だと思います。そうなると、私はもちろん、津島さんとも解釈を違えることになります。
 江口さんは、これだけ細かい質問項目で、丁寧に聞き取りをすれば、被害者自身が暴力に気づかないことはないと考えているようです。しかしながら、私は十分にあり得ると思います。実際に、当事者に関わっていると、本人が自分の身に起きていることを、すっぽりと忘れていることはよくあります。またいくら丁寧に質問されても「否認」することがあるのも推測できます。たとえば、セラピーでは、暴力の記憶が5年、10年かけて浮かび上がってくることがあります。なぜなら、自分の身に受けた暴力を言葉にするというのは、それだけエネルギーが必要で大変なことだからです。質問者が、共感的な調査者であっても変わりません。
 では、どうすればこのような調査の回答を促すことができるのでしょうか。それは、いくら調査設計で、面接の仕方を工夫していても限界があります。日常の中で、身近な人からの暴力に敏感になり、そのことが話せるような土壌を作っている必要があります。これは気の長い話で、一朝一夕でできることではありません。それでも調査方法を洗練させるだけではどうにもいかない部分があります*6。裏返して言えば、その丁寧な土壌づくりの成否が、逆転した結果を生むと考えるので、「被害女性の回答の割合が高い国は、被害実数が多いのではなく、支援・教育が行き届いているために、調査でも被害について話しやすいのだろう」という解釈に至ります。そのプロセスに実証データはありませんから、恣意的なものとなります。その点では、私も津島さんも、調査結果の恣意的な解釈を採用しているということです。
 以上の点は、非常に瑣末で、津島さんたちが行った統計調査の意義に比べれば小さな指摘にすぎません。私自身、統計調査については非常に素晴らしいと思っています。ただし、雑なことを言わずに、丁寧にものごとを言っていくことも大切だと思っています。批判的視座を持ちつつ、今後の調査に期待したいです。

*1:念のために書いておきますが、私はフェミニストではありますが、性暴力やDVについては微妙な立場です。王道をいくフェミニストではないので、フェミニスト中心の支援や教育には不満を持っています。(海外の研究会では私はフェミニストを名乗ることはありません。なぜなら、英語圏の主流のフェミニストの主張にはほぼ沿わないからです。王道のフェミニズムでは、私のやっている性暴力事例における修復的司法は禁忌です)それから、ここでは調査にバイアスがかかっていると書いていますが、行政組織の統計調査はなんらかの政策立案を前提に行われることが多く、それ自体は不正でもなんでもありません。戦略の一つです。

*2:http://www.gender.go.jp/policy/no_violence/e-vaw/chousa/pdf/h29danjokan-4.pdf

*3:この調査の最大の問題点は、親密な関係における暴力を、配偶者間に絞っているところです。

*4:私はこの統計調査であれば単純に、EUの国家比較の中に「関西地域」がどを埋め込むほうが適切だと思います。その「関西地域」のデータは、EU内の発展途上国と近接することがより鮮明にわかるでしょう

*5:そもそも「暴力」についての調査だと明示しているのは、大きな問題でしょう。加えて私も江口さんと同様に「なにを暴力だと思いますか」という設問は、被害者のバイアスを強める可能性があり問題だと思います。

*6:私のこのような提言は、これまでネットでは冷笑的に扱われてきました。ところが、当事者に話すと「それだ」と同意されることがよくあります。もちろん、すべての当事者がこうした気の長い話を支持するわけではないとは、思います。それでも「被害者のために」という名目で調査方法が洗練されていくのは、変な話だと思いつも感じています。

日本社会における「女性に対する暴力」は少ないのか?

追記:
以下のサイトで最初は「ジェンダー社会学者」という肩書きになっていたのですが、「フェミニスト」にご変更いただきました。

日本では女性への暴力は少ないと言う調査結果に困惑するフェミニスト
http://www.anlyznews.com/2018/10/blog-post_29.html


 昨日、龍谷大学で行われた犯罪学のセミナーに参加してきた*1。テーマは日本社会における「女性に対する暴力」で、2016年に行われた統計調査をもとに分析がなされるということで、大変楽しみにしていた。報告者は、調査を実施した一人である津島昌寛氏で、直接、その報告を聴くことができた。概要については、以下のサイトからワードファイルでダウンロードできる。

龍谷大学社会学部 津島昌寛教授と法学部 浜井浩一教授が女性に対する暴力被害の実態として「女性の日常生活の安全に関する調査」(2016)の調査結果を発表
https://www.ryukoku.ac.jp/nc/news/entry-860.html

 これは、EUが実施している「女性に対する暴力*2」の日本版調査である。同様の調査を日本で行うことで、「女性に対する暴力」の国際比較研究ができることになった。非常に重要な調査である。EU版の調査結果は以下のサイトで閲覧できる。

Violence against women survey
http://fra.europa.eu/en/publications-and-resources/data-and-maps/survey-data-explorer-violence-against-women-survey?mdq1=theme&mdq2=3506

 このセミナーで、私は一点だけ疑問を持ったので、そのことをメモがわりに書いておきたい。津島さんの分析では、日本社会において「女性に対する暴力被害は、EUと比較すると、少ない」と結論づけている。その点については、調査概要のワードファイルにも以下のように記されている。

女性に対する暴力被害は、EUと比較すると、少ない。暴力の形態に限らず,EUのほぼ半分である。
https://www.ryukoku.ac.jp/nc/archives/001/201708/記者発表の概要.docx

 確かにデータ自体では、日本社会で暮らす女性が性暴力やDVを受けていると回答する割合が低い。しかし、性暴力やDVの問題で、重要なのは「暗数」である。
 たとえば、EUの調査のデータを見ると、「女性に対する暴力」の割合は、北欧・フランス・ドイツなどのいわゆる「先進国」では高く出て、東欧などの「発展途上国」とみなされる国は低く出る。では、前者は「女性に対する暴力」が蔓延している社会なのだろうか。こういうデータについては、通説として、女性の人権が守られ、十分に性暴力やDVの知識が広まっている国では、被害者が「自分は暴力を受けている」と認知するのがたやすくなる。他方、性差別が強く性教育が行き届いていない国では、被害者が自分が暴力を受けていてば、それに気づかず、「暴力であること」自体を認知できない。つまり、「自分は不当に扱われている」ということを自覚しにくいのである。そのため、「女性に対する暴力」の割合が高い国は、「女性に対する暴力」についての情報発信や支援制度の樹立が進んでいると解釈されるのである。
 これについては、津島さんはEUのデータについては、私と解釈を同じくしていた。そうであるならば、「女性に対する暴力」の割合が低く出る日本もまた、暴力の実数が少ないのではなく、「女性に対する暴力」についての対策が遅れている国ということになるはずだと、私は考える。そして、その認識については、多くのDVや性暴力の被害者支援に関わる人たちは肯首するだろう。
 何をもって「進んでいる」「遅れている」というのかは難しく、DVや性暴力は文化や社会構造の影響が大きいため一概に「こういう対策を取るべき」だとは言えないが、北欧・フランス・ドイツなどの「女性に対する暴力」の割合が高い国に比べて、日本の対策が十分だという人はほとんどいないだろう。日本にはレイプクライシスセンターも少なく、被害者の支援をする専門家の数も足りず、刑務所の加害者治療のプログラムは始まったばかりであり、DVについては加害者を拘束するための実効的な法制度が乏しい。私は「女性に対する暴力」については「日本は発展途上国である」と認識されたとしても、異論はない。
 私のその指摘に対して、津島さんは、日本の調査では女性が「自分の被害」だけではなく「身近な人の被害」についても「聞いたことがある」と答える割合が低いことから、日本社会においては「女性に対する暴力被害は、EUと比較すると、少ない」ことが裏付けられると説明する。調査概要のワードファイルには以下のように記されている。

4人に1人の女性が、親戚・友人など自分の周りで、DVの被害にあった女性を知っている。23%の女性が、親戚・友人など自分の周りで、DVの被害にあった女性を知っている(図17)。先の自分自身の暴力被害の申告(被害)率にくわえて、EUと比較すると少ないことから、日本における女性に対する暴力の被害がEUよりも少ないことが読み取れよう。
https://www.ryukoku.ac.jp/nc/archives/001/201708/記者発表の概要.docx

 その理由として、津島さんは、暴力を受けている女性は、自分自身の被害については話すことが難しくても、他人の被害であれば話せるはずであることを挙げていた。だから、日本で暮らす女性が、自分の被害だけではなく、他人の被害についても身近に聞いた経験の割合が低いことは、「女性に対する暴力被害は、EUと比較すると、少ない」ことを裏付けるとするのである。
 しかしながら、以下の三点によって私はその解釈は採用できないと考える。
 まず一点目は、論理的な理由である。「自分の被害経験を話す女性が少ない」ということは、「周りの女性が他人の被害経験を耳にする機会が減る」ということである。性暴力やDVの特徴は、多くが密室で行われ、証人がほとんどいないことである。(このことが裁判での立証を難しくしている)そのため、被害を受けた女性本人が話さなければ、周りはその人に何がおきたのかを知らない。だから、論理的に考えると、「自分の被害経験を話さない」社会であることは「他人の被害経験を聞く機会が少ない」社会であることである。ここから、このデータからは「女性に対する暴力被害は、EUと比較すると、少ない」のではなく、「女性に対する暴力被害への対策がEUに比べて日本は不十分である」という結論が導かれることになる。
 次に二点目は、実態的理由である。「暴力を受けている女性は、自分自身の被害については話すことが難しくても、他人の被害であれば話せるはずである」ことを裏付けるデータは全くないことである。そもそも性暴力やDVの知識が十分にない人は、自分であっても他人であっても、おきている事態が暴力であることに気づかないだろう。苛烈な環境で生まれ育った女性が、自らの周囲は暴力に満ちていたが、それが当たり前すぎて暴力であると気づいていなかったと語ることは、支援現場ではよくある。そういう状況にある女性は、身近な女性が暴力について語っていても、それが暴力だとは気づかない。その結果として、今回の調査でも「身近な女性が暴力に受けているところを見聞きしたことはない」と(他の人が見ると見聞きしていると認識するにもかかわらず)答えている可能性がある
 さらに、暴力には「否認」の問題がある。自分の身に起きたことを暴力であると認識することで、被害者は精神的に厳しい状況に追い込まれることがある。そのため、被害者は意識的または無意識的に「これは暴力ではない」と思い込む。その結果、自分に起きた暴力も、他人に起きた暴力も、暴力と認識されない。今回の調査でも、そういう状況にある女性は「身近な女性が暴力に受けているところを見聞きしたことはない」と回答している可能性がある。(付け加えると、この「否認」は暴力を受けている人が用いるサバイバルスキルの一つであり、否定されるようなものではない)
 最後に三点目に、統計的な理由である。もし、身近な女性対する暴力を、女性が耳にする機会が少ないというデータが、「女性に対する暴力」の実数が少ないことを裏付けられるならば、それは国際比較調査によって実証されなければならない。つまり、「女性に対する暴力」への対策が十分だとみなされる北欧・フランス・ドイツなどでは、「本人の被害経験」の割合は高いが、「身近な女性の被害経験を聞く機会」の割合は低くなければならない。それに加えて、発展途上国とされる国では、「本人の被害経験」の割合は高いが、「身近な女性の被害経験を聞く機会」の割合は高くなければならない。この比例・反比例の関係が成り立っているときに、日本だけが「本人の被害経験」と「身近な女性の被害経験を聞く機会」の割合が低いとすれば、その特異性の理由がさらに分析されなければならない。ここについては、FRAが公開しているEU版の調査結果では詳細がわからないので私は比較できなかった。
 以上の三点により、私は、「女性に対する暴力被害は、EUと比較すると、少ない」という津島さんの分析には賛同しない。
 しかしながら、これだけ踏み込んだ性暴力・DVの統計調査が行われたことは非常に重要であるし、ぜひこの問題に関わる人の間では共有していきたいと思う。

*1:セミナーはこちら→ http://www.ryukoku.ac.jp/nc/news/entry-2316.html

*2:この「女性に対する暴力(violence against women)という単語は、非常に問題があると思う。これは、女性以外の被害者や、同性間暴力の被害者を不可視化するからである。近年では英語圏では議論になっているはずだが、いまだにEUでこの調査が行われているのは驚いた

ネットで嘲笑すること/されること

 ある事件が起きて、ネット上でどのように振る舞うのかが話題に上がっている。特に、相手を「嘲笑すること/されること」がクローズアップされている。

「古来からのネット作法に総括を迫られているのかもしれない」
http://zaikabou.hatenablog.com/entry/20180625/1529890030

はてな界隈の「いじり」「いじめ」のダブルスタンダードが酷すぎる」
https://anond.hatelabo.jp/20180626141122

 私はこのブログで、かつて激しく「嘲笑される」経験を積み重ねていたので、メモがわりに書いておきたい。当時の「私を嘲笑する記事」はもうどこにあるのか知らないし、その人たちの行方も知らない。たぶん、まだネットにはいるのだろうが、その人たちを責めるつもりはない。
 私がやられた方法はこんなふうだった。別のブログ記事やアノニマスダイアリーに、私の記事の一言一句をあげつらった文章を書き、不備を指摘したり、わざと誤読や曲解をして、笑いを取る。「バカ」などの攻撃的な言葉が繰り返し書いてあることもあった。しつこくトラックバックが送られてきて、その記事を見に行くと、ブックマークコメントがついていて、「書き手とともに私のことを嘲笑する人たちのコメント」が並んでいるのが目に入ってくる。私はその記事を閉じて、できるだけ心に深く留めないように意識した。平常心を保つのが一番大事だとわかっている。ネット上では、無視したり、平気な顔をしたりしていた。なぜなら、動揺していることを知られれば、かれらの攻撃がもっと強くなることを知っていたからだ。
 なぜ、平気な顔ができたかというと、私はこう考えていたからだ。「この問題は、私の問題ではない。かれらの内面に問題がある」この対応は、私は実は支援職の養成講座で学んだ。理不尽な怒りや攻撃を受けた時に、自分の中に理由を探すのではなく、「これはおそらく相手の問題だ」と考え、感情に巻き込まれないように自分の感情をコントロールする*1。私にとってかれらの「嘲笑」は理不尽であったので、「何かかれらは問題を抱えているのだろう」というふうに理解することで心理的な距離を保った。そもそも、私のブログ記事に論理的または思想的に問題があるならば、嘲笑するのではなく、正面から批判をすれば良い。それができないのは、「能力がない」か「自信がない」かのどちらかだろうと私は判断した。他に理由があるとしても、それは私の問題ではない。
 他方、「私を嘲笑する記事」に集まって、同調して嘲笑する人たちにも、何か抱えているものがあるのだろうと考えていた。私自身、他人を嘲笑することはある。他人をこき下ろして笑ったりしている。私が嘲笑する相手は、たいてい、自分にとって地位や権力、実力その他で、「物申せない相手」である。学生時代に学校の教員を友人たちと笑い者にしたことはないだろうか。あれは、教員と学生の間の絶対的な権力関係があるからこそ、そこから逃れようとする抵抗の振る舞いが「嘲笑」という形で現れているのである。当時、無名のブログの書き手であった私に対して、なぜ、かれらがそんな振る舞いをかれらがしていたのはわからない。「よっぽど辛いのだろう」と私は考えていた。
 以上のような私の考えが、当時の「私を嘲笑する人」の心理を的確に分析していたかどうかはわからない。単純に自分が攻撃されている時に防衛反応として、合理化を行なっていたようにも思う。それでも、私がこういうふうに考えて、「嘲笑されること」を受け流しており、決して「平気」でもなかったし、楽しんでいるわけでもなかったことを書いておこうと思った。別に私は精神的に強い人間でも、冷静な人間でもない。「他人を見下すこと」に長けていたから、乗り切れただけだ。言いたいことは「他人を嘲笑することはよくない」というそれだけの話である*2

*1:逆に言えば、この支援職の振る舞いは、自らの二次加害を隠蔽し、クライアントの異議申し立てを「相手の心理的問題」に還元するという点で非常に危険だ。特にDVや性暴力の被害者支援では、こうした支援者の無意識の癖が二次加害を引き起こしていると私は考えいている。諸刃の剣だ。

*2:念のため言っておくが、それでも人間は他人を嘲笑するだろう。私もきっと嘲笑する。それでもよくないことなのである。嘘をつくのがよくないことと同じである。

原一男監督「ニッポン国VS泉南石綿村」

 原一男監督「ニッポン国VS泉南石綿村」を試写で観た。
 泉南地域はかつて石綿紡績業が盛んだった。石綿アスベスト)は断熱材、防火財、機械の摩擦防止のためにあちこちで使われ、日本の経済成長を支えた天然鉱物である。しかしながら2005年の「クボタショック」をきっかけに、全国的に石綿産業に関わった人たちの健康被害が明らかになった。石綿は防塵に混じって吸い込まれ、肺に突き刺さって20年以上の時間をかけて肺がん、中皮腫などの重い病気を引き起こす。泉南地域の人たちも石綿健康被害を訴えて国家賠償を求める運動を展開していく。
 この作品はそうした泉南泉南アスベスト国賠訴訟の運動を追ったドキュメンタリー映画だ。高齢の原告の中には在日朝鮮人・韓国人で、他地域で差別され流れてきた移住者もいる。これまで社会運動に縁のなかった労働者とその家族が集まって、自分たちの手で補償を勝ち取ろうと立ち上がる。裁判は二転三転し、最高裁で勝訴するまで八年半がかかった。その長い時間で原告たちは「普通の市民」から「活動家」へ変身していく。
 その代表が「泉南地域の石綿被害と市民の会」を結成した柚岡さんだ。柚岡さんは祖父が石綿工場がやっていたという経緯があり、被害のことを知って罪悪感に駆られていた。そこから、原告の支援活動を始めるが、訴訟の弁護団との関係の中で苦闘する。弁護団側は法廷闘争のために、原告の発言を抑制したり、マスコミ向けにコメントを「こう言って欲しい」と原告に頼んだりして、勝つための戦略をとっていく。柚岡さんはその中で「被害者はもっと自分の言葉で直接、話したいはずだ」と考えて、総理官邸や厚労省に突撃して面会を求める。しかし、拒まれてあえなく失敗に終わり、弁護団に勝手な行動をとったとして批判される。それでも、運動が進むうちにだんだんとベテランの活動家のようになっていき、行政交渉では机を叩いて官僚を罵倒し始める。最後には国側に目をつけられて、大事な会場からも締め出されてしまった。弁護団との対立はあったものの、柚岡さんが運動の中心にいたことは間違いない。最高裁の判決後の総会で賠償金を分配するときにも、弁護団も含めてみんなで話し合い、そのときに仕切っているのは柚岡さんだ。揺れに揺れる原告団をまとめた立役者なのである。
 原告の岡田さんは、幼少時に母親が働く石綿工場で育ったため年若くして健康被害が出てしまった。作品の冒頭では「子どもの重荷になりたくない」と涙ながらに語り、同じく健康被害に苦しむ自分の母親に向かって「私の方が先に死ぬ」と告げる。しかし、原告として運動を展開する中で、体の不調をおして活躍し、韓国の石綿鉱山の視察にまで参加する。母親が係争中に亡くなってしまうが、そのあとは息子が一緒に運動に付き添うようになった。最後の最高裁判決では補償対象から外されてしまうが、原告のスピーチをすることになる。弁護団に指示されたマスコミ向けのスピーチ原稿は、決して納得していないということをにおわせながらも、笑いながらカメラに向かってうまく煙に巻くコメントをしてみせる。すっかり、酸いも甘いも噛み分けたしたたかな活動家の顔になっているように見えた。判決後も「これで終わりじゃない」とまだ続く運動を見据えたコメントをしている。
 私の印象に残った原告は、石綿工場で勤めていた夫を亡くした佐藤さんだ。佐藤さんの夫は、石綿工場で働いてきたことを誇りにし、裁判には乗り気ではなかった。それでも佐藤さんは、夫の病の原因が石綿である以上、その苦しみを訴えずにはいられないとして活動に参加した。夫が亡くなった後に、共同代表として原告団をまとめ上げていく。しかしながら、最高裁の判決では、佐藤さんの夫は補償対象から外された。マスコミ向けには笑顔で「それでも原告団として勝てて嬉しいです」と語って見せたが、翌日の街頭演説ではマイクを握りしめ、泣きながら絶叫する。
「私が欲しいんはお金じゃない」
 そう叫びながら亡き夫への想いを語る。そして、佐藤さんは泣き崩れて、本当は「勝てて嬉しい」という心境ではなく、無念さで苦しいことをカメラに向かって吐露する。原監督はその彼女に向かって「その気持ちを言った方がいい」と促すが「それはできない」と拒む。「私は共同代表だから、背中にいっぱい原告を背負ってるから」と泣きながら最後まで義を貫こうとする。
 私はこの場面で、これまで自分が関わってきた様々な運動の当事者の顔が浮かんできて、涙が止まらなくなってしまった。佐藤さんだって、最初からこうだったわけではないだろう。志半ばにして亡くなった仲間、今日この場に来られなかった仲間、本当は訴えたいけど黙って耐えている仲間。そういう仲間の顔が浮かぶ限り、自分の感情に任せて運動を批判することはできない。自分の夫のための闘いは、いつの間にか「みんなための闘い」になり、自分は殺さざるをない。だけど、それが辛くないわけがない。きっと社会運動に携わる人が何度も直面する当事者の悲鳴だろう。
 他方、佐藤さんの場合、このあと話は思わぬ方向に転がっていく。最高裁判決の後、塩崎厚労相泉南を謝罪のために訪問する。弁護団は形だけの塩崎さんの謝罪に色めき立つ。ところが、塩崎さんが退場するとき、佐藤さんは呼び止めて駆け寄って頭を下げて「ありがとうございました」と礼を言う。どうやら塩崎さんと手紙でやりとりをしたらしい。その後のインタビューで、佐藤さんは塩崎さんが自分の気持ちを受け止めてくれたことに感激し、もう怒りはないと語るのである。
 このことについて、原監督は上映後のトークで撮影しながら佐藤さんに対して「嘘でしょ」と思ったことを率直に述べている。原監督にとっても塩崎さんの謝罪はパフォーマンスにすぎないように感じられていた。手紙のやり取りだけで佐藤さんから怒りが消えたことは信じがたいと語っている。だが、私はあの場面はとてもよくわかるように思った。佐藤さんは、原告団のために正義を語りながらも、自分の中にある「夫の被害を認めて欲しい」という個人的な思いは抱えてきていた。たとえ補償の対象にならなくても、その苦しみを加害者が認めることは何者にもかえがたいものだろう。やっと自分の声が聞かれて、応答してもらえたという気持ちがあるのではないか。被害者にとって、無視され、なかったことにされてきた被害を、加害者が認めることは大きな意味がある。そのときの「被害者としての佐藤さん」は、「共同代表の佐藤さん」ではなく、「夫を亡くした妻としての佐藤さん」、つまり「ただの私」としての佐藤さんである。 
 泉南アスベスト国賠訴訟の原告や支援者は、みんな「普通の市民」から「活動家」に変身しても、もともとの「ただの私」である「普通の市民」の自分を見失わない。そのことが、この運動を豊かにした理由の一つだと私は思う。国の安全管理の不徹底により、苦しい病気になり家族を喪ったとしても、人を信じ地域で暮らす市民であることをやめない。それは、この人たちがずっと毎日の生活を地道な労働で積み上げてきた生活者だからだ。ここに「普通の市民」の矜持はある。
 原監督は上映後のトークで、自作について、かつては「表現者」を撮影したいと思っていたと語った。原監督の定義によれば、突出した才によって社会のはみ出し者となり、自分の生活範囲を越えて、世界を変えていくのが「表現者」である。それに対して「生活者」は、自分とその家族の生活範囲の幸せを守る。その原監督の構図を借りれば、この作品は「生活者」が「表現者」に変容する物語として観ることができる。しかし、原監督は「生活者を問わねばならない」とトークで語っていたが、私は問われるべきは「生活者」ではなく「表現者」ではないかと思う。つまり、映画を撮られる側/観る側ではなく、映画を撮る側が問われるのではないか。
 「生活者」は地道に生活するところに本質がある。そうであるならば、「生活者」を撮る方法は二つだ。一つ目は撮影者が「生活者」の生活にどっぷりと浸ってしまうことだ。共に生活し、生活者の一員となりながら撮影をする。原監督の作品は、生活を撮る部分はあれども、やはり訴訟運動に焦点があたり、「生活者」に寄り添った作品としては、私は観ることができなかった。二つ目は「表現者」として「生活者」の生活に意味づけをすることである。私は芸術表現とは「言語化できないものを、非言語的に象徴化し普遍性を持たせること」だと考えている。原監督の作品は、明確に象徴化が行われたとは言えないと思う。ここまで書いてきたように、ある程度、構造化すれば読み取れるものはあるが、クリアではなかった。私は原監督がこの作品で何を成し得たのかがわからない。達成はないままに完成に至ったのかもしれない。
 3時間半以上の長い作品だが、少しもだれることはなく集中して観ることができる。また、泉南アスベスト国賠訴訟の素晴らしい記録になっており、原監督がいてこそこれだけの厚みのある映像が残ったのだと思う。記録映画としては大変に貴重なものだと思うし、社会運動についての学習用資料としてもとても良いだろう。その一方で「映画ってなんだろう」という疑問が残ったことも確かだ。ドキュメンタリー映画で何を撮り、何を観るのか。あんまりにも素朴な問いが、観終わった後に一番に浮かんできた。

平鳥コウ「JKハルは異世界で娼婦になった」

JKハルは異世界で娼婦になった

JKハルは異世界で娼婦になった

 この小説は「異世界」で性暴力と闘う女の子たちの物語だ。そして、「この世界」で性暴力と闘う女の子へのエールだ。作品の中では、「この世界」で女性の多くが見聞きしても「なかったことにしよう」と自分に言い聞かせている「日常生活の中で隠される暴力」が延々と描かれる。レイプ、セックスワーカーに対する暴力、慰安婦問題……そうした暴力に直面しても、この作品の中で女の子たちは生きる道を探しているし、諦めない。女の子たちはシスターフッドを信じ、優しい男の子たちの価値を信じ、社会が変わることを夢見る。そういう内容が、若い世代に向けた小説の中で明確に描かれている。
 小説の舞台は、男尊女卑の「異世界」で、ハルは生活のために娼館で働き始める。仕事を懸命にこなしながらも、「異世界」の性差別と不条理に憤る。そして、なにひとつままならない状況に置かれたハルは、雨の中で自由に遊ぶ男の子たちに心の中でこうつぶやく。

 子どもはどこの世界だってキラキラしてる。あたしもキラキラしたい。どこにいたって自分は自分だって言えるくらい強くなりたい。
 雨に降られたくらいで腐ってるあたしは、絶対にあたしらしくないんだ。
(120頁)

 このあと、ハルは男の子たちに混じって遊び始める。この場面以降、ハルはこの世界で自分の生きる意味を問うていく。ハルは「異世界」に来る前には、自分の人生を受け入れ、そこで適応していくことに専心した。ところが「異世界」にきてからは、「私はこんな世界はNOだ」と言い始める。なぜなら、「異世界」はハルにとってあまりにもあからさまに男尊女卑だったからだ。ところが、その差別への抵抗を重ねていく中で、ハルは「異世界」と「前の世界」を比較し、逆照射して「この世界(私たちが住むこの現実)」で受けていた不可視化された性差別や性暴力も浮き彫りにする。
 その意味で、この小説は児童文学の伝統的なスタイルを守っている。少女は、「異世界」に行くことで「この世界」を相対化し、「生きることの意味」を問い、自らの使命を見出そうとする。読者は主人公と一緒に物語世界を冒険する中で、自らの「この世界」に対する見え方も相対化し、変えていく。その意味で「子ども向け」の作品である。
 この小説は確かにあらも多いし、「大人の読者」は眉をひそめるかもしれない。Twitterでは、「設定の粗さ」や「文章の拙さ」が批判されていたようだ。また、性描写を見て「エロ」だと思ってしまうと、読み違えるだろう。この作品はエロ要素はほとんどない。ほとんどの性描写は男性の暴力性をつまびらかにすることに費やされている。また、読者の中には無意識に「性差別や性暴力に対する告発を避けよう」として、「これはつまらない」という感想に至る人もいるかもしれない。しかし、それはそれでいいだろう。この作品は若い読み手に向けられている。読むべきは暴力の中を生きる女の子たちだ。私はこの作品をフェミニズム小説と呼びたいが、それもまた「大人の読者」によるラベリングなので禁欲的にもなる。そんなことより、対象読者がなんの意味づけもなく「面白い小説」として、この物語の世界に入っていくことが重要だろう。そう思って、この記事でも小説の内容には立ち入らなかった。
 少しだけ感想を言えば、私もきっと若い時に読んだら「ハルやルペやキヨリたちと心の中で友達になっただろう」と思った。でも、今の私が挑むのは、魔物の森と魔王の呪いだ。それが大人になるということなのだろう。とてもよくできた構成の小説だった。